はじけてなくなる恋じゃない

「それ、好き?」

 あの声好きだな。初めてそう思ったのはもう随分前のことだ。そのせいか突然かけられた言葉にはじかれたように顔を上げてしまう。
 俺は膝の高さくらいの位置にあるかごの中の駄菓子を選んでいる途中で、声の主は俺の横に同じようにしゃがむと優しく笑った。

「名前教えてほしくて」

 声から思い浮かべたのと同じ顔が目の前にあって、つい動揺してしまった。近い。
 そのたった一瞬の出来事に驚いて、俺は思考とか呼吸とか、全身の動きがぴたっと止まってしまったような感覚に襲われる。次に息を吸い込むまでの時間がやけに長く思えた。
 それでも今なんと言われたのかを必死に思い返すと、『名前』という部分だけがはっきり浮かんでくる。幸いにも視界には手に持っている駄菓子のパッケージがあって、俺は咄嗟にそれを相手に向かって突き出した。
  
「これですか? パッチバッチ……?」
 
 しかしよく考えれば、見たらわかる商品の名前なんて聞かれるわけがない。そもそも向こうの視界にも同じものが映っていたはずだ。それなのに俺ときたら、手のひらに収まる程度の小袋に大きく書かれた『パッチバッチ』の文字を見せつけている。

「……これは、ぶどう味……です」

 気づいたところで今更引っ込めることもできず、かと言って沈黙にも耐えきれなくて、今度は聞かれてもいない情報をつけ加えてしまった。すると、焦る俺の顔を見た相手が吹きだして笑いはじめる。

「ナンパの交わし方上手いね」
「ナンパって……」
「俺、恵秀(けいしゅう)笹沼恵秀(ささぬまけいしゅう)。北高の三年。そっちは?」

 言った本人がスルーしたためナンパという言葉は聞かなかったことにして、俺は彼の自己紹介のほうに意識を向けた。
 北高の生徒だということは制服を見て知っていたし、佇まいから見て年上ではないかと思っていた。だから学年が上がったこの春にまだ制服を着ているのを見て、三年生であることは検討がついていた。
 
 つまり今俺が初めて知ったのは彼の名前だけ、ということになる。

「笹沼、さん」
 
 確かめるように名前を声に出すと、目の前で彼がゆっくり頷いた。そして訪れる一瞬の静寂。
 俺はそこで漸く自分の名前を名乗らなければいけないことを思い出した。戸惑いなのか気まずさなのか、無意味に乾いた咳が出る。コホ、と飛び出た音を俯いて誤魔化して、意を決した。
 
「えっと、南高二年……」
「うん」
(しずか)、です。矢上静(やがみしずか)

 この人……笹沼さんと、面と向かって話すのはこれが初めてだ。けれどもう年単位で、彼とはいつもここですれ違っている。離れたところにいたり近いところにいたり、帰る姿を見かけたり会計している声を聞いたりしていた。
 俺にとってはいつも少し遠くで見ていた顔。いつも少しだけ聞こえてくる心地いい声だった。それ以上でもそれ以下でもないはずなのに、ほんの少し気になる存在。

 つい目で追ってしまう。笹沼さんは俺にとって、長い間そういう人だった。
  
 
「しずか」

 そんな人に、すぐ隣から名前を呼ばれた。呼ばれ慣れた自分の名前が、聞き慣れない不思議な音みたいに耳に残る。同時にこっちに向けられた視線を避けることもできなくて、反射的に「はい」と返事はしたものの、嬉しいのかなんなのかよくわからなかった。
 この感情は内緒で用意されたサプライズに事前に気づいてしまったみたいな、そういうむず痒さによく似ている気がする。
 
「しずか、ね。漢字?」
「あ、はい。一文字で静です」
「そっか。イメージぴったりかも」
「……そうですか」
 
 いわゆる陰キャだと思われていたんだろうなと思って素直に頷くと、笹沼さんは慌てたように首を左右に振った。

「待って、勘違いしないで。綺麗な子だなと思ってたって話だから」
「あ、え」
「じゃないとこんなとこでナンパしないし」

 本気じゃないだろうと思ったナンパという言葉が、今度はきちんと意味をもって耳に届く。
 ナンパって、なんだっけ。もしかしたら俺の知らない意味があるのかも……なんて馬鹿みたいなことを考える。でも笹沼さんは、冗談を言っているような様子じゃない。
 
「本当にナンパだったんですか……?」
「うん。俺綺麗な子が好きなんだよね」
「……」
「あれ? 言われ慣れてないわけないでしょ?」

 笹沼さんに顔を覗かれて、『やっぱりこの人顔がいいな』と思ったのを言葉にする前に飲み込んだ。
 
 俺は笹沼さんの顔がいいことにかなり惹かれていた自覚はあるが、自分の顔については正直評価しづらいところがあった。自分の顔を鏡で見て『綺麗だなぁ』なんて感想を抱くのはかなり難しい。
 とはいえ外見を褒められることが多いのは確かで、これまで生きてきた時間の中で、「そうでもない」みたいな返事をするより「ありがとう」と言っておくほうが喜ばれることにも気づいている。
 それが全部わかっていても、あまり愛想のいい反応ができないのが俺の悪いところなんだけど。

「……言われはします、けど」
「だよね。俺の人生史上一番美人だよ」
「それは言い過ぎなんじゃ……」
「そう? じゃあ俺の好みの顔ってことかな」
「……それ、喜んでいいやつですか?」
「喜んでくれると嬉しいね」
  
 にこりと人好きする笑みを向けられて、この人は世渡り上手なんだろうなと思った。こういう人は素直に尊敬する。

「……笹沼さんこそ、顔がいいですよね」
「ありがとう」

 俺と違って即答でそう答える笹沼さんの清々しさに少し笑った。まさに俺の思い描く正解の反応をごく自然に返されたこともそうだが、その顔で否定されたら確かに嫌味だなと思う。
 「よく言われてる人の返しだ」と言った俺に、笹沼さんもつられたように笑っていた。
 
「だから、って言うのも変な話だけど……俺自分からナンパしたのは初めてなんだよね。静、このあと暇? 俺の初めてのナンパが成功するかどうかが懸かってるんだけど……協力してくれない?」 
「知らない人にはついてっちゃ駄目って言われてます」
「それはそうだ。ついてかないでね危ないから」
「あの、笹沼さんのことも、よく知らないですけど……」
「恵秀でいいよ。でも静は、俺のこと前から知ってたでしょ。……それとも、気になってたのは俺だけだった?」
 
 膝を抱えるような格好をした笹沼さんに下から微笑まれる。立って並べば俺より少し背の高い彼をその角度で見るのも初めてでどきっとした。
 どうやら俺が笹沼さんのことを前から見ていたこともバレていたらしい。なんと答えるべきかわからなくて視線を彷徨わせると、目の前の人は俺の手からパッチバッチを奪っていった。

「あの、笹沼さん」
「恵秀。ね? これは今日俺の奢り。だからさ、よく知らないなんて言わないでよ。……まぁ、パッチバッチ二袋百円ちょっとでいい気になんなよって言われたらそれまでなんだけどさ」
 
 笹沼さん。……恵秀さん? のおどけたような言い方は、ちょっとかわいかった。つい笑ってしまって、すぐに口元を両手で隠す。
 
「小さいときはもっと安かったですよね」
「そうそう。パッチバッチって三十円くらいじゃなかった? 百円でぎり三つ買えてた気がするんだけど」 
「ですよね。……じゃあお言葉に甘えて」

 さっき俺の手から、……恵秀さん、が奪っていったのは、パッチバッチのぶどう味とソーダ味だ。俺はさらに売り場からコーラ味を一袋とって、恵秀さんの手に乗せる。

「三つで手を打ちます」
  
 『パッチバッチ』は弾けるキャンディの入った昔ながらの駄菓子で、味は全部で三種類ある。ちなみに俺のお気に入りはさっき突き出したぶどう味だ。
 俺が小さいときにはまだ一袋三十円で売られていたのに、この十余年で値上がりを繰り返して、今は一袋五十円くらいになってしまった。
 近頃はスーパーからも姿を消してしまって、パッチバッチを知らない子どもも増えたに違いない。

 先に選んでいたらしいいくつかの駄菓子と一緒にパッチバッチの袋を三つ抱えた恵秀さんは、俺の言動に楽しそうに笑った。

「あは。静、結構図々しい。かわいいね」
「変なこと言うと数増やしますよ」
「ごめんごめん」

 俺のしていることにも言っていることにもどこか嬉しそうに笑うこの人を見ていると、なんだか本当に自分が好意的に思われているような気がしてきてため息が出る。
 ナンパ、と言われたのに逃げもしてないんだから、心がざわつくらいは仕方ないと思ってもらおう。

「ちょっと待ってて。おばちゃーんレジお願いー」
 
 立ち上がった恵秀さんが店の奥に歩いていくのを俺は黙って見送った。この駄菓子屋はかなり前に建てられた木造住宅の一階にあるので、内装は結構ボロい。恵秀さんは、一番奥にあるカウンターで少し型の古いレジを打つ顔馴染みの店主の女性に、「いつもありがとうね」と言われて頷きながら財布を出していた。
 
 ここは現金払いのみの昔ながらの駄菓子屋で、電子決済もクレジットカード払いもできない。俺ももっぱら電子決済を利用している現代っ子だけど、ここに来るために現金を持っている。でも俺よりもよっぽど現金なんて持って歩いてそうにない風貌の恵秀さんが、財布の中の小銭を数えている様子はなんだか不釣り合いでおかしかった。

「恵ちゃん、やっと静ちゃんに声かけたのね」
「え。おばちゃん気づいてたの」
「それはもう随分前から。よかったわね」
「うん。パッチバッチ三つでデートに誘った」
「ふふ、そうなの。頑張って」

 丸聞こえなんだけどな……と思いながらふたりの会話に苦笑いしていると、女性が微笑みながら俺に向かって手を振っているのが目に入り、小さく手を振り返す。

「静ちゃんまたね」
「はい百合さん。また」
「え、名前で呼んでるの?」
「静ちゃんのお母さんとお友達なの」
「ああそういう。……ちゃんと暗くなる前に帰すからね」
「ふふ、そうね。そうしてください」

 彼女は百合という名の品のいい女性で、母さんと仲がいい。どちらかと言えば洒落た喫茶店なんかにいそうな見目をしていて、この古い駄菓子屋からはかなり浮いて見える。百合さんのおじいちゃんがこの店の先代で、百合さんは店を閉めるのが惜しくてここを継いだって聞いた。ほかにも兼業して仕事をしているらしく、忙しい人なんだそうだ。

「じゃあ行こっか、静」
「あ、はい」

 小さな紙袋に入った駄菓子を持った恵秀さんに促されて、開け放たれたままの扉のほうへ足を向ける。
 店の中には安っぽい駄菓子のパッケージが所狭しと並んでいて、ほのかに甘いにおいがしていた。レジカウンター近くにある年期の入った冷蔵庫と冷凍庫がジーっと音を立てていて、BGMなんてかかってもいないし、人のいなくなった店内は静まり返っている。
 それなのにこの、形容しがたい心地よさはなんなんだろう。

「俺、ここが好きなんだよね」

 俺の思考を読んだみたいに突然恵秀さんがそう言うので、びっくりして足を止めた。

「静もそうでしょ?」

 好きを認めるのって案外こっ恥ずかしい。自分の内側を覗かれるみたいで苦手だ。でもたぶんこうやって、一歩踏み出すから始まるんだって、そう思う。

「……はい。俺もこの店、好きです」

 満足そうに頷いた恵秀さんが歩きだして、俺はその背中を追って地面を蹴った。