祠をこわしたぼくらが失った夏には

【3】

 ケイが足をもつれさせて転び、陽斗が巻き添えを食った。

 ぶつかり合って、どちゃっと潰れる。

 激しく息を乱したケイは慌てて起き上がったが、陽斗の方は限界らしく仰向けに寝転んだ。

 俺と立花は必死にケイを呼ぶ。
 陽斗を追い越し、ふたり同時に伸ばした手が、ケイの腕やズボンの腰あたりを掴んだ。

 霧はさらに濃くなり、前はほとんど見えない。

 とっさに振り向くと、陽斗が這うようにして近づいてくるのが見えた。

「……マジで、走るな」

 俺はぜいぜいと荒い息を繰り返す。

 立花と繋いでいた手は、すっかり固まっていて、すぐにはほどけなかった。

「もう、無理……。心臓がもたない……」

 言いながら、片手を地面へつく。
 ふと、霧の中に大きな影を見た。

 視界の端にいきなり入ってきたそれに向かって、目を見開く。

 驚いても、悲鳴さえ出ない。
 それぐらい息があがっていた。

「……岩、か」

 正体はすぐにわかった。
 胸を押さえ、安心して息を吐く。

 俺の視線を追った立花が、手をぎゅっと握りしめてきた。

「ここ……」

 つぶやいてすぐに咳き込む。

 みんなと同じように、立花の呼吸も乱れていた。
 それぞれが全速力で山を駆けたからだ。

 苦労の甲斐があって、余分な足音は振り切ったらしい。

 聞こえてくるのは、ざわざわと揺れている藪や木々の音だけだ。
 それも気味が悪かったが、得体の知れない音よりはよっぽどマシだ。

 しばらくは、誰もしゃべらなかった。

 それぞれの息づかいが重なり、俺と立花の手も次第に離れていく。

「うわ、水溜まりだ!」

 ケイが声を張りあげた。
 手をぶんぶん振り回すと、こっちまでしずくが飛んでくる。

「これ、なに……」

「えー、湧き水……?」

 陽斗が這っていく。
 ふたりは顔を見合わせ、首を傾げた。

 日暮れの薄暗さに霧まで加わっていたが、互いの表情ぐらいは確認できる。

 陽斗とケイが覗き込んでいる水溜まりも見えた。

「……立花。あれって」

 俺には見覚えがあった。
 立花も同じだろう。

「そんなこと、あるか? まっすぐ来ただろ?」

「どこかで曲がったのかもしれない。あいつがやたらに走ったから」

「……そっか。そうだよな」

 水溜まりから溢れた水は、一本の細い流れになり、傾斜を下へと流れていく。

 立花がいい加減に作ったやつだ。

「飲める、かな……」

「飲みたいな……」

 陽斗とケイが水に手を浸す。
 匂いを嗅ぎ、ぺろっと舐めてから手のひらですくった。

「マジかよ! やめろ」

 俺が止めに入ると、ふたりは不本意そうな表情で振り向いた。

「うまいよ?」

「めちゃくちゃ、山の天然水」

「……おまえら、危機感ないのか」

「それどころじゃないって言うか……」

「もう、どうでもいいって言うか……。なぁ……」

 陽斗が振り向き、ケイがうなずく。
 俺はぐったりと両手をついてうなだれる。

「しっかり、してくれよ」

 わなわなっと両肩が震えた。

「大丈夫だ、蒼真」

 立花の手が肩へ乗る。
 その間も、陽斗とケイはピチャピチャと水を飲み続ける。

 俺は息を呑み、こわごわ視線を向けた。

 ふたりが動物のように水を舐めていたら、どうしようかと思ったからだ。

 でも、平気だった。
 ちゃんと片手にすくって飲んでいる。

「あの謎アイテムで出した水だから、平気だと思うよ? 蒼真も飲んどけば?」

 立花まで水溜まりに手を伸ばした。

 俺はぶんぶんと音が鳴りそうな勢いで首を左右に振る。

「イヤだ。絶対に、イヤだ」

 座り込んだ姿勢で、後ろ手で逃げる。
 その足を、立花に掴まれた。

 驚くほどひんやりと冷えた指が、スニーカーソックスから出ている肌に触れる。

「やめろよ!」

 俺の叫び声で、陽斗とケイが飛び上がる。

 立花は悪びれる様子もなく、俺に向かって水を弾いてきた。
 腕で隠そうとしたが、顔にかかる。

「信じられない!」

 カッとなって立ち上がる。

 立花はその場にしゃがんだままだ。
 俺を見上げ、濡れた手で口元を拭う。

 それだけの仕草に、俺は不快感を覚えた。

 言葉にならない恐怖が、小さく芽生えていく。

「立花! おまえ、変だよ。俺がやめろって言ったことばっかりする! 水だって火だって、あんなふうに使うものじゃなかっただろ!」

「でも、変なのは追い払えたし、こいつらは戻ってきたじゃん」

 立ち上がった立花は、ほんの少しあごをそらしながら笑った。

 少しも気にしていない態度に、俺は心底からイライラする。
 身体の横で拳を握り、ギッと立花を睨みつけた。

「おまえ、変だよ……」

 繰り返して言うと、言葉が腑に落ちた。
 はっきりと理解できる。

 立花は、変だ。

 俺の言う通りにしないし、この状況で笑ったりするのもふざけている。
 ここまで悪ノリをするヤツじゃなかった。

 ごくりと唾液を飲み込んで、立花を見つめる。

 さっき、まったくの別人に見えたことを思い出す。

 あれが見間違いじゃないのなら、答えは簡単だ。

 立花は、俺の知っている立花じゃない。

 だから、勝手なことをするし、へらへらしている。

「じゃあ、おまえは変じゃないのか」

 立花が大股に近づいてくる。
 手を掴まれそうになり、俺は思いきり身をよじった。

 手を掴まれたら安心する。
 信じられるのは立花だけだと、そう思ってもいた。

 だから……。
 だから、こわい。

 陽斗とケイのようすが少しずつおかしいように、立花もどこかで歪んでいるかもしれない。
 俺だって、普通じゃないだろう。

 こんなところにいて、もう一生抜け出せないかもしれないのに、必死になっている。

「立花がいい加減なのは、前からだよ」

 水溜まりのそばにしゃがんだケイが言う。
 陽斗もうなずいた。

「そうそう。ひとの言うことなんか、聞いたためしがない」

「例外はあるけどね」

「例外な……」

 顔を見合わせたふたりを、立花が勢いよく振り向いた。

「黙ってろ」

 そのひと言に、ケイも陽斗も肩をすくめて口をつぐんだ。

「なに?」

 俺だけが、わかっていない

「例外って、なに」

「ないよ、そんなの」

 立花は笑顔で言った。
 その後ろで、陽斗とケイがあごを上げている。

 無駄な怒りを買って立花を怒らせたくはないのだろうが、訳知り顔はどこかニヤついているようにも見えた。

「へぇ……。なら、いいよ」

 俺は強がりを言って返す。
 立花の笑顔を睨み、陽斗とケイのこともひと睨みする。

 それから、握っていた拳をほどいた。

「篠宮を探そう。歩けば、絶対にたどり着く。……あいつなら、俺の味方だ」

 そして、五人集まれば、安心できる。

 誰かひとりでも欠けたら、きっと後悔する。

「篠宮は『特別』なのか」

 問いかけてきた立花は笑っていなかった。

 後ろに控えたケイと陽斗もニヤついていない。
 真剣な顔で、立花の後ろ姿を見ている。

 俺はますますわからなくなって、肩をそびやかした。

「そうだよ。篠宮はバカじゃないから、ここのルールをちゃんと守ってくれる。……おまえとは全然違う」

 俺の言葉に、立花の目元がぴくっと反応する。
 付き合って山に入ったことを悔やんだのか、ふたりの間に流れる空気がひんやりとしたものになった。

 俺は気にしないふりで、ケイと陽斗に声をかける。

「ケンカ、すんなよ……」

 陽斗がぼそりと言って、立ち上がる。
 ケイも無言で続いた。

「ケンカなんかしてない」

 答えたのは、俺じゃなくて立花だ。

「おまえが言うな」

 肩越しに振り向いて、また睨みつける。
 立花はふっと笑った。

 なにかをあきらめるように、そして、なにかを受け入れるような表情だ。

 理解はできなかったけど、ここで問い詰めても意味はない。

「行こう」

 三人を促しながら、俺はぐっと奥歯を噛んだ。

『あきらめない』と思う。

 篠宮を取り戻し、絶対に元の生活へ帰る。

 この世界を受け入れる気なんてない。

 だから、また、傾斜をあがっていく。
 いつかはきっと、山の上にある祠を見つけて、すべての謎が解けるだろうと期待した。


 でも、五分としないうちに俺の気持ちは萎える。

 頂上を目指していたはずが、行き着いたのは小さな焚き火の跡だ。

「これ……」

 陽斗が怯えた声で言う。

 俺たちの四人の目の前には、ついさっき消したような、焼け跡があった。

「同じ……?」

 ケイが言う。

「でも、登ってきたよな?」

 陽斗がその肩に手を置いた。
 ぐっとなにかをこらえる。

「そう、そうだよ」

 ケイが声をうわずらせながら、勢いよく続ける。

「同じなわけがない。ないないない。だって、まっすぐ上に向かっただろ。今度は走らなかっただろ」

 風もないのに、霧が動く。
 陽斗が悲鳴を呑み込んでしゃがみ込んだ。

「こわい! めっちゃ、こわいんだけど! やっと、逃げてきたのに!」

「そうだ、そうだよ」

 ケイがぼそりと言った。

「ずっと、歩いてた。……向こうでも。なにも考えてなくて、ただ、山を巡らないとダメで……」

「そうだよ! あっちから向こうへ行って、またあっちへ行って……。ぐるぐるぐるぐる……」

「なんの、話……」

 おそるおそる声をかける。

「あいつらがいた場所の話だろ」

 立花の口調は冷たい。
 陽斗とケイにも冷淡に言う。

「それは、向こうでの話だろ。こっちとは違う」

「待てよ」

 苛立ちを隠せず、俺は橘へ詰め寄った。

「どうして、そんなことが言えるんだよ。あっちもこっちも、同じだろ。俺たちがいた場所じゃない」

「……いや、違うよ。ここは、違う」

「はぁ?」

「蒼真がいる。だから、あいつらがいたところとは違う。元々の場所だ。俺たちはどこにも行ってない」

「……じゃあ、どうして、こんなところで迷子になってるんだよ!? ここは、どこなんだよ! 俺たち、祠へ行く階段をあがってただろ!」

「錯誤だよ」

「意味が、わかんない! サクゴってなに? 作文のこと? こんなときに、偉そうぶるなよ! むかつくんだよ!」

「あー、あー、朝倉、待った待った」

 ケイが転がるようにして、俺と立花のあいだへ割って入る。

「やめとけよ。こんなときに……。仲間割れしてる場合か」

「だってさ、こいつ、全然まともじゃない」

 俺は声を荒げて言い返す。

「じゃあ、おまえはまともなのか」

 まっすぐに見つめてくるケイの瞳には感情がなかった。

 どこを見ているのかもわからない。

「ケイ……」

 ぞくっとして口ごもる。

「立花を責めたって……」

 ケイが話し終わる前に、木の枝がざわついた。

 霧が足元に流れる。
 きしむような声がした。


 ねぇ───

「うわぁぁっ!」

 陽斗が叫んだ。
 立花に飛びついてしがみつく。

 立花は受け止めなかった。
 押しのけたかと思うと、俺の腕をぐいっと掴んだ。

「うるさい!」

 いきなり一喝して、俺の肩を揺さぶった。

「聞くな! 答えるな!」

「え?」

 耳を澄ますつもりはなかった。
 でも、聞こえてしまう。

 霧にまぎれて、ぼわぼわと響く声が、俺を呼ぶ。


 あさくら───
 そうま───

「なん、で……」

「気のせいだ。おまえ、おかしいだよ。だから、だ。だからなんだよ」

 立花がぐいぐいと詰め寄ってくる。

「でも、俺のこと、呼んで……」

 そう、ま───
 あるけ、あるけ───
 もっとめぐれ───

「……なぁ、なんの話? やめろよ、こわいよ」

 陽斗がぶるぶる震えながら、ケイに近づく。
 今度は押しのけられることもなく、ぎゅっとしがみついた。

「聞こえる? ケイも、聞こえてんの?」

 陽斗に聞かれて、ケイが首を左右に振る。

「いや、わかんない。なにも聞こえない」

「……やめろよ、朝倉。シャレにならないから」

 陽斗の声は怯えきって震え、ケイの表情も引きつっていた。

 俺の視界の端で、また黒い影が動く。
 ぞっとするようなおぞけを感じて、肩を掴んでいる立花の腕を握った。

「なんか、いる」

「いない……」

 そう答える立花の眼球も、俺と同じ方向へ揺らぐ。

 藪を揺らす音がして、足音が近づく。

「まただ」

 視線を足元へ落としたまま、俺は意識だけを向けた。

「なぁ、ケイ」

 陽斗が消え入りそうな声を出した。

「俺たちって、何人だっけ」

「は?」

「何人で、ぜんぶだっけ」

「……え」

 明瞭な答えが返らない。
 ケイはまばたきを繰り返し、指を使って数え始める。

「五だ! 五人!」

 立花が叫んだ。
 腹の底から絞り出した声に、あたりの空気がびりびりと震えた。

「蒼真、おまえはしっかりしろ」

「でも、俺、まともじゃないかも……」

 不安になって、声が揺らぐ。

「バカ言うな。まともだよ。俺だってまともだろ」

 立花が説得してくる横で、ケイはまだ数を確かめている。

「おれが、おまえだろ」

 陽斗がズレたことを言う。

「立花……。陽斗が、また変だ」

 膝が震えそうになって、立花の腕に体重をかけた。
 崩れ落ちるよりり先に、腕がわきへ差し込まれる。

「これ、ループしてるんだよな。さっきの水溜まりと、ここと……」

「元から、歪んでるんだ」

 立花は軽い口調で言った。
 当然と言わんばかりの口調に俺はまた苛立つ。

「簡単に言うなよ」

 声がわなわなと震える。
 猛烈な怒りが湧いてきた。

「なんで、そんなこと、わかるんだよ!」

 力任せに立花を押しのけると、怒鳴った声があたりに響く。

 俺は立花をまっすぐ睨んだ。

 敵かもしれない。
 こいつは敵だ。
 こいつがいるから、こんなことになってる。

 俺も、陽斗も、ケイも、巻き込まれた。

 篠宮だってそうだ。


 ぎぃえぃゆわわぅぅぅ───

 霧の中から声がして、木が一斉にざわめいた。
 同時に、セミの声が響く。

 そして、秋に聞く虫の音が混じり、途切れ、メチャクチャに重なる。

「ぎゃぁ!」

「うわぁ!」

 陽斗とケイが叫んでうずくまる。

 俺と立花は息を呑んだ。

 めちゃくちゃな音の中に、俺の声が混じっている。
 怒り、怒鳴り、泣き叫ぶような声だ。

「聞くな」

 立花が言った。
 その表情は、やっぱり余裕のある薄笑みに見える。

「聞くな、聞くな」

 言われるたびに、俺の耳はまわりの音を集めてしまう。

「篠宮!」

 陽斗が急に叫んだ。
 でも、篠宮はどこにもいない。
 走り出しそうになった陽斗の腰に、ケイがしがみつく。
 ふたりはその場に転がり、揉み合いになる。

 助けに行こうとした俺の腕を、立花が強い力で引っ張った。

「なんで!」

 抗議の声をあげたのと、陽斗がばたつきながら叫んだのは同時だった。

「篠宮の声だ! 篠宮の声だった!」

「違う、違う!」

 ケイが必死になって陽斗を押さえつける。

 俺の呼吸は浅くなり、視界が少し歪む。

 目の前の光景がリアルに感じられない。
 まるで大きなスクリーンに映っているみたいだ。

「呼んでる! 呼んでる! 朝倉! 篠宮が呼んでる!」

 陽斗の声が絶叫に変わる。

「呼んでない!」

 俺は身をよじらせながら叫んだ。

 聞こえているのは、俺の声だ。
 篠宮じゃない。

「え?」

 橘に拘束されている俺を見上げた陽斗の顔から、表情が抜けた。
 すこんと真顔になって、瞳のハイライトが消える。

 俺は驚いてあとずさった。
 やっぱり立花に引き戻される。

「……あれ?」

 まばたきをした陽斗が首を傾げる。
 表情が戻り、瞳にも光がある。

 でも、俺の動揺は収まらなかった。

 少しずつ、なにかがズレている。

 おかしくなっている。

 その変化に、気持ちが乱され、気がおかしくなりそうだ。

 こわくてこわくてこわくて、膝が震える。

 手も、震える。

 誰がまともで、だれがまともじゃないのか。

 そんなことを、この状況で考えること自体がまともじゃない。

「大丈夫だ」

 立花の手が、俺の指を掴んだ。
 普段なら絶対にしないような、妙な絡め方をしてくる。

 俺は浅い呼吸を繰り返しながら、立花を見た。

 平然とした表情には、うっすらと笑みが浮かび、いつもとまったく変わらない。

 俺が、だれとどんなふうに騒いでいても、ふざけていても、立花はいまと同じような表情でそばにいた。

「おまえは、ちゃんといる」

 そう言われて、新しい不安が胸をよぎった。

 どうして、そんなことをわざわざ言葉にするのか。

 疑念が湧いたけど。
 手の温かさだけは現実だ。

 そこにだけ輪郭があって、ほかは曖昧で頼りない。
 そんな気がして、俺は顔を伏せた。

 声はまだ聞こえている。


 そう、ま、そ、うま───
 み、んな、い、しょに───
 いよ、う、みん、な───

 強烈な閉塞感に襲われ、ぎゅっと目を閉じる。

「なんだよ、おまえら……こわいんだよ」

 ケイが涙声で言って、陽斗にすがりつく。
 ひとりしきりの泣き声が霧の中に溶ける。

 浅い息づかいが重なって、だれもが神経をとがらせていた。
 そして、すり減らす。

 立花以外が泣いていた。

 俺の目からも涙が溢れてくる。
 見られないように顔を背けて、くちびるを噛みしめた。

 それでも、立花は俺の手を握ったままだ。

 じっと立ち尽くし、俺たちが落ち着くのを待っている。

 こいつだけが、どうしても、変わらないままだ。

 信じられない気分で、立花を見る。

 不信感が募り、恐怖が半減した。
 俺はシャツの袖部分で涙を拭く。

「ここにいても仕方がない。前へ進むぞ」

 立花の手を振りほどこうとしたが、がっちりと掴まれていてほどけない。

 俺はしかたなく、立花を引き連れ、陽斗やケイの肩を叩いた。

「もう、じゅうぶん泣いただろ? ほら、涙を拭けよ。行くぞ」

「意味ないよ……」

 陽斗が泣きはらした目ですがるように俺を見る。

「だからって、ここにいても篠宮は見つからない」

 まっすぐに見つめ返す。
 陽斗を立ち上がらせたあとで、ケイを引き起こした。
 暗い雰囲気でふらりと立ったケイが、急に耳をそばだてた。

「……篠宮の声だ」

 そのひと言に、俺と陽斗の間に緊張が走る。

 特に、謎の声に惑わされたばかりの陽斗は怯んだ。
 表情を引きつらせながら、ケイのシャツを引っ張った。

「ち、違うだろ……」

「どっちからしてる?」

 割って入ったのは立花だ。
 ケイは振り向き、傾斜の上の方を指差した。

「向こう。向こうから、する」

「どうする?」

 俺に確認した立花の眼差しは強い。
 恐怖は影も形もなかった。

「進行方向だ。行くしかない」

 反発を覚えながら答えた俺は、自分の腕を引き戻した。
 手を離さない立花がついてくる。

「離せよ」

「イヤ」

 ふたりの距離が近づく。
 睨みつける俺の視線を難なく受け止め、立花が先に歩き出す。

 腕が引っ張られて、一歩が出る。

「離せ、ってば……」

 俺が繰り返すと、肩越しに視線を投げられた。

「いいの? 本当に?」

「はぁ? なんだよ、その言い方!」

「俺はイヤだから。握っとく」

「意味がわかんないんだけど! ……あー、そっか。こわいんだよなぁ。立花は。こーわいんだ!」

 苛立ちまぎれに、からかいの声を投げる。
 立花はふっと笑い、前へ向き直った。

「かわいいな、蒼真は」

 小さな声がぼそりと聞こえる。
 俺は小さく飛び上がり、肩をぶつけた。

 立花はよろめき、笑い声をこぼす。
 それが俺をイライラさせる。

「おまえは、なにをチャラチャラしてんだ!」

「チャラチャラなんか、してない」

 答える頬はゆるんでいる。

「そうだ。印をつけておこう」

 弾むような声で言って、足元から石をひとつ拾い上げた。

 俺を引っ張ったまま、焚き火から一番近い木を選んで、幹に傷をつける。

「おまえ……、本当に、怖いもの知らずだな」

 俺は唖然とした。
 俺たちを閉じ込めている森に傷をつける行為だ。

「だって、こわくない。ヒヤッとはしてるけど……。それだって、理由があるから」

「へぇ……。なに?」

 立花の弱みがそこにあると思った。

 ニヤニヤ笑いながら身を屈め、顔を覗き込む。

「俺の理由は、おまえ」

 立花ははっきり答えた。
 でも、なにもはっきりしない。

 ごまかされたような気分で見据えると、立花はまた笑った。

「……なに、笑ってんの?」

 陽斗がケイをつれて近づいてくる。
 不審げな表情だ。

「笑ってないとやってられない」

 手にした石を見つめ、立花は笑顔で息をつく。
 そして、石をズボンのポケットへ入れた。

 木の向こうは霧が深い。
 近くの足元はかろうじて見える。
 傾斜も確認できた。

 俺たちはのぼり坂を選んで歩き出す。

「篠宮を見つけて、そのあと、どうすんの……?」

 前を行くケイがぼそぼそと言った。
 四人で固まって歩いているから、霧の中でも互いの位置がわかる。

「どこにいるんだろう……」

 陽斗もぼそりと言い、ぐずっと鼻を鳴らす。

「ちゃんと見つかる。アイテムはまだひとつ残ってる……。それに」

 俺は言葉を切った。

 手首に立花の体温を感じる。
 イライラして腹ばっかり立つけど、握られていないよりは握られている方が良かった。

 そのほうが、これまでのことを思い出せる。

 俺たちがずっと五人でいたこと。

 ケンカしたりもしたけど、五人でひとつの仲良しグループだ。

 お互いのことはよく知っている。

 小さい頃はまとめて風呂へ入れられたし、一緒くたになって布団で寝たりもした。

 春も、夏も、秋も、冬も。
 そうやって、俺たちは大きくなった。

「……俺たちは、五人でひとつだ。……篠宮を、取り戻す」

 俺が宣言した瞬間、立花の指がピクッと動いた。
 離れるのかと思ったが、握り直される。
 力がまた入った。

「どうして、篠宮が最後なんだろうな」

 立花がつぶやく。

 俺たちは前ヘ前へ進み、ゆるやかな山道をあがっていく。

 沈黙が流れて、重なる足音だけがざくざくと大きく聞こえる。

「あ……」

 陽斗が足を止めた。
 ケイも止まる。
 俺と立花はふたりの肩越しに空間を見た。

 白くもやがかかった向こうに、大きな岩が見えて、近くに水溜まりがあった。

 水はまだ湧いている。

「まただ……。また戻ってる」

 陽斗の声は、あきらかにショックを受けていた。
 その肩を立花が慰めるように叩いた。

「このまま、まっすぐ行こう」

 近くの木に印をつけた立花に促され、俺たちは水溜まりを横目に進み、どこが道ということもない空間を横切った。
 さらに、傾斜を登って行く。

 答えはもう、わかりきっていた。

 疑いようもないループの中にいる。
 これが、この山のルールだ。

 俺たちは、おなじところをただぐるぐると回っている。

「おかしいよ……おかしい……」

 ケイが声を震わせる。

 肩が左右にゆらゆらと揺れていて、疲労感が背中にべったりと染みついている。
 なにげなく押して、前へ進ませる。

 そして、焚き火の跡でつまずきそうになって足を止めた。

「あぁ……」

 ケイがその場へしゃがみ込んだ。

「印がある」

 立花と陽斗が声を揃えた。
 俺は呆然としながら頭上を見る。

 白いもやの向こうに、木々の重なりが薄ぼんやりと浮かび、やっぱりループに閉じ込められているのだと実感した。

「一生、こうして歩き続けんの? 俺、無理なんだけど」

 ケイの声がヒステリックに尖る。
 ところどころ、言葉が詰まり、身体はブルブル震えていた。
 立花の手をはずし、俺はケイのそばにしゃがんだ。

「がんばろう。……歩くのが、ルールだから。しっかり、歩かないと」

 背中をなでさすって勇気づける。

 ケイは浅い息を繰り返しながら、両手で顔を覆った。

「ケイ。……な? がんばろう」

 指の隙間から、ケイが俺を見た。
 顔を覆っている手がゆっくりと外れていく。

 俺は、驚いた。
 あれほど声を震わせ、ヒステリックになっていたのに、まったくの真顔だったからだ。
 表情がまったくない。

 ゾクッとして、同時に思い出す。

 焦げたと言って戻ってきたときから、ケイは表情に乏しかった。
 声色ともズレている。

 おかしいと言えば、陽斗も同じだ。

 自分と他人との境界が曖昧になっているようなことを言い出すし、ところかまわず、山の怪談を話し始める。

「……そういえば、アイテムはもう一個あるんだよな」

 ケイが俺の肩を押さえるようにして立ち上がる。
 ゆらりと揺れながら立花に近づいた。

「それを使えばいいじゃん。俺と陽斗も、戻ることができた。ひとりにつき一個ってことだろ。……使おう」

「それはダメだ。ルールがある」

 立花へ近づこうとするケイを引き留め、振り向かせる。

「まず、整理しよう」

 焚き火のそばに四人で集まり、向かい合った。
 整理しようと声をかけた手前、俺が話し合いを仕切る。

「確かに、アイテムは三つだった。一個でひとり戻る。でも、ちゃんと使ってないんだ」

「でも、成立してるんだろ?」

 陽斗が言う。
 ケイも頷いた。

「……それ、いいことじゃねえの」

「違う」

 即答した俺は首を左右に振った。

「ズレてる。順番も、条件も、全部……。ルールと違う。なのに、結果だけが合ってる。そんなことって、おかしいだろう?」

 問いかけられた陽斗とケイが顔を見合わせる。

「こんなの、おかしいだろ。おかしいんだ」

 俺が繰り返すと、陽斗もケイも、立花もぐっと黙り込んだ。

 互いの出方を探るような居心地の悪い沈黙が続く。

「……じゃあさ」

 陽斗がぽつりと言った。

「最後のやつ、ちゃんと使えばいいんじゃね?」

 その言葉がきっかけになり、ケイが立花の腕を掴んだ。

「ケイ! やめろ」

 拘束するために絡みつかれた立花が抗議の声をあげる。

「やめない」

「どこ、触ってんだ」

「うるさい!」

 ふたりが揉み合っている間に、陽斗が立花のポケットを探った。

 抵抗していた立花は取り返そうとせず、苦々しく立ち尽くす。

「立花、ケータイも貸して」

 小箱を手にした陽斗が言う。
 ケイがまたポケットを探った。

 立花は両手を挙げた格好で固まり、されるがままに身を任せる。
 携帯電話を探し出したケイが真っ黒な画面に触れた。

 電源はまだ入っている。
 でも、俺のときと同じで、そこから動かない。

「固まってる」

 何度も画面を叩き、陽斗の方へ向けた。
 設定されているのは、五人で撮った写真だ。

「ほんとだ。電波はあるのにな。……再起動する?」

 陽斗がなにげなく言い出して、俺は慌てて止めに入った。

「立ち上がらなくなるから、ダメだ」

 ポケットを探り、自分の携帯電話を差し出す。
 陽斗ではなくケイが受け取り、あれこれとボタンを押してから返してきた。

「……俺は持ってないんだけど」

「家に置いてきてんだろ?」

 ケイに向かい、立花がふざけた口調で言う。
 俺も含めた三人は無視をした。

 立花にアイテムを奪われないようにガードしながら、携帯電話の画面の明かりで小箱を確認する。

「古いなぁ。キラメキマンだし」

 ケイがあきれたように言う。
 やっぱり表情には乏しかった。
 頬がかすかにぴくっと動いただけだ。

「これ、なに? ベーゴマ?」

 中身を手のひらへ出した陽斗が首を傾げる。
 空き箱はケイが預かった。

「使い方なんて書いてないな。……朝倉、ルールってなに?」

 箱を見ながらケイが言う。

「俺が知ってるわけないだろ」

 答えたのは俺じゃなくて陽斗だ。
 ケイが眉根を引きしぼった。

「おまえには聞いてない。朝倉に聞いたんだよ。……ズレてんなぁ」

「あ、ごめん……。これ、ひもを巻けばいいんだろ」

「巻かないで、いいんだ」

 俺は即座に答えた。
 そんな気がする。

「……このまま、地面に投げるんだ。ひとつめで大きな川を作って、ふたつめは火の壁を作る。三つめは落とし穴ができる」

「でも、立花はやらなかったんだよな」

 ケイに言われ、うなずいた。

「やらなかった」

「ひもを巻かないで、投げつけるだけ? あとは? なぁ、立花。おまえはどうやったんだよ」

「……別に?」

 投げやりな口調で返され、黙って聞いていた陽斗の眉がピクリと動く。

 ケイは無表情で、顔から読み取れる感情はない。

「俺たちなんか戻って来なくてもいいって、思ったんだろ。おまえ」

 陽斗の指が立花へ突きつけられる。

「だから、そんな顔をしてんだよ。……他人ごとって、顔」

「友達甲斐がないよな」

 ケイも同調した。

「おまえにとって、俺たちは添え物だし、篠宮は目障りな相手だろ」

「そんなことはない」

 立花はあきれたように息をつく。
 ケイは苛立ったように肩をすくめた。

「でも、戻ってきて欲しいなんて思ってないだろ」

「言いがかりだ」

「……どこが? おまえが優先するのは、いつだって……」

 そこまで言って、ケイはくちごもった。
 自分のくちびるに拳を押し当て、苦しそうに顔を歪める。

「貸せよ」

 立花が手を差し伸ばす。
 ベーゴマを持っている陽斗は身をよじった。

「無理……」

「なにが無理だよ。ケイがそこまで言うなら、いますぐ、篠宮を呼び戻してやる」

「立花には渡すな」

 俺は、はっきりと言った。

 こいつはルールを守らない。

「……蒼真」

 立花が俺を見る。

「ルールなんか、どこにあるんだよ。駄菓子屋のおばあちゃんだって、そんなことは言ってない。ベーゴマなんだから、ひもをかけるのは当然だ。それだって、ルールだろ」

「この山のルールじゃない」

「……自分の言ってることがわかってるのか。おまえら、三人ともまともじゃないのに、どうやって篠宮を呼び戻すんだ。……陽斗、ベーゴマを貸せ」

「い、いやだ」

 ぶるぶるっと首を左右に振った陽斗は、ベーゴマを握っている拳をもう片方の手で隠しながらあとずさる。

 俺はふたりの間に割って入った。
 聞き捨てならないことを、立花が言ったからだ。

「待てよ。俺はまともだろ」

「え、俺だって……。なぁ、陽斗。俺だってまともだろ?」

 ケイが自分を指さす。

「うん? ……ん、うん。ど、どっちかって言ったら、……お、おまえがおかしいよ。立花……」

 陽斗が言葉を詰まらせながら言う。
 立花は片目を細め、肩をそびやかした。

「そう思うなら、一回、やってみろよ」

「え?」

「ひもを巻かないで、どこにでも投げてみればいい」

 ふっと口元をゆるめ、前髪をひと振りする。

「別に、俺はどっちでもいいよ。でも、思ってもみないことが起こったって、知らない」

「……知らない、じゃないだろ。おまえだけが助かるとでも思ってんのか!」

 ケイが声を張り上げた。

 陽斗を押しのけ、前へ出る。

「立花! おまえさ、本当に、篠宮のことなんか、どうでもいいと思ってんだろ。……陽斗のことも。俺のことだって……っ!」

 耐えかねてケイが叫ぶ。

 詰め寄られた立花は戸惑うでもなく、ケイの肩を押し返す。

「どうでもいいってことはない。……だいじな、ともだち、だろ?」

 わざとらしく言葉を切って、うっすらと笑った。
 この場で浮かべる表情じゃない。

 煽られたケイの気持ちになると、俺の胸も痛んだ。
 だから、かばうために立花に向かって言う。

「そういう言い方をするなら、一緒に来なくてもよかった」

 俺の言葉に、ケイと陽斗が振り向く。

 立花は最初からこっちを見たままだ。
 冷淡な目で言う。

「五人でひとつなんだろ?」

「でもさ……」

 言葉に詰まり、俺はくちびるを噛む。
 無性に悔しくて、さびしくて、立花のそれは冷たい言い方だと思う。

 目頭が熱くなってきて、顔を伏せた。

「立花はさ……」

 陽斗がわなわなと震える声で言った。

「朝倉がいれば、それでいいんだ。朝倉が、行くって言えば、ついていくんだ」

「そうだ。ずっとそうだった」

 ケイも声を震わせ、立花を責める。

「篠宮が戻らないなら、嬉しいんだろ。あいつ、頭もいいし、顔も悪くないし。……朝倉と家も近いし、仲がいいもんなぁ!」

 最後は当てつけのような口調になる。

 対する立花は無表情だ。
 それでも俺を見つめ、視線を逸らさない。

 まるで射抜くような視線の強さに、俺は思わずたじろいだ。

「そもそもさぁ! おまえが祠を壊したんだよ!」

 ケイの言葉に、全員がきっかけを思い出す。

「俺たちがこうなってるのは、おまえのせいなんだよ、立花! にやにやしてんじゃねぇぞ!」

「……してないだろ。俺が気に食わないなら、それでいい。……やればいいだろ。俺がよく思ってない、頭が良くて顔のいい篠宮をここへ戻せよ」

「……立花。なんでそんな言い方をするんだよ」

 俺は悲しい気持ちのままで訴える。
 立花を見つめ返した。

「俺たち、四人しかいないんだぞ。力を合わせるのが当然だろ」

「ルールか」

 突き放すように冷たい口調で言われ、続ける言葉がなくなる。

 ケイと陽斗は顔を見合わせた。

「陽斗……。やれよ」

「え、でも……。ルールがあるんだろ? だってさ……。なにかに追われてるとか、異変があったときに……」

「本気にしてんのかよ。こんなゴールのないループの中で、そんなルールになにの意味があるんだよ」

「じゃあ、立花だって間違ってないんじゃ……」

「おまえ、全然、考えてないな。頭、カラッポなんじゃねぇの。いい。貸せよ」

 辛辣に言ったケイが手を伸ばすと、陽斗はとっさに身をかわした。

「陽斗! なんでだよ」

「……イヤだ。そんな言い方されて、渡したくない!」

「はぁ? バッカじゃねぇの!」

「おまえに言われたくないんだよ。赤点ばっかのクセして!」

「本気出してねぇだけだって言ってんだろ!」

 俺から見れば不毛な争いだ。
 でも、ふたりは真剣そのものでヒートアップしていく。

 割って入りたかったが、勢いが激しくて糸口が見つからない。

 俺はおろおろとふたりを見比べた。

 雰囲気は最悪だ。
 ギスギスして、いつものケンカよりもひどい。

「赤点がなんだ!」

 ケイの声が甲高くなる。

「俺が振ったあいつ……ッ! 。あの女に、おまえ、惚れてたんだろ!」

 言ってはいけないひと言だった。
 俺と立花も、思わず背筋を伸ばす。

 ケイが一週間だけ付き合っていた女子だ。

 俺と立花と篠宮は『まぼろしのカノジョ』って呼んでたけど、五人が揃っているときには口に出さなかった。

 陽斗がひそかに片思いしていた相手だと、俺たち三人は知っていたからだ。

 ケイは付き合って五日目で知って、その二日後に別れることにした。

 陽斗はなにも言わなかった。
 いつもの通りに一週間を過ごし、ふたりが別れたあとの三日、家から出なかっただけだ。

「……俺、あいつとキスしたよ」

 ケイの顔にせせら笑いが浮かぶ。

「だって、俺のことが大好きって、言ったから」

「……うるせぇよ。知るか」

 悪態をついた陽斗が顔を背ける。
 その頬に、一筋の涙が流れた。

 空気がキンと張り詰めて、あたりを包む霧の中だけが騒がしくなった。
 なにかが周囲を取り囲んでいる。

 風にそよぐ藪の音がそう感じさせるのかもしれない。

 木々が揺れて、葉が鳴るからかもしれない。

 でも、確かに聞こえた。


 ききき───

 黒板をひっかく不快な音が、まるで笑い声のようにこだまする。

 ケイと陽斗は気づいていないようだった。

 立花はどうかと視線を向けると、その瞬間に首筋を掴まれた。

 冷たい手のひらが、頸動脈を押さえる。

「俺がやる! やればいいんだろ!」

 陽斗が金切り声をあげ、やたらに身をよじらせる。
 ケイが跳ね飛ばされた。

 俺と立花は息を呑み、陽斗の荒い息づかいだけが聞こえる。

 喜んでる……。
 俺はそう思った。

 俺たちを包む霧の中にいるなにかが。

 この山に充満しているなにかが。

 俺たちの衝突と争いを喜んでいる。

 俺は知っていた。
 これが、山の求めるものだ。
 もっとも大事なルールだ。

 恐怖と孤独が、生々しい傷に沁み込んで、怒りと不仲が亀裂を生む。

「蒼真!」

 立花が俺の首筋を引き寄せる。
 近づく胸あたりをとっさに押し返した。

 浅い息を吸い込み、陽斗に向かって叫ぶ。

「投げろ! ルール通りだ!」

 意図していない言葉がくちびるをついて出る。
 意味がわからない。

 どうしてと思う余裕もなかった。

 陽斗が腕を振り上げる。

「篠宮! 篠宮! 戻れよッ!」

 手のひらに握り込んだベーゴマを、地面に向かって投げつけた。

「ちゃんと、戻れぇぇぇ!」

 耳を押さえたくなるぐらいの大声に、ケイが這って逃げる。

 なにかが起こると、俺も思った。

  ルール通りだ。
 得体の知らないものを撃退するために、このアイテムを使う。
 全力を振り絞って、必死に。

「え……」

 陽斗が肩を落とし、その場にへなへなと座り込む。

 沈黙が広がり、誰もが息を呑んでいた。

 なにも、起こらない。
 なにも。

 濃い霧がゆらゆらと揺れて、暗闇が近づいて来たような不穏な気配がするだけだ。

「え?」

 呆然とした陽斗が、地面を手のひらで叩いた。

「……コマは。ベーゴマは?」

 ケイが焦って、うずくまる。

 足元は暗く、鉛色の小さなコマは見あたらない。


 ききき───

 また不快な音がして、どこかで枝が折れた。

「ぎゃぁっ!」

 陽斗の声がひゅぅっと上がっていく。

 視線を向けた俺は固まった。
 陽斗が逆さまになっている。
 足が上にあり、手がぶらんと下がっていて、そこへケイが飛びついた。

「ケイ! ケイ! 離さないでくれ! 離さないで!」

 陽斗が必死に叫ぶ。
 なにが足を掴んでいるのかは見えなかった。
 それどころではない。

 でも、俺は突き飛ばされてよろめき、倒れ込んだ。
 突き飛ばしたのは立花だ。
 俺を置いて、ふたりのところへ走っていく。

 その間にも、陽斗は木々の間へ引きずり込まれた。
 上半身に抱きついているケイも一緒だ。
 もう、足が地面から離れている。

「立花、立花ぁ!」

 ケイのヒステリックなカナキリ声が森に響く。

 体勢を整えた俺も、立花の背中を追って地面を蹴った。

 足をばたつかせたケイの腕が、陽斗の腰から離れる。
 そのまま地面へ落ちて尻もちをつくはずが、ケイの身体も逆さまに吊り上がった。

 ケイと陽斗の悲鳴を残して、ふたりの身体は真っ暗な枝葉の間へ呑まれていく。

 駆け寄ろうとしていた俺は、ぽかんと口を開いた。

 薄闇に四本の手がうごめいたが、助けようとしても無理だ。
 手の届く高さじゃない。

 俺の動きは立花の腕に阻まれた。

 バーのように突き出され、押し戻される。

「……無理だ」

 立花が唸るように言う。
 俺は目を見開いた。

「いや……おまえ……」

 言葉が喉に詰まる。

 どうして、助けに行かなかったのか。

 飛びついて引き戻せば、重りのかわりぐらいにはなったはずだ。

 そこに俺が加勢したら。
 もしかしたら。

「そんな目で見られても困る……。俺も一緒に呑み込まれたら良かったのか?」

「おまえはどうでもいいよ。どうして、俺まで止めたんだよ」

 ふたりが消えたあたりに薄い霧が流れていく。
 その向こうに見えるのは、ごく普通の枝や葉っぱだ。

 それでも、ヒヤッとした気分になる。

 ひとがふたりも、目の前で消えた。
 呑み込まれた先のことは考えないようにした。

 そうでなければ、立ってもいられない。

 俺の目から涙がこぼれていく。
 陽斗とケイを失った恐怖に感情が高ぶった。

「どう、するんだよ」

 息が浅くなり、声がかすれる。

「……ん。ベーゴマを探す」

「そんなの、意味ないだろ!」

 怒鳴りつける俺を前に、立花は困ったように口元を歪めた。

「蒼真」

 呼びかけてくる声の穏やかさが、俺の神経を逆なでする。

 絶望がじりっと迫ってきて、涙がポタポタとこぼれた。

「もう、やだ……。もう、無理」

 声が裏返ってしまう。

「……わかってる」

 立花の手が、俺の首筋へ触れる。

「なにが、いけなかった? ルール通りにしたはずだ」

「……ルールなんて、説明されてないだろ」

「え?」

「駄菓子屋のおばあちゃんは、なにも言ってない」

「じゃあ、おまえが、したのは……?」

 目の前の友人が、得体の知れないものに思えてくる。

 なにが本当で、なにが嘘なのか。

「水を出して、火を出した……。あれは……。おまえさ、おまえ……」

 問い詰めようと思いながら、迫ることができなくて、あとずさる。

 こわくて、こわくて、逃げ道を探す。

「蒼真……。はぐれないでくれ」

 立花の手で、首筋が引き寄せられる。
 その感触に、場違いな思い出がよみがえった。

 小学生の頃、同級生にからかわれたときのことだ。

 俺が泣いたとき、立花だけがそばから離れなかった。

 それどころか、相手をじっと睨んだ立花は、俺をぽかんと殴り、自分が泣かせたと言い張った。
 意味がわからない行動に、俺のほうが驚いた。

 でも、帰り道で謝ってくれたときの立花は、泣き出しそうに目を真っ赤にしていた。

 俺の首あたりにそっと触れて。
 ごめんねと繰り返して。

「おまえは、ここのルールを、知ってる……? そうだろ? そうなんだろ?」

 次第に声を張り上げ、胸ぐらを掴んだ。

「本当に、立花なのか?」

「どういう、意味……」

「おまえ、本当は……。だって、おまえが祠を壊したんだ。おまえのせいで……」

 こんなことになった。

「あいつら、もう二度と戻ってこないのか……? 俺も、そのうち、山に食われて」

「くだらない」

 立花は、なにの迷いもなく、吐き捨てるように言った。

「思ってもないことを言うな」

 地面に落ちていた携帯電話を拾い、その場に片膝をついた。
 あたりを照らす。

 ベーゴマを探すつもりだ。
 俺はぐずぐずと鼻をすすりながら、立花の背中へ投げつけるように言った。

「もう無理だ。あれは使ってしまっただろ。奇跡に三回目はなかった……。ふたりまで、失って……」

「陽斗には使えなかっただけだろ。こっちに飛んだみたいに見えたけど……」

 そう言いながら、積み重なった葉を手で押さえ、じっくりと観察する。

 俺は立ちすくみ、うずくまる背中を見下ろす。
 いつのまにか身長がぐんぐん伸びて、大きくて広くなった背中だ。

「おまえ、わざとズレたことをしたんだろ……。こうなればいいって、思ってたんだろ」

 ごくりと生唾を呑む。

 立花はベーゴマを探しながら答えた。

「……俺が祠を壊したから、なんかの祟りで取り憑かれてるって、そう思ってんの? 俺が、おまえたちを山に呼び込んでる、って?」

「だって、そうだろ。おまえはルールを守らなくても、アイテムが使えた。陽斗はちゃんとしたのに、連れていかれて……」

「ルールなんか、ないって言っただろ」

「それもだ。どうして、わかるんだよ。……どうして、ベーゴマのひもの使い方を知ってたんだ」

「……それは、そうだな」

 振り向いた立花が弱く笑う。

「死んだひいじいちゃんが、教えてくれたんだ。……そう。『あの祠には近づくな』って、散々、言われてたんだよな」

「笑うなよ。こんなときに、笑うな」

「でも、泣いたって、どうにもならないよ」

 立花は気味が悪いほど冷静だ。

「あのベーゴマにエアタグがついてれば……、すぐに見つかるのにな。そんなの無理か。ケータイ、死んでるもんな。……なぁ、蒼真」

「もう、わけがわかんない……」

 ずるずるとその場にしゃがみ込み、膝をついてうずくまる。

「なんで、祠を壊したりしたんだ。お札を剥いで……。あんなことさぁ……、なんで、したんだよ」

「……しなくちゃ、いけなかったから」

 立花の声だけが聞こえてくる。

「ふざけんな」

 地面を両手で押して、顔を上げる。

「なぁ、ふざけんなよ。もう、いいかげんにしてくれ。おまえがおかしくしたんだ。俺の日常を返せよ、バカ」

 ゆらりと立ち上がり、しゃがんでいる立花の肩を足で押す。
 立花の視線が真下から返る。

「……俺が祠を壊したせいで、こうなってることか」

「悪かったとか、そういうのないのかよ。……人の心、みたいな。俺たちに謝ったっていいだろ。もっと申し訳なさそうにしろよ」

「……あぁ、ごめん。人の心がなくて」

 立花の頬がふっとゆるむ。
 その軽薄な態度が許せなくて、シャツの腰あたりを蹴る。

「陽斗だからダメなんじゃない。……お前が触ったから、おかしくなったんだ。おまえが、ぜんぶ、おかしくする」

 身を屈めながら、立花の胸ぐらを掴んだ。
 白い開襟シャツは泥で汚れている。

 俺の手でシャツを引っ張られたながら、立花は苦しげに顔を歪めた。

「はじめに……、はじめに、おかしくしたのは、おまえだ」

 吸い込んだ息を、つらそうに吐く。
 俺は眉根を引き絞って相手を凝視した。

 こんな顔は初めて見た。

 なにかが、いつもと違う。

 でも、その理由がわからない。

 やっぱり、こいつの中身は入れ替わってるかもしれない。
 俺の知らない、なにかなのかもしれない。

「蒼真。おまえはさ、みんな平等に大事だって言うけど……。そんな平等は、ないんだよ。この世の中に」

「は?」

「もし、誰かを選ぶ必要が出てきたら、どうするって話だ。篠宮の代わりに、あいつらを置いていくことになったらどうする……。あきらめるのか。それとも、俺なら犠牲にできるのか」

「なに、言って……」

 ぞわっと全身におぞけが走る。
 シャツを離した手を立花が握った。

「なにかを得たら、なにかを失うんだ。なにかを優先するなら、なにかを後回しにする。いつか、そういう日がくる」

「なんの話をしてんだよ……」

 まるで教師の説教みたいだ。

 来年には高校三年生だ。
 人生の岐路に立たされ、進路を選ぶことになる。

 だから今年の夏は、みんなで思い出を作るつもりだった。
 夏休みを満喫して、道は分かれても、友情は永遠だと、そう思いたくて。

「……俺はずっと決めてる」

 俺の手を握ったままで、立花はもう片方の手を俺の足元へ伸ばした。
 地面をそっと押さえる。

「俺は、おまえを優先してる。大事なのはおまえだけだ」

「……頭、おかしくなったんじゃねぇの」

「ずっと前からだよ」

 ふっと笑い、手のひらを見せてくる。
 そこにあるのは、見失っていたベーゴマだ。


 おまえのせいだ───
 おまえのせいなのに───

 霧が揺らいで、遠くから声がする。

 篠宮の声のようで、そうじゃないようで、陽斗の声かも知れず、ケイの声のようでもある。
 不安が募るかすかな音だ。

「篠宮を、取り戻さないと。……元の通りに、しないと」

 おま、えが───
 こ、わした───

 きききき───

 いけ、にえ──
 にえ、にえ、にえ───

「あいつと俺が秤にかかったら、おまえは、俺を置いていくだろうな」

 立花がつぶやき、俺はハッと我に返った。

 息が浅くなり、めまいがする。

 こうなることを、こいつは知っていたのかもしれない。

 あの、祠を壊したときから。

 俺たちのだれかが欠けることを。

「……俺が、選ぶわけじゃ、ないだろ」

 答えながら、深いところへ落ちていくような感覚を味わう。

 ループしている森の中で、立花の体温だけがリアルだ。
 そばにいると安心できる。

 でも、どうしても、信じることができない。

 言葉も、行動も、笑顔も、信じられない。

 心が引き裂かれそうなジレンマだ。

「おまえが選ぶんだよ。おまえのことなんだから」

 ベーゴマを握りしめた立花が立ち上がる。
 携帯電話をポケットへ片付け、ベーゴマを確かめた。
 俺の目にも、石のような岩のような紋章が見える。

「蒼真。さっき、陽斗が山の怪談を話してただろ? ひとの迷惑も顧みず。あの話を総合すると、この山は俺たちを歩き回らせることでエネルギーを得てるってことになる」

「……ちゃんと聞いてたのか」

「イヤでも耳に入ってくる。……このアイテムは、俺たちが手に入れたものだから、たぶん、俺かおまえにしか使えないんだろう。あいつらが消えたのは、ペナルティだ」

「もう、食われてる……?」

「そういう意味では、俺らも食われてるよ。そう考えたら、あいつらは先に外へ出たかもしれない」

「……マジで?」

「仮定の話だ。実際のことなんか、わかるわけがない」

 立花の冷静な声が、俺の気持ちを落ち着かせる。

 信じたいと願う気持ちが、信じられないと疑う気持ちに少しだけ勝った。

「とにかく、ひとつでひとりが救えるんだから、最後は篠宮が戻ると思う」

「……うん」

「陽斗とケイについては、信じるしかないから。探し回っても見つけられると思えない。……まぁ、あの木を登るぐらいはしてもいいけど」

 顔を見合わせる。

 お互いの視線が自然と木の枝へ向いた。
 薄いもやから、骨張った枝が黒々と伸びている。

「登ってみる」

 ぼそりと言った俺を、立花は無言で振り返った。

 迷わずに近づき、手のひらをシャツで拭いてから幹へ飛びつく。
 木登りなんて、小学生以来だ。
 でも、要領は忘れていなかった。

 霧で湿った木の幹は気持ち悪かったけど、ごつごつしたところへ足をかけて腕を伸ばせば、すぐに枝を掴むことできた。

 あとは腕の力で身体を持ち上げ、スニーカーの裏で幹を蹴って反動をつける。

「なにも、ない……っ!」

 そこにあるのは薄闇だ。
 下で待っている立花が、当然だと言わんばかりの返事をする。

 俺は目をこらした。

 どんな小さなことでもいいから、ヒントが欲しかった。

 あいつらを取り戻すための。

 そして、ここから出るための。

「……っ」

 息を呑んだのは、木々の間に空が見えたからだ。

 いつの間にか、夜が明けていた。

 それとも、夕暮れに戻ったのかもしれない。

 楕円形の黒い紙で埋め尽くしたような視界の、ところどころに空いた空間が青みがかったオレンジで染まっている。

 台風の来る日に見る、禍々しいぐらいにきれいな色だ。

 胸がぎゅっと苦しくなって、枝にしがみつきながら叫んでみる。

「はるとぉーっ! けいぃーっ!」

 木々の隙間には、向こう側の世界がある。

 そこに、戻りたかった。
 切実に、戻りたかった。

 もしもふたりが、先に戻れたのなら、今度は俺たちを探しにきて欲しい。

 力の限りに叫んだ俺の声は、ざわざわと動く葉っぱの音に掻き消された。

 たまらず息を吸い込み、もう一度叫ぶ。
 その途中で手が滑った。

「うわっ!」

 身体がずるっと沈み、重力に引っ張られる。

 必死でもがいても、指は枝にかからなかった。
 宙を掻くばかりだ。

 落ちる衝撃に身構える余裕もなく、俺は叫んだ。
 思わず目をつぶってしまう。

 痛みを覚悟した。
 でも、なにかが俺を受け止めた。

 ぶつかる衝撃に頭がくらっとして、地面に投げ出される。

「い、ったぁ……」

 俺の下で、声がする。
 立花の声だ。

「……え」

 落ちたショックで息を弾ませながら、自分の腰にしっかりとしがみついている腕に気づいた。
 投げ出されたと思ったのは間違いで、立花が抱き留めてくれたらしい。

 ぶつかった衝撃で飛んで行かないように、引き寄せてくれた腕が、俺の腰に巻きついている。

「受け止められると、思ったけど……。ダメだな」

 立花が小さく笑う。
 波打つような振動が、ゆるく俺の背中あたりに伝わってきた。

「……ごめっ、ん」

 あわてて動こうとした腰を、立花が改めて引き寄せた。
 上半身が立花に乗り上げている。

「……ちょっと、待って」

 立花の息が乱れていた。

「どこか、痛めた?」

 心配になって、そろりと身体をよじらせる。
 地面に手をつき、身体を支える。

「かなりの、衝撃……」

 地面に横たわり、へらっと笑う立花の顔が見下ろせる。

「……折れた?」

「いや。……ケガは?」

 指が動いて、俺の首筋へ貼りつく。

 ドキッとして、また昔のことが脳裏をよぎった。

 こいつは、ときどき、こんな仕草をする。
 俺の脈を確かめるみたいに、耳の下あたりに指を押し当てた。

 いつからだろう。
 あの、同級生のからかいから救ってくれたときだったかもしれない。

 人肌を意識すると、妙に気恥ずかしくなってしまう。
 視線を揺らしながら答えた。

「俺は、平気……」

「よかった」

 指は離れていかない。
 それも、いつものことだ。

 これまで気にしたことはなかった。

 よく目が合って、気がつけばそばにいたけど、それだけだったから。

 身体が触れ合うことなんて、めったになかったと思う。

 陽斗やケイとじゃれ合ったり、篠宮にもたれたりすることのほうが多かった。

「無茶するなよ」

 立花はなおさら笑った。
 穏やかな笑顔だ。

 瞳は少しも揺れず、俺をまっすぐに見ている。
 顔色をうかがうでもなく、目のあたりを観察するでもない。

 ただ、俺の中にいる自分を確かめるみたいに、俺を覗き込んでくる。

「……」

 なにかを言おうと思ったけど、なにも言えずにくちびるが空動きする。

「なに?」

 立花が問いかけてくる。
 その声が甘く聞こえ、ぞくっと腰あたりが熱くなった。

 ふたりきりのとき、立花はそういうふうに俺に声をかけてくる。

 まるで通学路で見かけた猫にするみたいに、やさしく、こわがらせないように、穏やかな声を出した。

 これまで気づかなかったことに気づき、俺はまた、ほんの少しだけ混乱した。

 見下ろせば、至近距離に立花の顔がある。

 不思議な感じがした。
 甘酸っぱいような気持ちが胸に溢れて、居心地の悪い動悸が始まる。
 少し早いスピードだ。
 なのに、ときどき、よじれるように、脈が弾む。

「胸が、……痛い」

 ゆっくりと身体を起こして、立花の横に座り直した。
 胸を押さえて、立てた膝へ顔を伏せる。

「胸? ぶつけたのか?」

「違う……。ずっと、緊張してたからかな……。ドキドキしてるけど、なんか、跳ねる。脈が」

「え? ……それって、不整脈って言わないか」

「ふせいみゃく? なに、それ」

「腕、貸して」

 同じように座り込み、立花が俺の手首に指を添えた。

「確かに速いけど……。途切れてる感じはないな」

「うん……」

 うなずいて、息を吐いた。
 心臓の音は、また速くなっていた。

「……なにか、見えたのか。木の上から」

 立花に問われ、俺は落ちたばかりの木を見上げた。

「うん。空が、見えた。朝焼けみたいに赤く染まってて。でも、夕焼けだったかもしれない。ほら、台風が来る日にさ、赤紫っぽい色になること、あるだろ? あんなふうだった。きれいだったけど、なんか危ない感じの」

「時間が経ったのか……」

「戻ってるのか」

 沈黙が流れ、お互いに深呼吸を繰り返す。

 身も心も、かなり疲れていた。
 そのことに、やっと気がつく。

「なぁ、立花。木に登ったときに考えたんだけど」

「うん」

「陽斗とケイ……。おまえが言う通り、先に戻れたかもしれない」

「そういうパターンもあるよな」

「だとしたら、今度は、俺たちを探しに来てくれるかな」

「さぁ、それはどうだろうな」

 立花はおかしそうに笑い、立てた膝に肘をつく。
 自分の髪に指を通し、ぼんやりと宙を見た。

「蒼真は、探しに来て欲しいのか」

「そりゃ、そうだろ。俺たちは来たわけだし……。友達だし」

「友達か……」

「うん、仲間じゃん」

「……五人、みんな平等って、おまえのそれさ。すごく偽善だよ」

 立花は顔を伏せたままで言う。
 空気がひんやりとして、言葉は責めるように聞こえた。

「偽善?」

「そういうの、ありえないとか思わないか。確かに、ずっと一緒にツルんできたけど……。みんな、お互いを平等だなんて思ってない。陽斗はケイを心配してるし、ケイは篠宮を頼ってる。篠宮は……」

 言葉が途切れる。
 立花の視線が俺へ向く。

「おまえといるのが一番楽だって……。そう言ってたな。おまえも、篠宮が好きだろ。あいつの話、よくするもんな」

「確かに、ふたりでいると楽だけど。みんなといるのが好きだよ、俺は」

「それだって、篠宮といる時間があるからだ。篠宮から聞いたんだ。五人で騒ぐのが楽しいけど、ときどき煩わしくてイヤだって話したんだろ? あいつも、おまえとふたりで登下校して、たいして盛り上がらないのがいいらしいよ」

「……おまえら、そんな話、してんの?」

 反応に困って、顔をしかめて見せる。

 立花は少しも笑っていなかった。

「じゃあさ、立花。おまえの特別は、俺ってこと? ケイと陽斗も言ってたな。そんな感じのこと。だいじだって、言ったんだっけ。さっき」

 俺の言葉に、立花は反応しなかった。
 わざと黙り、表情も変えない。

 その沈黙があっという間に重たくなって、俺はどぎまぎと視線を揺らした。

「……立花、おまえさ。なんで、あのとき俺を叩いたの?」

 俺の言葉に、立花のまばたきが止まる。
 瞳は宙の一点を見た。

 整った横顔が目の前にある。

「覚えてるだろ。小学生のときだ。俺がいじめられてさ。からわれてたとき、お前、いきなり殴ってきた。あれ、なんで?」

 思い出し笑いがこぼれる。

 ぽかんと叩かれたときの、あのやわらかな衝撃を思い出すからだ。

 殴るとか叩くとか言うほど、力は入っていなかった。
 ただ、握りしめた拳が、軽く当たっただけだ。

「……あいつらに」

 立花はゆっくりとまばたきをする。
 男っぽい目元で、まつげが動く。

「あいつらなんかに、泣かされて欲しくなかったから。……イヤだったんだ。まわりとか、大人とかが、あいつらのせいだって言うのが。おまえの感情に関わって欲しくなかった」

「なに、それ」

「そういう年頃だったんだよ。……痛かった? 忘れられないぐらい?」

 立花の横顔にやわらかな笑顔が浮かぶ。
 そして、静かにそっと振り向いた。

「俺、謝ったけど……。忘れた?」

「……覚えてる」

 下校途中にある小川のそばで。

 立花は『ごめんね』と言った。
 俺の首筋に指を伸ばして、触れたら逃げていく、小さな猫を触るみたいにした。

「あれから、からかわれなくなったな……」

 忘れていた記憶がよみがえる。
 立花は黙って目を細めた。

「どうしてか、覚えてないのか。おまえ、そこを忘れるんだな……」

「ん?」

「言っても思い出さないかもな。蒼真。おまえ、俺を殴ったんだよ。平手打ちで。すごく大きな音がしたから、みんなビビって……。もう、おまえをからかおうなんて、思わなかったんだろ」

「……んん?」

 はっきりしない記憶が、じりじりと引っ張り出される。

「そうだっけ……」

 適当に答えた端から、なんとなくおぼろげな情景が浮かんでくる。

 そうだった。
 立花の言うとおり。

 ぽかんと叩かれて驚いた俺は、振り向きざまに立花の頬をバチンと平手打ちにした。

 たぶん、あれが、人生初めての平手打ちだ。

「……ごめん。俺は、謝ってない気がする。ないよな?」

「怒ってたからな。もう口きかないって言ってさ、ほっぺた、リスみたいに膨らませてたよな。俺が走って追いかけて、川のところで追いついて」

「……いや、ほんと、ごめん。めちゃくちゃ、恥ずかしいから。もうやめて」

 両手を見せて降参する。

「その節は、ご迷惑をおかけしました……。かばってもらったのに、そんなことにも気づかないでさ。ガキで、ごめん」

 両手をパチンと合わせて、頭を下げる。

「おまえが友達でよかった。……ほんと、ありがとな」

 改めて口にするのは照れた。
 恥ずかしさで汗をかきそうに熱くなり、顔を伏せて苦笑を浮かべる。

 立花はなにも言わなかった。

 また沈黙が続き、それがいつもよりも重いことに気づく。

「友達だと思ったこと、ないよ」

 硬い表情で言われて、俺は驚いた。

「え?」

「言えば壊れるから、言わなかっただけ」

「……どういう、意味」

「いいんだよ。別に意味なんて。……ないから」

 立花が目をそらした。
 重苦しい沈黙に、耐えがたい居心地の悪さが加わり、俺は浅い息を繰り返す。

 その言葉の意味を想像できないほど、バカじゃない。

 考えた先から、男同士だと否定したけど、それでもやっぱり、浮かんでくる。

 正しいのかどうか、わからなかった。

 答えを聞くのもこわい。
 視線をそらした立花も、答えたくないのだろう。

 まさか、嫌ってたり、憎んでたりするから、言ったことじゃないはずだ。

 そうだとしたら、あんなふうには触れてこない。
 俺の首筋に、あんなふうに。

「行くぞ」

 立花が腰を上げた。
 俺に向かって、右手を差し出してくる。

「どこに……?」

「俺たちを歩き回らせたいんだろ? それなら、歩いて、歩いて、歩いてやろう。……篠宮が見つかるように」

「歩いた距離がエネルギーになって、あいつを見つけられる……?」

「全然、そんな気はしないけど」

 立花は軽い口調で答えた。
 陽斗たちが責めたように、篠宮のことなんてどうでもいいのかもしれない。

 でも、ひとつだけ確かなことがある。

「よし……っ」

 右手で叩くようにして、立花の手を握った。

「歩こう」

 ぐいっと引っ張られて、立ち上がる。

 俺が気づいた、ひとつだけ確かなこと。

 それは、立花が俺のために動いているってことだ。

 得体の知れないなにかにすり替わってなんていない。

 こいつはずっと、小学生のときからずっと、俺のそばにいて、俺のことを見てきた、裏も表もない、そんな立花恒星だ。

 ぎゅっと手を握られて、心の奥が温かくなる。

 さらに歩いて、どうなるのかはわからない。

 永遠に歩き続けるのかもしれない。

 それでも、いいような気がしてくる。

「蒼真」

 立花が肩越しに俺を見た。

「気持ちをしっかり持ってろよ」

「どういう意味」

「……どっちに行く?」

 俺の質問はそっけなく無視される。
 信じられると思ったばかりの俺は、くちびるを突き出し、すぐに視線をそらした立花の背中を叩いた。

「無視すんな」

「無視なんか、してない。ほら、おまえが決めろ」

「どっちに言っても、また水のところに出るんじゃねぇの」

「そこに、いたりして。陽斗。……まだ水は湧いてただろ。アイテムの効き目が残ってるかもしれない」

「じゃあ、ここは? 焚き火は消しちゃってるけど」

「それは、そのとき考えよう。まずは順序を守って、陽斗からだ。こっちはのぼり、あっちがくだりだな」

「上に向かったほうがいい」

 俺は直感で答えた。

 もう方向感覚と呼べるものは残っていない。
 あがっているか、さがっているかの違いしかわからない。

「立花、こわくないの……」

 霧は少しだけ薄くなっていた。
 でも、あたりは暗いままだ。

 手を繋いだ距離だから、かろうじて立花の背中が見える。

「俺、暗いの平気」

「……そっか。中学んときの、夏合宿も平気そうだったもんな」

 オリエンテーションの肝試しだ。
 決められた道のいろんなところに先生たちが潜んでいて、子供だましな方法で脅かされた。

 俺はじゅうぶん驚いたけど、立花はほとんど動じなかったはずだ。

 あのときもやっぱり、驚いた俺が転んだりしないように、そばに立っていたような気がする。

「俺が言ったから、ついてきてくれたんだよな」

 立花の背中へ話しかける。

 一緒になってループに閉じ込められているのは、俺が、あいつらを助けたいって言ったからに違いない。

 でも、立花からの返事はなくて、湿った落ち葉を踏みながら、山道をのぼっていく。

 夏草が当たるたび、制服のズボンの裾が濡れた。

 どちらも口を開かない。
 無言で進み、沈黙が続いても平気だった。

 繋いだ手から感じる体温のおかげで、暗い道でも変に怯えないで済む。
 平常心とまでは、いかなくても。

「同じところを歩いているような気がしないな」

 立花が唐突に言う。

 手を引かれて歩く俺には、その声が実際の距離よりも離れて聞こえた。

 傾斜がきつい。
 どんどんきつく感じる。

 立花が手を引いてくれなかったら、転げ落ちてしまいそうだ。

 足元を見ながら、なんとか次の一歩を踏み出す。

 身体が重い。

 すごく、重い。

 まぶたを閉じると、開けるのが嫌になってしまう。

 疲れて、だるくて、もう止まりたい。

「蒼真……。蒼真!」

 激しく揺さぶられ、うめきながら目を開いた。
 俺の肩を掴んだ立花の顔が、間近にある。

「近……ッ」

 思わず声を上げたが、あっさりと無視される。

「寝るな!」

「……へ?」

「目を開けろ。歩きながら寝るなってば!」

 揺さぶられると、首がグラングラン揺れる。

 それに気づいた立花が俺の頭を両手で支えた。

「寝て、た……?」

「寝てる、寝てる。まだ、寝てる!」

 立花の声が煩わしい。
 目を閉じると、すっと落ちていくような感覚がした。
 気持ちよくて、そのまま意識を手放したくなる。

「んん……」

 身をよじって、立花の手から逃れる。

 眠たかった。
 どうしようもなく、眠たい。

 もう、寝てしまいたい。

「寝る……。寝たい……」

 身体がゆらゆら揺れて、立っていられなくなった。

 場所も考えずにしゃがみ込む。
 そのまま斜面に横たわろうとした。

「蒼真……ッ!」

 立花が叫んだ。
 腹から絞り出すような、強い口調だ。

 続けて、衝撃が俺の頬で弾けた。

 バチンッ……!!!

 鋭い痛みが走る。

「ふぁッ……!?」

 パッと目を見開いて、大きく息を吸い込む。

 まだ眠い。
 でも、頬を叩かれたことはわかった。

「なに、するんだよ……」

 唖然として、頬に手を当てる。

「寝るなって、言っただろ」

「え?」

 困惑の目を向けると、立花は真剣な表情になった。

「歩きながら寝てた。こういうときは、寝ないほうがいい」

「なんで……?」

 俺は不満隠さず、くちびるを尖らせる。

「もう、すごく、だるい。横に、なりたい」

 またまぶたが下がってる。
 すると、もう一度、鋭く平手打ちにされた。

 容赦のない衝撃が、頬にぶつかり、弾けて、痛む。

「殴るなよ!」

 完全に目が覚めた。
 メラメラ燃えるような怒りを感じて、立花を睨みつける。

「起きたな」

「なに、偉そうに言ってんだよ。……二発も、殴っといて!」

 怒り狂って詰め寄る俺を前に、立花は安心したような息をつく。

 距離が近かった。
 表情がすごくはっきり見える。

 整った、男っぽい、顔立ち。

 女子がキャーキャー言って、行事ごとの個人写真が飛ぶように売れる。

 駄菓子屋のおばあちゃんが、昭和のスターに似てると言っていた。
 ついでに俺たちを眺め、掃きだめに鶴だと笑った。

 その言葉の意味はわからないままだ。

 もし、元の世界へ戻れたら、今度こそ調べようと思う。
 携帯電話があるんだから、そんなことは簡単だ。

 なのに、俺たちはなにも知ろうとしなかった。

 俺も、そばにいる立花のことを、知ろうと思わなかった。

「俺をひとりにするなよ……。蒼真がいるから、平気なんだよ」

 俺の目の前で、立花の眉がきゅっと寄る。
 そのシワもかっこよく見えた。

「心配、したんだ?」

「するだろ……」

 立花が目を伏せた。
 視線が逃げる。

 らしくなく、まばたきが多くて、初めて見る横顔だった。

 さっき、言われたことがよみがえる

『友達だと思ったこと、ないよ』

 そう、立花は言った。

 表情をよく見ておくべきだったと思う。

 まさか、そんなことを言われると考えてもなくて、油断した。

「なんで?」

 考えるより先に口が動く。
 視線を戻した立花は、どこか傷ついているように見えた。

 それも、らしくない。

 ほとんど見たことのない表情だ。

 でも、俺は気にしなかった。
 ただ、疑問を繰り返す。

「なんで、俺のこと、心配すんの? あいつらのことは、そうでもないじゃん」

 俺の質問に、立花の頬がひきつる。

「……マジで言ってる? マジで、答えていいの?」

「えっ?」

 そう言われると、急にこわくなる。

「俺は別に、立花が、あいつらのことをどうでもよく思ってるなんて……。考えてないけど。なんかさ、モヤモヤするから聞いただけ」

「答えを聞いたって、すっきりしないよ。俺だって、なにもかもをぶちまけて、それですっきりするつもりなんてないから」

 立花は浅い息を繰り返し、何度も肩を上下させる。

「ただ、あいつらよりも、おまえを優先してる。それは事実だ。……俺にとっては、篠宮がいたって、なにの足しにもならない。……おまえじゃないと」

 また手を掴まれる。

 俺たちは、前へ進むしかない。

 そうしなかったら、ここからどこへも行けない。

「行こう、蒼真」

 呼ばれ慣れた響きに引っ張られて、俺はよろけるように歩き出す。

 立花だけが俺を下の名前で呼ぶ。
 ほかのやつらは、いつのまにか、呼ばなくなった。

 疑問に思ったことなんてなかったけど。
 いま。
 すごく気になる。

 だから、繋いだ手を握り返す。

 互いの手のひらが汗ばんで、そのリアルな感触だけがよりどころになっていく。

「……俺は、だれのこともあきらめない」

 歩きながらぼそりと言った。

「そうだな」

 立花が答える。
 俺は一歩一歩、踏みしめるように歩きながら繰り返す。

「あきらめない。陽斗も、ケイも、篠宮も、みんな、連れて、帰る」

「そうしよう。……そう、する」

 どこから聞いても安請け合いに過ぎなかったが、俺には不思議なぐらい納得できた。

 立花が言うのなら、きっとできる。

 俺たちが迷い込んだ山のルールを、少しも守らない立花だから。