祠をこわしたぼくらが失った夏には

【2】


 駄菓子屋の外に出て、倒れた自転車のハンドルを掴む。

 うまく持ち上げられないのは、もう片方の手に小箱を握っているだけが理由じゃない。
 重なった自転車はペダルと車輪が複雑に絡んでしまっていた。

「あー、めんどくさい! もういい!」

 短気に叫んだ俺は、自転車をそのままにして、ずんずんと歩き出す。

「蒼真。アイスは?」

 横から、ぐいっと突き出されたアイスキャンディーを奪い取る。
 パッケージの袋は駄菓子屋で捨ててきたらしい。

 立花も自転車をあきらめたのか、徒歩だ。

「どこに行くんだよ」

 アイスキャンディーをかじりながら、俺の進路を塞ぐ。

「はぁ? 決まってんだろ! おまえが壊した……あの……」

 なんとなく言葉にしたくなくて口ごもる。

 夏の日差しがアスファルトに反射して、肌へ突き刺さるみたいにまぶしい。

 いつもの夏だ。
 なにも変わらない、退屈な夏。

 なのに、胸騒ぎだけがひどい。

 道に沿って続く木々から聞こえるセミの声に、立花が視線を向けた。
 俺はその顔をじっと見る。

「噂なんてほどのこと、なにもないだろ。あの祠」

「ある。あるだろ? 下足ホールでも、女子が話してた。山が食ったって。それって、あいつらが山に閉じ込められてるってことだろ」

「……毒され過ぎだよ。ネットで怪談でも見た?」

「じゃあ、ケータイのあれは? た、たすけて、って……」

 口にすると、うっすら怖くなる。

 だって、俺は、三日も親の顔を見ていない。
 なにかがおかしいのは間違いない。

「ふざけてるんだよ。おまえが怖がりだから」

「こわがりじゃない!」

 食べきったアイスキャンディーの棒を投げつける。
 立花が身をかわし、棒は歩道から車道へ跳ねた。

 追いかけて拾う気にはならず、罪悪感を感じながら立花の肩を押しのける。

「べつに、探しにいかなくてもいいだろ。蒼真。それで、よくない?」

 声だけが追ってくる。
 俺は振り向かずに歩いた。

 行かなくちゃいけない。
 そうしなければ、いけない。

 そんな気がして、焦りが抑えられず、歩幅がどんどん大きくなる。
 走り出そうとした瞬間、立花に手首を掴まれた。

「俺がいれば、よくない?」

「何言ってんだよ。俺たち、五人でひとつだろ」

 勢いよく振り向くと、立花の手がするりとほどけた。

 視線をナナメ下へ落とした立花がなにかをつぶやく。

 聞き取れないままにため息が続いた。

 仲間のことを少しも気にしない態度に胃の奥がカッと熱くなる。
 無性に腹が立った。

「心配じゃないのかよ」

「……心配だよ」

 立花の声はどこかしらじらしい。

「無責任だな。おまえのせいかもしれないのに」

 思わず片手で立花の肩を押してしまう。

 セミの声は激しく響いている。
 なのに、静かに思えた。

 それも違和感だ。
 車道の向こうで揺れている稲穂も、今年は刈り取られないかもしれない。
 する人がいないなら当然だ。

 そう思ってしまってから、俺はたじろいだ。

「とにかく、祠を見に行く」

「行ってどうなるんだよ。あそこには何もないよ」

「うるさい。ひとりで行くから、ほっとけ!」

 くるっときびすを返す。
 俺はうつむいたままで歩き出した。

 手にはみっつの小さな箱。
 なにをどうするのかもよくわからない。

 でも、これを持っていかなくちゃいけないことだけはわかっている。

「ひとりになんか、しないけど」

 立花の声が近くで聞こえ、手に握っていた小箱が取られた。

 ついてきてくれることにホッとしながら、俺は不器用に鼻で笑う。
 好きにしろと言いたかったが、それよりも先に立花が口を開いた。

「これまた、年代物だな……」

「あ、キラメキマン」

 横から覗いた俺にも、絵柄の元ネタがわかった。

 俺たちが保育園児だった頃の特撮ヒーローだ。

「三つの力で戦うんだっけ……。なつかし~」

「中身、なんだろ」

「いやいや、ちょ、ちょっ……」

 不用意に開けようとする立花に驚き、俺は両手で箱を覆い隠した。

「バカ!? もうちょっと慎重になれよ。そのときになるまで開けるなって言われただろ? これはあいつらを助けるための……」

「そんなこと、言ってたか」

「言ってたよ。三人だから、三つだろ」

「そうじゃなくて、『そのときになるまで』ってところ」

「え? 言われたじゃん……。川を作って、火を出して、山を作るんだろ」

「本気で言ってる?」

 立花が首を傾げた。
 にやっと笑った表情に、俺はまた苛立ちを覚える。
 いちいち、俺の話の腰を折ってくるからだ。

「そのとき、ってなんだろうな」

 中を見るのを止めた立花は、小箱を自分の制服ズボンのポケットに押し込んだ。

「わかるわけないだろ。……行こう」

 俺が歩き出すと、立花は当然のように隣へ並んだ。

 俺たちは汗もかかず、蝉時雨の中を進んでいく。

 見慣れた空、見慣れた道、見慣れた風景。

 物心ついたときから、なにも変わってない。
 なにも。
 そう思えた。

「べつにさ……。俺だって、あいつらが山に食われたなんて信じてないよ」

 黙っている立花に対して、ぼそりと言いながら道の先を見る。

 もうしばらくすれば、ゆるいカーブを曲がり、祠に続く階段の下へ着く。

「立花の言うとおり、あいつら、俺をからかって遊んでるんだろ」

 俺のひとりごとに、立花はなにも答えなかった。
 歩調を合わせてついてくるだけだ。

「でも、元通りにしないと。祠の……」

 一瞬、セミの声が止まった。
 風もなく、汗がじんわりと滲んでくる。

 俺はぐっと息を呑んだ。

 アイスキャンディーのおかげで少し涼しく感じられていたのに、いまはまた、頭がくらっとするほど暑い。

 カーブを曲がると、セミはまた鳴き出した。

 あちらこちらから激しく羽音がして、俺は無意識のうちに歩調を速めていく。
 気持ちが焦って、早く先へ進みたくなる。

「……もうちょっと、ゆっくり」

 立花の手が肩へかかる。
 それだけで、うっとうしいぐらいに暑かった。

 肩をあげて手を振り払う。

 車線のない道路は山と山のあいだをくねくねと曲がって続き、路肩を少し行くと階段の入り口はもうすぐそこだ。

「……雨の予報、出てたっけ?」

 山の向こうに黒々とした雲が見えて、俺は首を傾げる。
 雨雲から吹いてくる涼しい風が肌に触れて、ふっと暑さがやわらぐ。

 足が、夏草の茂っている方へ動いた。

「蒼真。おまえがしなくたって、いいんだよ」

 石段へ足をかけた瞬間、立花がまた止めてくる。

「おまえには任せられないだろ」

 俺は振り向きもせずに答えた。
 いわくのある場所を、あんなふうに荒らすヤツだ。

 仲間のことだって、口ほどにも考えていない。

「……俺が行く。だって……」

 石段をひとつあがる。

 だって、の続きはなかった。

 足は軽快に動き、スタスタと進む。
 俺は登っていくことだけに夢中になった。

 こんなに身体が軽かったことはない。
 ここの階段は高さが不規則だから、想像以上に疲れる。
 でも、今日は違う。
 いつもとは違う。

「……あれ」

 ふと、足を止めた。

 流れ過ぎていった左右の景色は変わらない。
 足元に夏草が生えて、木々が立ち並んでいるだけだ。

「どっかで、曲がった?」

 肩越しに振り向くと、立花の指先が背中に当たった。

「うん? まっすぐだったけど……」

 視線がぶつかり、お互い、それぞれにあたりを見渡した。

 夢中になって歩いてきたから気づかなかったが、いつもとは違う道を歩いている。
 足元の石段も、いつの間にか、別のものになっていた。

 神社に続くようなものではなく、登山するときに見るような、土を削って作った簡単な足場だ。

 立花の背後に見えるのも同じ感じの山道で、登ってきた石段はどこにもない。

「……一本道のはずだろ」

 つぶやいた自分の声がかすかに震えているように聞こえ、大きく咳払いする。

 あたりを見回していた立花の視線が戻った。
 苦々しい表情で肩をすくめる。

「迷子、だな」

「一本道で? ありえない」

 ぞわっと足元から込み上げるものがあった。

 でも、怖がっているとは思われたくない。
 強がってポケットを探り、携帯電話を取り出した。

「電波が届いたら……、現在地ぐらいはわかる」

 山と言っても、標高は低い。
 くだっていけば、どこかには行きつくはずだった。

「うわ、萎えるわ……」

 悪態をついた俺の手元に影が差す。
 覗き込んで来た立花は肩が触れあうぐらい近くにいて、柑橘っぽいシャンプーだかコロンだかの匂いがした。

 いまだけは、身体の片側全体で感じる存在感がありがたい。

 なんでもないようにふるまってみても、一本道で迷子になる異常事態に心臓がドキドキしてくるからだ。

「画面、固まった。あーぁ」

 おおげさに肩をすくめ、画面を何度も指でなぞる。
 電源のボタンを押してみても、スリープ状態にもならない。

「イヤだな、こういうの……」

 舌打ちしながら再起動をかける。
 まず、ボタンの同時押しで電源を完全に落として、数秒後に、電源を入れ直す。
 いつもの慣れた手順だ。

 真っ暗になった画面に、ロゴが現れて、再起動するはずだった。

「……え」

「死んだな」

 ぼそっとつぶやく立花に、心底から腹が立つ。

「いま、そういう言い回しするか!?」

「……ん?」

「死ぬとか、生きるとか! この状況で!」

「わかってて、山に入ったんだろ」

 立花も携帯電話を取り出す。
 やっぱりホーム画面から動かない。

「あ、バカ!」

 再起動させようとするのを慌てて止める。
 半袖シャツから出た腕を掴み、携帯電話を手のひらで覆った。

「いやいやいや。おまえのはこのままにしとけ」

「……動くかもよ?」

「落ちたらどうすんだ」

「やってみないとわかんないだろ」

「いま、俺がやっただろ? 見てなかったのかよ!」

「それは、蒼真のケータイだから」

「一緒だろッ! おまえ、わかってる? 俺たち、変なところに迷い込んでるんだぞ。あの石段に脇道なんてない。だいたい、まっすぐまっすぐ登ってただろ!」

「じゃあ、戻ればいいんじゃない?」

 立花はこともなげに言う。
 指さしたのは、歩いてきた道だ。
 それは、一度さがって、また上がっていた。

「……マジかよ。……なんだっけ、こういうの……。見たことない駅で降りるヤツ」

「あぁ、あるね。ネット怪談」

「あれ、最後……」

 不吉すぎて、なにも口にしたくない。

 口元を手で覆った俺は、パニックにならないように深呼吸を繰り返す。
 でも、自分の吐いた息が手のひらに当たると、それだけで息苦しくなる。

「たいしたことじゃない」

 そう言った立花が、俺の手を掴んだ。
 口元から引き下ろす。

「吐いて……吸って……。吐いて。もう一回、吐いて。人間ってさ、吐けば吸うから」

「……ぁ?」

 また意味のわからないことを言っていると思いながら、言われた通りに吐いて吐いて吐く。
 もうこれ以上、肺から出す空気がなくなったところで、やっと深い息が吸い込めた。

「まぁ、あの階段が入り口になってる異界なら、目的はやっぱり祠探しだろうな。蒼真はどう思う」

「え……」

 息を整えるのに必死で、それどころじゃなかったが、頭はまだ動いた。

「そりゃ、そうだろ。祠を確認しようと思って、山に入ったんだから」

 これが夢だとしても、それ以外の目的は考えられない。

「行こう」

 どうせなら、もう、夢であって欲しいと弱きになりながら、立花の肩をポンと叩く。
 足を前へ踏み出す。

「……戻るって手もあるんだけど?」

「だからさ、言っただろ。祠を探すんだよ。探さないと、出られないんだよ」

「……そっか。わかった。行こう」

 立花の手が俺の背中にぺたりと触れる。
 押し出されるかと思ったが、そんな力は掛からなかった。

 こいつなりに、怖がっているのかもしれないと思いつき、内心で笑えてくる。

 当たり前だ。
 こんな状況になって、怖くないはずがない。

 祠までの石段とは比べものにならないほどゆるやかな傾斜の山道を、ずんずんと登っていく。
 やがて足元の夏草がまばらになり、短い草に変わった。

 山道からもはぐれ、道を見失ったと気づいても、足は止まらない。

 目的は祠を探すことだと、それだけを考える。

 あの祠にたどり着いて、そして、元へ戻さなければ、どうにもならない。

「立花……。ここって、時間はどうなってるんだろうな」

 歩くのに疲れて、深い息をつく。
 ふたりして歩くスピードがさがった。

 休憩しようと口に出しかけた瞬間に、俺は小さく肩をすくめる。
 藪から音がした。

「振り向くな」

 立花が声を尖らせる。

 カサ、カサ、カサ───
 声に重なったのは、規則正しい足音だ。
 俺のものでも、立花のものでもない。

「え? イノシシ?」

 俺が声を潜めると、立花がハッと短く笑った。

「……それは困るな」

「道を逸れよう。あの藪の裏に入って……」

 立花の手首を掴み、ぐいっと引っ張る。

 ふたりして右に道を逸れた。
 そして一目散に走り出す。

 足元は枯れ葉の斜面だ。
 木はランダムに生えている。

「いつまで走るつもりだよ!」

 立花が小声で聞いてきた。

「知らないけど……ッ」

 答える俺の息が弾む。
 そこに、また見知らぬ音がした。

 今度は、俺でも立花でもない息づかいだ。

 ねぇ───

 呼びかけられた気がして、とっさに振り向く。
 その方向には立花がいる。

 だから、油断したんだと思う。

「見るな!」

 立花が叫んだが、少し遅かった。

 俺の目にはなにも映らない。
 ただ、木がどこまでも続いていた景色から、折り重なった枝と葉っぱの景色になる。

「う、わっ……ッ」

 気づけばひっくり返っていた。

 俺の足を、だれかが掴んでいるからだ。

 地面にたたきつけられ、息が詰まったのと同時に、ずるずるっと引きずられる。

「ぎ、ぎゃっ……ッ」

 こんな状態になって悲鳴なんか出てくるものじゃない。

 俺はみっともなく引きずられながら、両手を伸ばした。
 その手首に立花の手がかかる。
 両手首がしっかりと掴まれ、両手が乱暴に引っ張られた。

 足に絡んだ手の感触が急になくなり、俺は必死で起き上がろうとする。

 立花の手が俺の背中からわきを支えた。
 引き起こされながら押し出される。

「走るぞ! 走れ!」

 次の瞬間には手を繋いでいた。

 引っ張られてようやく、足が前に出る。

「な、な、な……なに、あれ!」

 振り向く余裕なんてあるはずもなかった。

 でも、確かに、背後になにかがいる。

 ぎぎぎぎぎ───
 ざざざざ、ざざざざ───

 布を裂くよりも甲高い音と、長いなにかが引きずられる音。

 もしかしたら、足音や息づかいも混じっていたかもしれない。

 でも、いまは逃げることでせいいっぱいだ。

「お、追って、きてる……? な、なぁ、立花……ッ」

 とにかく走って走って走った。
 どこに行けば逃れられるのかはわからない。

 それでも、息が切れて、どうしようもなくなるまで走り、大きな岩の向こう側へ転がり込む。

「マジかよ……。祠を見つけるだけにしてくれよ……」

 追っ手がいるなんて想像もしなかった。

 掴まったらどうなるのか、考えるだけでも恐ろしい。
 片膝をかかえた俺は激しく息をつき、かすかに咳き込む。
 必死に走ったせいで、喉がカラカラだ。

「水が……」

 飲みたいと言い切る前に、気がつく。

 駄菓子屋で買った謎のアイテムだ。

「た、たちば、なッ……」

 乾いた声を詰まらせながら呼びかける。

「み、みず……。水を出せば……」

 いまもズリズリと近づいてくる、あの正体不明の音を撃退するには、それしかない。

 立花はポケットを探り、箱をひとつ取り出した。
 薄暗い森の中でも、パッケージに書かれた波の絵柄ははっきり見える。

 箱を開けている横で、俺は大きな岩の向こうを伺う。

 枯れた葉っぱとまばらに生えた草。
 音は少しずつ近づいている。

「な、なぁ……」

 正体を確かめる勇気はなかった。
 足を掴まれたときの感触を思い出すことさえこわい。

 ゾクッと震えながら振り向くと、立花の手のひらに箱の中身が転がり出た。

 小さな円錐形のものだ。

「なに、それ」

 覗き込むと、鉛色だとわかる。
 先端は尖っていて、平たい部分には水を紋章化したような模様がついていた。

「そ、それを投げて、川を……」

「これ、ベーゴマだよ。紐をかけないと」

 立花の口調は淡々としている。
 俺はひとりで焦り、声をうわずらせた。

「え? コマ?」

「そう。昔、やったじゃん。取っ手を引っ張って、コマ同士を戦わせるやつ。それの、すごく古いバージョン。原型ってやつ?」

「おまえ、巻けるの……。すご……」

 俺は正月のコマだって無理だ。
 感心して眺める先で、立花は得意がるでもなく、小さな円錐に細い紐を巻いていく。
 迷いがなくて、手早い仕草だ。

「それをさ、岩の向こうに投げて、川を作れば……」

 俺は勢いづいて立花の肩を掴んだ。

「え……?」

 視界の端に信じられないものを見て固まる。

 だって、そうだ。
 唖然とするしかない。

「なん、で……」

 声が喉で詰まる。

 立花が放ったコマは、土と草の上でくるくると回った。

 得体の知れないモノを防ぐために使わなきゃいけないはずの、そのアイテムが、目の前で小さな水溜まりを作る。

「えええええ、たちばなぁぁぁぁ……」

「すっげ、マジで、水が出てきた」

「じゃ、ねぇんだよ!」

 俺の声がひっくり返る。

「なに、してんの!? バッカじゃねぇの! なんで、こんな!」

「だってさ。喉が渇いたんだろ? 声、ガッサガサじゃん」

 地面から湧き出している水を、立花がサッと手のひらですくい取る。

「きれいな水だよ」

 じっと見つめ、匂いを嗅いで、ぺろっと舐める。

「ちょ、ちょ……」

 俺がどれだけ困惑したって立花はまったく気にしていない。

「おまえ、危機感なさすぎだろ……」

 絶望に近い虚無を感じた俺の足元に、溢れた水が一筋流れていく。

 濡れないようにあわてて身をかわす。
 身体がぐらついて、草の上に尻もちをついた。

 ぎゅ───

 足元で不自然な音が鳴る。
 それはすぐに、大きな叫び声になった。

 ぎゅ、ぎゅ、ぎゅわわ、ぎゅぃわぁっっっ───

 黒板を爪でひっかいたような音だ。
 俺は尻もちをついたまま、後ろへ逃げた。

「うわぁぁぁ!」

 そこにはなにもいない。

 いないのに、確かに、なにかがうごめいていた。

 枯れ葉がぐちゃぐちゃと不自然にかき乱され、ざざざっと音が遠のく。

「なななな……」

「蒼真、落ち着け」

 気がつくと、立花はそばにいた。
 引っ張り起こされ、制服のズボンについた汚れを叩き払われる。

「な、なに。いまの……」

「知らない」

「そりゃ、知らないだろうけど!」

「……水は?」

 立花が差し出してきたのはびっしょり濡れたハンカチだ。

 俺が驚きまくっているあいだに、濡らしていたのだろう。

「おまえさ……」

「けっこう冷たくてうまいよ」

「いらねぇよ!」

 ハンカチをたたき落とす勢いで拒絶する。
 こんな、わけのわからない場所で、意味不明に湧いてきた水なんか、飲む気がしない。

「少しでいいから、口に……」

 真剣な目をした立花が近づいてくる。
 それすら、恐怖に思えた。

 ここにはルールがある。

 だから、駄菓子屋でアイテムを手に入れたし、使い方のレクチャーも受けた。

 そういう決まりだ。

 きちんとやらないと、ケイも陽斗も篠宮も帰ってこない。
 それどころか、親と顔を合わすこともできない。

 俺と立花は、たぶん、いままでの暮らしていた次元と、少しずれたところにいる。
 声が聞こえても、相手の顔が見えない。
 そういう異空間だ。

 考えてみれば、急激に心許なくなってくる。

 頼るところのない心細さが生まれ、くちびるがわなわなと震えた。

「蒼真」

 立花の手が伸びてきて、俺の手を掴んだ。
 よりにもよって、ハンカチを持った手だ。

 こいつは本当に遠慮のえの字もない。

 胃がカッと熱くなり、苛立ちのあまり、足を踏み鳴らす。
 その音に被さって、バキバキバキッと枝の折れる音がした。

「ぎゃぁ!」

 飛び上がって叫んだ目の前に、藪を突き破った影が転がり出てくる。

 小動物なんかじゃない。
 イノシシかと思ったぐらいだ。

 ちょうど、俺や立花が身を屈めたぐらいの、そんなサイズの影が、一回転、二回転、三回転して止まる。

「げほっ、げほっ……いったぁ……」

 聞き覚えのある声と、ひょろひょろした細い身体。

「……え」

 立花の手を振り払って逃げようとしていた俺は、驚きのあまり口をぽかんと開けたままで振り向く。

 そこに、確かに、陽斗がいた。

 なぜか、全身びしょ濡れの泥まみれで、頬に枯れ葉がくっついている。
 服装は俺たちと同じ制服姿だった。

「な、なに……? ここ、どこ……」

 呆然として辺りを見回す陽斗に、

「はい、水」

 立花がハンカチを差し出す。

「え? 立花……?」

 陽斗もまた、俺と同じぐらい、恐怖を感じた顔で立花を見る。

 そりゃそうだ。
 こいつは本当に、空気を読まない。
 マイペースどころじゃない。

「俺、なんで濡れてんの……」

 まばたきを繰り返した陽斗は、押しつけられるがままにハンカチを受け取り、自分の顔をぐいぐいと拭った。
 ハンカチに含まれていた水が滴り落ちる。

「……これ、どこの水? めちゃくちゃ、冷たいんだけど」

「動けるか」

 立花に促され、髪まで濡れている陽斗はよろけながら立ち上がった。

 二人を見比べた俺の声は、喉に詰まってかすれてしまう。

「なんで……」

 浅い息をつくと、呼吸がわずかに乱れる。

 ここにはルールがある。

 立花は、それを無視した。
 アイテムを正しく使わなかった。

 なのに……。

「……成立、してる?」

 小声で言いながら、視線をゆっくりと上げていく。

 俺の前には、平然とした表情の立花が立っていた。

 陽斗から引き取ったハンカチを固く絞り、ポケットに入れている。
 それだけの動作だが、立花は全身で周囲を警戒していた。

 張り詰めた雰囲気が感じられ、かばわれているような気がしてくる。

 なにから?
 どうして?

 ふいに湧いてきた疑問は形にならず、煙のように消えてしまう。

 立花が声を低くして言ったからだ。

「振り向くなよ」

「え?」

 驚いた陽斗が反射的に振り向こうとする。
 その頬を、立花がひっぱたいた。

 振り向かせないようにしたのだが、かなりの大きな音がする。

「蒼真、走るぞ」

 俺の手を引っ張った立花が、陽斗の背中も押し出す。

 俺たちは一斉に走った。

 その背後から、ずるずると這い回る音が近づいてくる。

 頭のなかに、大きな蛇の絵が浮かんできて、その妄想が正しいのかどうかを確かめたくなった。

 もしかしたら、山のヌシかもしれない。

 祠を壊したことに怒って、俺たちを追ってるのかもしれない。

 掴まるわけにはいかないと思った。

 道を選んで走りながら横を見る。

 そこには立花がいた。
 俺と同じスピードで走っている。

 ふと違和感を覚えた。

 でもそれは、いま思いついたことじゃない。
 いつも、ずっと、ときどき、不思議に思っていた。

 どうして、立花は、いつも、近くにいるんだろう。

 陽斗やケイや篠宮と違って、立花はすぐに気がつく。
 いまもそうだ。

 俺の行動を予感していたみたいに、すぐに。

「がんばれ」

 立花が俺の手を掴む。
 ぐいっと引っ張られ、スピードが上がる。

「こわい、こわい、こわい」

 陽斗が叫びながら前へ出る。
 立花がもう片方の手でベルトを掴んだ。

「勝手に行くな!」

「だってさ~!」

 転びそうになった陽斗は、なんとか体勢を整える。

 俺たちはゆるやかな傾斜を闇雲にくだり、追いかけてくる音がないことに気づいてようやくスピードを落とした。

 すると、もう前へ進めなくなる。
 それぞれが膝をつき、ぜいぜいと荒い息を繰り返す。
 汗がどっと出てきたが、夏の暑さは感じなかった。

「日が、暮れてる」

 あたりが薄暗いことに気づいて、俺は荒い息を整えながら頭上を見る。
 汗で濡れた額に髪が貼りついて不愉快だ。
 指を差し込んでかき上げる。

 視線の先、木々に覆われた隙間から見えるのは、夕暮れに染まった空だった。

 秋の夕暮れにも似ているし、朝焼けの色のようにも見える。

 あきらかにおかしかったが、そのことについては誰も発言しなかった。

「夜になったら……、どうする。明かり、ないよな」

 不安そうに陽斗が言う。
 声には震えが混じり、恐怖に耐えているようにも感じられた。

「ケータイがある」

 立花がポケットから携帯電話を取り出す。
 ボタンを押すと、画面が明るく光った。

「あぁ、そっか。……てさ、俺のは……どこに置いたんだっけ」

 ホッとひと息ついた陽斗は、自分のズボンをペタペタと押さえる。

「……戻れて良かったな、陽斗」

 俺が声をかけると動きを止め、不思議そうな表情を向けてきた。

「それは、おまえだろ?」

「え?」

「あれ、違った? 俺とおまえ、どっちがどっちだっけ……」

 意味不明なことを言われて戸惑っていると、立花が話に入ってきた。

「戻って来たのは陽斗、おまえだよ。こいつは俺と一緒に、おまえを探しに来た」

「あぁ、おまえとおまえが」

「……こいつと、俺が」

「だから、そう言ってるだろ」

 陽斗が不機嫌そうに肩をすくめる。
 俺を見た立花は、深く突っ込むなと言いたげに首を左右に振った。

「とにかく、先へ進もう」

「さっき、くだってたよな。祠があるとしたら、上だろ。上に向かわないと」

 膝をついたままで答える。
 立花は斜面の下の方を見て言った。

「……くだっていけば、森から出られるかも。もうじき、暗くなる」

「でも、ケイと篠宮が見つかってない」

 俺が食い下がると、立花は大きく肩を上下させてから立ち上がった。
 俺も腕を掴まれ、立たされた。

「次はどっちが見つかるだろうな……。それとも、さっきの変なのに見つかるのが先か」

「やめろよ」

 俺は鋭く声を発した。
 立花を押しのけて、陽斗を立たせる。

「おまえ、どこにいたの」

 歩きながら尋ねたが、帰ってくるのは曖昧な返事だけだ。

「山をおりてきたから、あの藪に出たんだろ?」

「ううん……。どうだろ」

「混乱してるんだよ。聞いてやるな」

 後ろに続く立花に言われ、俺は肩越しに軽く睨んだ。

「気になるだろ。どっかに、元へ戻る出入り口みたいなものがあるのかもしれないし」

「出入り口ねぇ……」

「そういえば、さ」

 陽斗が大きく息を吐き出した。

「ある男が山登りをしてたらしいんだよ。山って、すれ違うときとか、追い越すときとかに挨拶するだろ? するんだよ」

 いきなりの話題転換だ。
 俺は眉をひそめたけど、陽斗はかまわずに続ける。

「……それで、あるグループに追い越されたらしいんだよな。挨拶もしたんだ。男はそのまま追いかけるように登ったけど、距離がどんどん離れていって、そのうちに、自分は同じところを歩いてるって気づくんだ。でも、一本道だ。そのうち、追い越したはずのグループの声が後ろから聞こえてきて……」

「それで?」

 立花が先を促す。

「それだけ。一本道をひとりで歩いてたのに、追い越していったはずのグループをいつのまにか追い越してるんだ。……そういうことが、山ではよくあるんだってさ」

「どこ情報?」

 立花のあいづちは、いかにも興味なさげだ。

「どこだろうな。ネットで見たのかな」

「どうせなら、抜け出す方法とか、話せよ……。こんなときに、こわい話をしてどうするんだ。……蒼真が泣いちゃうだろ」

 いきなり引き合いに出され、びくっと反応してしまう。
 それが気恥ずかしくて、肩越しに立花を睨んだ。

「は? 泣かねーよ」

 ついでに舌を鳴らし、ずんずんと前へ出る。
 木々のあいだを通って、傾斜を上へ向かって歩く。

 相変わらず、ひとそよぎの風もない。
 セミの声も聞こえなくなっていた。

 さっきより静かで、言葉にならない圧を感じた。

 ほんの少しこわいような、落ち着かない気分になる。

 三人の足音が乱れて重なり、沈黙が広がった。

 俺の右斜め後ろを歩く陽斗が小さく息を吐く。

「なぁ、どこまで行くの。やっぱり、おりたほうがいいじゃねぇ?」

 弱い声に訴えかけられ、俺は足を止めた。

 自分でも自信がない。
 どうして、祠へ行かなければいけないのかも、よくわかっていなかった。

 細かいことを気にしたら、耐えられなくなりそうだ。

「わかんない」

 答えた俺は、進行方向をじっと見つめる。

「……篠宮がいたらな」

 ぼそっとつぶやいた瞬間、左後ろの立花が舌打ちをした。
 俺には、そう聞こえた。

 でも、陽斗は気づいていないかのように、俺に向かって言った。

「なんで?」

「だって、あいつはさ、いつも冷静だろ。頭もいいし……」

「あぁ……。まぁ、な」

 陽斗はなにげなく立花を気にした。
 その立花は腰に片手を当て、視線をどこかへ向けながら「へぇ」とだけ言う。
 投げやりな声だ。

 不満げな態度を見せられ、俺は心配になるどころか、してやったりの気分になった。

 だって、篠宮なら、ルールを守ってくれる。
 立花とは違う。

 心底から、そう思う。

「じゃあ、次は篠宮がいいな。……早く見つけて、帰ろうぜ」

 軽やかな口調で言った陽斗が、俺の肩へ腕をまわす。
 ぐいっと引き寄せられ、近づいた顔が微塵も笑ってないことに気づく。

「……いま、俺がしゃべってたよな?」

 不安そうな声が小さく尋ねてくる。

「しゃべってた!」

 立花が声を張り上げた勢いで、俺たちはよろけるように足を踏み出した。

「びっくりする~!」

「声、デカいよ」

 陽斗の笑い声に俺も同調する。
 三人して、歩き出した。

 なにか、雑談をしたいと思ったが、話題は見つからなかった。

 黙って歩いていると、陽斗が「そう言えば」と口を開き、また山の怪談を話し出す。
 さっきとは別の話だ。

「陽斗。もういいって」

 立花が止めようとする。

「でもさ、その日は天気がすごく悪くて……」

「……別のこと、話そう。なんか、寒くなってくるから」

 俺も制止の声をかけた。
 不安に拍車がかかって、薄ら寒い。

 しかも、じわじわっと嫌な気分になり、陽斗の腕を掴んだ。
 軽く揺する。

「その人、道がわからなくなったんだって」

 陽斗の目が、俺を見た。

 ふいに生暖かい空気が耳元をかすめた。
 まるで、だれかが息を吹きかけたみたいだ。

 驚いて飛びすさると、よろめいた俺の背中を立花が受け止めた。

 ねぇ───

 声のような音がして、俺と立花は身をすくめた。

 その得体の知れない音が「はると」と聞こえたのと同時に、俺たちは手を伸ばした。
 立花が叫ぶ。

「答えるな!」

 でも、遅かった。

 なにも知らない無防備な陽斗は、呆けた顔をして振り向いてしまう。

 その身体がガクンと沈んだ。

「ぎゃぁ!」

 陽斗の叫び声が地面のあたりで聞こえ、ずるずるっと引きずられていくのが視界の端に見えた。
 とっさに飛びついて、手首を掴む。

 引っ張ったのと同時に、周囲の空気が重くなった。

 叫び出したいような違和感が生まれ、圧が一気に迫ってくる。

 なにかが、陽斗の足に絡んでいる。

 見るのがこわい。
 見たら、正体がわかってしまう。

 それがなにであっても、安心できるはずはなかった。

「うわ! うわぁぁ! た、たすけ……っ」

 陽斗が半泣きになって叫び、俺の両手首をぎゅっと握り返した。

「離すな、離すな、はなすなよ!」

 叫び声を聞きながら、俺は歯を食いしばって、地面に膝をつく。
 その腰に、立花の腕が絡んだ。

 俺たちはひとかたまりになり、その場へふんばった。

 陽斗を連れて行こうとする力と、押さえる力はほぼ同じだ。

 もしかしたら、こっちのほうが勝っている。

 俺は体勢を整え、ぐいっと陽斗を引き寄せた。
 腕に抱き込もうとしたが、引っ張った勢いで後ろへ倒れてしまう。

 ふたりして、なだらかな傾斜をごろごろっと転がった。
 俺はとっさに叫ぶ。
 そこに残っている立花に向かってだ。

「立花! あれ! あれ、使って!」

 ベーゴマのひと言が出てこない。

「さっきの、やつ!」

 背中に向かって怒鳴ると、立花は片膝をついた姿勢でポケットを探った。

 俺の位置からは、立花の視線の先は見えない。

 代わりに、中身を出した空箱が飛んでくる。

「え、キラメキマン……?」

 恐怖に震えながら掴み取った陽斗が、信じられないとばかりに声をひそめた。

 これがなにの役に立つのかと思う気持ちはよくわかる。
 俺だって、よくわかってない。

 立花はまた器用にひもを巻き付けた。

 たぶん、そのベーゴマには火の模様がついているはずだ。
 陽斗の手にした箱にも、火が描かれている。

「火を出せ!」

 俺は必死になって叫んだ。
 隣で身を伏せていた陽斗が傾斜を這い上がる。

 いきなり、びゅぅっと風が吹いた。


 ぎゅぉわ、ぎゅぎゅ、ぎゅいっ───
 きゅわぁぁぁ、きぃぃぃぃ───

 耳を塞ぎたくなる不快な音があたりに渦を巻いた。
 四方八方に黒板を並べられ、一度にひっかいたような音だ。

 俺も陽斗も、耳を塞いだ格好で、たまらずに身をよじった。

 背中にぞくぞくと嫌悪感が走り、鳥肌が立つ。
 歯を食いしばって耐えながら、立花のそばに火を見た。

「え……」

 陽斗が声をこぼす。

「ちっせ……」

 素直な感想が耳に届き、俺は髪が逆立つほどの怒りを感じた。

「立花! てめぇ、またか!」

 間髪入れずに怒鳴りつける。

「こんな小さい焚き火! なんの足しになるんだよ! おまえ、想像力とかないのか! 壁だろ、壁だよ! 火の壁!」

 傾斜を這いのぼり、怒りに任せて、立花を突き飛ばす。
 倒れ込みそうになったところで耐えた立花がにやりと笑った。

「でも、寒いって言っただろ?」

「はぁ?」

 なにの話をしているのか、全然わからない。

 そこへ陽斗が這い寄ってきた。

「意味が違うだろ。朝倉は、怪談をしたら寒くなるって言ったんだ。本当に、寒いわけじゃ……って。これ、どうやった?」

 三人の目の前には、小さな焚き火が燃えている。

 じわっと熱が広がり、重苦しい空気がほんの少しだけゆるむ。

 陽斗の足を引っ張った、不穏な気配もなかった。

 代わりに、近くの藪が激しい音を立てた。
 葉がガサガサ鳴って、枝の折れる音もボキボキと混じる。

 驚いた陽斗が悲鳴をあげながらのけぞり、その勢いで傾斜を転がり落ちる。
 道連れにされそうになった俺の身体を、立花の腕が掴んだ。

 強引に引き寄せられる。
 ほぼ、抱きしめるような形で確保され、じんわりと汗ばんだ制服が頬に触れた。

 立花の腕に抱き寄せられていることを、恥ずかしいと思うより先に、立花の鼓動が耳へ伝わってくる。

 高い体温と、少し乱れた息づかい。

「陽斗、だいじょうぶか?」

 俺を腕に抱いたままで、立花は傾斜の方へ声をかけた。

「うぇぇい。平気ぃぃ」

 ふざけた声が返ってきても、立花の手は俺を離さなかった。

「もしかして、おまえ、……テンパってる?」

 腕の中で問いかける。

 藪はまだ鳴っている。
 陽斗が傾斜を這い上がってきた。

「あ……」

 声を出したのは、俺でも、立花でも、陽斗でもない。

 三人の視線が音の止まった藪を見る。

 よろめきながら出てきた声の主は、小柄な男だ。
 ケイだった。

「熱かった~!」

 そう言いながら、制服を手のひらでなぞる。
 それから、指先で髪を梳いた。

 小さなかけらが、ぽろぽろとこぼれ落ちていく。

「え? 俺、焦げてるんだけど……」

 ぽろぽろとこぼれている様に見えたのは、焦げた毛先だ。
 でも、ケガはしていないらしく、ケイの声はいつも通りに軽い。

「ウケるんだけど」

 俺たちのほうを向いた顔はまるで笑っていない。

 俺を突き飛ばす勢いで、陽斗が地面を蹴った。
 駆け寄り、ぶすっとした表情のケイに抱きつく。

「無事だった~ッ!」

「無事じゃない。焦げてる。……って言うか、おまえ、濡れてない?」

「おまえは、焦げくさい」

「意味がわからん」

 ふんっと鼻を鳴らしたケイの視線が俺と立花を見た。

「篠宮は?」

「まだ、迷子」

 俺が答えると、陽斗とケイは揃って首を傾げた。
 目の前の異変に気づいたのだ。

「……立花、離してやれよ」

「首が絞まってんぞ」

 陽斗はケラケラッと笑ったが、ケイは真顔だ。
 口調だけが軽い。

「おい、立花」

 俺が声をかけると、間近で見つめられた。
 俺はきつくにらみ返す。

 胸を押し返すと、腕は簡単にほどける。

「……また、ちゃんとやらなかったな」

 吐き出す息がわなわなと震えた。
 怒りが湧いてくる。

 そして、今度も、正しくないのに、成立した。

 得体の知れないものは撃退されて、ケイが帰ってきた。

「なんで……」

 疑問が脳裏をかすめても、あるのは結果だけだ。

 身体を温める小さな焚き火と、戻ってきたケイ。

「……あー、あったけぇ」

 全身濡れていた陽斗が両手をかざして暖を取る。

 あたりは一段と暗くなり、見上げた空には星がちらついていた。

「夜はやっぱり冷えるよな」

 ケイが言う。
 暗くなってきた山の中にいることに怯えもせず、飄々とした表情だ。

「ここ、どこ? だれんとこの山?」

「知らない」

 答えるのは陽斗だ。
 ふたりにつられて、俺も立花も焚き火へ手をかざす。

 勝手なことをする立花への怒りは収まりきらないが、仲間が四人に増えたおかげで恐怖心は薄れる。

「朝倉と立花が探しにきてくれたらしい」

 陽斗が言い、俺が付け加える。

「あの階段をのぼって、祠へ行くつもりが、こんなところに……」

「異界じゃん」

 ケイが口調だけで笑った。

「そう思うよな」

 苦々しい気分で、俺はうなずく。

「夢なのか現実なのか、全然わかんないけど。夢なら、醒めるし。……あとは、篠宮だ」

「夢じゃなかったら?」

「なんとかなる」

 立花が言う。
 俺を含め、三人の視線が集中する。

「おまえは、朝倉がいれば、なんとかなるんだよ……」

 ケイがつぶやき、陽斗がため息をつく。

「あの夜、なにがあったんだっけ」

「おまえらが、祠に石を投げた」

 祠を壊した張本人のくせして、立花はふたりを責めるように見た。

「え? そんなこと、したか?」

「めっちゃバチ当たりじゃん」

 ケイに続いて、陽斗が抗議の声をあげる。

 俺はひっそりと息をついた。
 あきれ顔を向けて、真実を指摘する。

「……おまえが祠を壊したんだよ、立花」

「え! バカじゃん」

「呪われるんだぞ!」

 ケイが声をあげ、陽斗も身を乗り出した。

 三人の視線を集めた立花はチラチラ揺れる焚き火を見つめたまま、片頬をゆるめた。

「……そーでもなかったんだけどな」

「おまえのせいだよ」

 腕を伸ばして、肩を押す。
 ぐらりと揺れた立花はかすかに笑った。
 それを見た俺のこめかみあたりが引きつる。

「なに、笑って……」

「だとしたら、どうして、俺たちまで巻き込まれてるんだよ」

 陽斗が怒ったように背中を伸ばした。
 焚き火を越えて行きそうな勢いに驚いたが、俺がなだめるよりも早く、ケイが背中を叩いて言う。

「まぁまぁ、仕方ないじゃん。みんなで行った肝試しだ。こういうのって、結局、連帯責任だし、誰に行くかはわからないんだよ」

「おまえら、どこにいたの」

 ふいに気になった。
 ふたりの視線が、尋ねた俺へ向いた。

「おまえらこそ、なにしてたんだよ」

 陽斗が言う。
 また会話が噛み合っていない。
 俺は眉をひそめた。

「普通にしてた」

 立花が代わりに答える。
 陽斗とケイは顔を見合わせた。

「おまえ、どうしてた?」

 陽斗に聞かれ、ケイが首を傾げる。

「あんまりよく覚えてない。気がついたら、すっごく熱くて……。制服、どうしよう。こんなふうにしちゃって」

 母親に怒られることを想像したのか、ケイはぐったりと両肩を落とした。

 陽斗がその肩へ手を置く。

「無事に帰れたら、それでいいじゃん。たぶん、向こうでは一週間とか過ぎてて、神隠しだって大騒ぎになってるんだ。遭難してたってことにすれば、納得する」

「焦げてるのに? 遭難して、焦げるか? おまえらに会えたのはよかったけど、助け方が雑すぎるだろ」

「あー。それね」

 陽斗がうなずき、俺もうなずく。
 ふたりして立花を指さした。

「こいつが言うことを聞かない」

 俺が言うと、ケイは白目を剥くような振りをした。

「最悪じゃん、立花」

「でも、こうして集まれたわけだから。いいだろ」

 悪びれずに言った立花は、俺に視線を向けてきた。

「……ここから出たら、あの夜に戻ってる可能性もある」

 いちいち嫌なことを言うと思ったけど、態度には出さず、冷淡に答えた。

「かもな。とにかく、次は篠宮だ。篠宮を回収して、絶対に生きて帰る」

 力強く宣言した瞬間、俺以外の三人が沈黙した。

 急に空気が冷えたような雰囲気にひやりとする。

 なにか、変なことを言っただろうか。

「……じゃあ、行くか」

 立花が膝に手を当てて立ち上がる。
 陽斗とケイも、ゆらっと身体を起こした。

 俺はごくりと息を呑み込む。

 急な不安に襲われて、座ったまま動けなかった。
 俺の発言のなにが、友人たちを黙らせたのか。

 思わず考えてしまう。
 この状況のおかしさも、本当はよく考えるべきだ。

「蒼真」

 立花がやわらかい声で呼びかけてきた。

 なかなか動かない俺の機嫌を取っているつもりなんだろう。
 手首を掴まれ、引き起こされる。

「どっちに行く。上か、下か」

「……篠宮を探すから、まだ山は降りられない」

 俺は傾斜の上の方を見た。
 立花も同じ方向へ視線を向ける。
 そして、すぐに俺を見た。

 山の中は薄暗くなっている。
 でも、焚き火のそばは明るかった。

 きりっとして涼しげな立花の目元がよく見えて、俺は違和感を覚えた。

 それは、いつも感じているのと同じものだ。
 俺がなにかをするたびに、立花は待ちかまえている。

 転びそうになったら支えてくれて、荷物が多ければ手伝ってくれる。

 みんなで話をしていても、俺の言葉には必ず返事をした。

 教室を移動するときも待っていたし、熱が出て休んだ日に外を見れば、連絡プリントを手にして立っていた。

 いつも、そこにいる。

 かすかな違和感はあっても、不思議に思ったことはなかった。

 立花はそういうやつだ。

 理由なんて、考えたこともない。

 立花はもう前を向いていた。
 俺を見ていた瞳がどんなふうだったかも思い出せず、俺はまばたきを繰り返す。

 まだ、手首は掴まれていて、その感触がやけに生々しい。

 それは、あの夜が過ぎて、初めて感じるリアルだった。

 セミの声もなくて、森の中にいて、焚き火は少しずつ消えかけている。

 篠宮は見つかるだろう。
 本当に山から出られるのかは、わからない。

 また、ごくっと喉が鳴った。

 恐怖はいつも心の奥底にあり、必死に押さえつけて感じないようにしているだけだ。

 ねぇ───
 あの、謎の声が聞こえてくる。

 陽斗はもう振り向かなかった。
 ケイは怯えた表情で固まり、その首筋を陽斗が掴んでいる。
 だれも振り向かず、傾斜に向かって足を踏み出した。

 風もないのに焚き火が消えて、焦げ臭い匂いだけがあとに残る。

「行くぞ」

 手首を掴んでいた立花が、手をつなぎ直してくる。

 気恥ずかしくて不愉快で、抵抗したかったけれど、振りほどけなかった。

 他人の体温がダイレクトに感じられる。
 そのことだけがリアルで、安心する。

 陽斗とケイも身を寄せ合っていた。

 目が潤んでいるように見え、俺も同じような表情をしているのだろうと気づく。
 言葉にならない不安が押し寄せ、気をゆるめたら涙がこぼれそうだ。

「なぁ、ケイ。知ってる?」

 陽斗の声がして、俺はビクッと背筋を震わせた。

「建設会社の社員が峠を越えてたんだって」

 また、山の怪談を話しはじめている。

「現地で準備してさ、帰るために後輩の運転する車に乗ったんだって。疲れてたから寝たんだけど、急に後輩が起こしてくるんだ。『先輩、起きてください。さっきから同じところをぐるぐる回ってるんですよ』」

 自分より背の高い陽斗を腕にしがみつかせたケイは、黙って聞いている。

 俺も立花も、陽斗を止めようとは思わなかった。
 どうせ、話をやめないとわかっているからだ。

「こわくない?」

 ひとしきり話したあとで、陽斗が尋ねる。

「こわいって、どんな感じだっけ」

 ケイはぼんやりとした声で答える。

 それを聞いた俺は、とっさに立花の手を握りしめた。

 藪から出てきてから、ケイはまだ笑っていない。
 こんな状況だから、面白いことなんてなにもないけど、バカなことを言ってはケラケラ笑うのがケイだった。

 なのに、まるで感情を置き忘れてきたみたいに、顔だけが笑っていない。

 陽斗は陽斗で、ずっと山の怪談を話している。

 変だと口に出して言えず、俺は顔を伏せた。

 日常はもう戻って来ないかもしれない。
 永遠にこの世界がループして、俺たちは一生、篠宮を探し続けるのかも知れない。

 喉が引きつれて、ひっと小さく音が鳴る。

 立花は舌打ちをした。

 気づいて顔を上げると、目の前が白くかすんで見えた。

「……これって、霧?」

 不安げに言うと、立花の手に力が入った。
 互いの手をぎゅっと握り、陽斗とケイを引き寄せる。

 はぐれないように、ひとかたまりになって歩く。

 前へ前へ。
 傾斜を登っていく。

 霧はどんどん濃くなって、葉っぱのこすれる音も遠くなっていく。
 自分たちの足音だけがやけに大きく聞こえた。

 ザッ……ザッ……
 ザッ……ザッ……

 一定のリズムだ。
 俺はときどき息を整えたが、立花の息づかいは安定している。

 前を歩かせている陽斗とケイの呼吸が浅いことに気づいて、立花と繋いでいる手の力を抜いた。
 ふたりの様子を見ようと思ったからだ。

「ダメだ」

 立花に拒まれ、ぎゅっと握り返される。

 俺は少しだけ息を詰まらせた。
 立花のはっきりとした声が胸にしんと響いて、目頭が熱くなってくる。

 平然としているように見えても、こんな異常な状況におかれて、普通でいられるはずがない。
 だから、手を振りほどくのは止めた。

 同じ違和感の中にいる仲間をからかう気にもならなかった。

 なにより俺は、立花の体温に安心している。
 そこにあるリアルが、叫び出したい衝動を消してくれるからだ。

「陽斗、ケイ。大丈夫か。深呼吸しろよ」

 立花が前へ声をかける。

 陽斗とケイは小さく返事をした。
 続けて、ふぅーふぅーと深い呼吸を繰り返す。

 それを聞きながら、俺は異変に気がついた。

 俺たちは一定のリズムで前に進んでいる。
 でも、足音が、ひとつ多い。

 しかも、右へ左へ移動して、まっすぐ進んでいない。

 ぞくっと寒気がして、俺は思わず立花の手を握りしめた。

 時間を置かず握り返されたのは、立花も異変に気づいているからだ。

「気にすんな」

 その言い方は、これまでと違っていた。
 少しだけ早口だ。

 立花があたりを見渡した気がして、俺も視線を巡らせる。
 視界の端で、霧にまぎれて、なにかが動いた。

「なぁ……」

 立花を呼び止める。

 木々の間で黒いかたまりが動いたように見えて、歩くのが遅れてしまう。
 繋いだ手がはずれ、立花が振り向く。

 その顔が、別人に見えた。

「……っ!」

 声を喉に詰まらせて、俺はよろけるように飛びのいた。

 心臓がどきっと跳ねて、そのまま喉から飛び出しそうな勢いで早鐘を打つ。
 全身に鼓動の音が広がって、くちびるが震える。

 信じられない思いでまばたきをしたのと同時に、立花は立花の顔に戻った。

「どうした」

「え……」

 情けない声が出たが、恥ずかしく感じる余裕はなかった。

「蒼真、だいじょうぶだから」

 立花はもう一度、俺の手を握った。
 体温が手のひらに伝わってくる。

「俺が、いるから」

 手を引き寄せられ、顔が近づいた。
 覗き込むようにじっくり見つめられて、俺も立花の顔を見ることに集中した。
 息を整え、小さくうなずく。

 そこにいるのは、間違いなく立花だ。

 でも、確かに、別の顔を見た。

 誰にも似ていない、知らない顔だった。

 冷たい顔をしていて、瞳は真っ黒で……。
 思い出すとまたドキドキしてくる。

 立花に手を引かれながら、先を歩く陽斗とケイを追いかける。

 こっちのことなんて、全然気にしていない速度だ。

 早足で進み、呼びかけながら追いつく。

 その間も、俺は視界の端をかすめた影と、立花に重なった別の顔のことを考えていた。

 考えない方がいいと思っても、浮かんできてしまう。

 さっきまで、あんなに安心していたのに、いまは繋いだ手にも違和感を覚える。

 急に落ち着かなくなり、少しだけ気持ち悪くなった。

 小さい頃から一緒にいたけど、立花だけが特別だったことはない。
 五人でいることが当然で、だれかとふたりになっても、ほかの三人の話題が出た。

 いてもいなくても、俺たちは五人でひとつのグループだったからだ。

 なのに、変な感じがする。
 立花だけが『ズレている』。
 そんな感じがする。

 立花に手を引かれながら、俺はまばたきを繰り返した。

 まだ合流していない篠宮のことが脳裏をよぎっていく。

 いつものように、俺は五人でいることを考える。


 あさくら───
 そうま───

 かすかな声がして、ビクッとして、顔を伏せる。

 だれかが俺を呼んでいた。
 しかも、視線を感じる。
 薄い霧にまぎれた木の陰からだ。

「蒼真」

 立花にも呼ばれた。
 はっきりと間近に顔がある。

「そっちを見るな。俺を、見てろ」

 歩きながら手をほどく。

 でも、肌からは離さず、手のひらを滑らせるように腕をたどった。

 そのくすぐったさとは別に、生暖かい息が首筋の左側をかすめる。
 立花がいるのとは反対側だ。
 誰もいないはずなのに、ひとの息づかいがした。

「……っ」

 恐怖で身をすくめたのとほぼ同時に、立花の手が首筋を掴んだ。

「蒼真」

 もう一度、呼ばれる。

「……な、に?」

 俺は動揺していた。
 視線を左右に揺らしながら、浅い息を繰り返す。

「足を止めるなよ? 陽斗たちに置いて行かれる。……前を見て、進もう」

「う、うん……」

 声はうわずり、身体は恐怖でぞわぞわと落ち着かない。

 しかも、立花との距離は密接のレベルだ。

 顔も近くて、頬と頬がぶつかりそうになっている。

「ちか、く……ない?」

 首筋を引き寄せられている俺は、抗議の声を途切れさせる。

 こんなに近くで立花を感じたことがなかった。
 ほかの三人となら、プロレスごっこもしたし、背中に飛び乗ったこともある。

 でも、立花とはしなかった。
 いつも振り向くとそこにいるのに、一定の距離を守って近づいてこない。
 それが立花との距離だと思ってきた。

 ほかに三人もいるから、ふざけ合う相手には困らない。
 だから、気にしなかった。

「立花……、近いって……」

 肘で相手の身体を押し返す。

 心臓が小さく早鐘を打っている。
 とくとくと小刻みな音を感じながら、俺はくちびるを噛んだ。
 恐怖か、別の何かなのか、わからない。

 いままで感じたことのない感情が押し寄せてきて、立花のそばにいるのが恥ずかしくなってくる。

 こんなふうにベタベタしているのを、先行する陽斗とケイに見られたら、どんなふうにからかわれるか。
 考えるだけでも億劫だ。

 意を決してからだをよじり、自分から立花の手を掴む。
 首筋から引き剥がして、そのまま手のひら同士を合わせた。

 どうしてだか、手を握れなくて、泣きたいような気持ちになる。

 あと少し、立花の動きが遅かったら、たぶん、俺は泣いていたと思う。

 すでに目頭は熱くて、息をするのもままならない。

 立花に手を握られ、俺は黙々と足を前に運ぶ。

 四人の足音が近づき、混じり、そして、また増える。


 ザッ……ザッ……ザッ……

 今度は、はっきりとわかった。
 離れたところを、同じ方向に歩く音がしている。

  見てはいけないとわかっていても、すぐそばに聞こえた瞬間は視界の端が気にかかった。

「……なあ。あのさぁ……」

 声が震える。

「……さっきから、変だよな」

 聞こえているはずなのに、立花は答えなかった。

 代わりに、前を歩いている陽斗が叫んだ。

「足音……ッ! してる……ッ!」

「え! やめろよ、陽斗。こわい、こわい」

 ケイも声を張り上げた。

「待て!」

「走るな!」

 立花と俺が呼び止めても、パニックになったふたりには届かない。

「うわわっぁぁっ!」

「ぎゃぁぁぁっ!」

 悲鳴を上げたかと思うと、全速力で駆け出した。

「蒼真、走れ!」

 立花も走り出す。
 引っ張られた俺はつんのめったが、繋いだ手は離れなかった。

「くっそ! なんだよ、あいつら!」

 悪態をつく立花と、森の中を走る。
 陽斗とケイも全力疾走だ。

 逃げようとする勢いで、先を争うように傾斜をのぼっていく。
 バラバラにならないのだけが、救いだ。

 俺はぜいぜいと息を切らした。
 立花の息も弾む。

 そして、足音は確実に増えていた。

 進め進めと追い立てられるように、恐怖が渦を巻いて広がっていく。

 俺は無意識に目元を拭った。
 知らない間に流れた涙で肌が濡れる。

 もしも、立花が手を繋いでくれていなかったら、声をあげて泣いたかもしれなかった。