どうせ届かないのに、それでも好きになった——宮廷武官と薬師の恋

宮廷診療所の昼休憩。

私は簡単な食事をとりながら、ぼんやりと周囲の声を聞き流していた。

そのとき、近くの武官たちの会話が、ふと耳に入った。

「聞いたか? 凌の縁談の話」

「例のか? あの方だろう、国でも一、二を争うっていう」

「ああ。あの容姿で有名な――身分もかなり上の」

「この前、絡まれてるところを助けられたとかで、一目惚れらしいぞ」

軽い笑い混じりの声が続く。

「まあ、あれだけの美人なら、さすがに凌も断らないだろう」

「だろうな。あいつもいい加減、身を固めてもおかしくない年だし」

――そこで、会話がふっと遠のいた。

手に持っていた箸が、わずかに止まる。

……ああ、そうなんだ、とどこか他人事のように思ったのに、胸の奥が少しだけ重くなる。

まあ、そうだよね。

いつか、こういう話を聞く日が来るとは思っていた。

でも――思ったより、早かったかも。

苦笑が、自然と浮かんだ。

推しのアイドルが結婚するって聞いたときって、こんな感じなのかな。

どこか納得しているのに、思ったよりダメージを受けている自分に、少し驚く。

小さく息を吐いて、残っていた食事を流し込むように口に入れた。

――まだ、今なら大丈夫。

これで良かったんだと思う。

そう言い聞かせるようにして立ち上がる。

それでも胸の奥に引っかかるものを振り払うように、ひとつだけため息をついた。

昼休憩が終わり、診療所へ戻る途中。

向こうから歩いてくる人影に気づく。

……よりによって。

このタイミングで、一番会いたくなかったかも。

ぎゅっと手を握りしめてから、顔を上げる。

「越さん、こんにちは」

いつも通りの声で挨拶をする。

「ああ、ちょうど良かった」

変わらない調子の声が返ってくる。

「あの?」

「白雲さんに、姫香が遅くなるから送るよう頼まれた」

「……は?」

思わず間の抜けた声が出る。

「えっと、私、遅くなるんですか?」

自分で言っていても、ひどく間抜けな返事だと思う。

いや、確かに診療所は忙しそうだったけど。

それを見て、凌越は小さくため息をついた。

「姫香も大変だな」

「はは……まあ、白雲さん、忙しいから」

苦笑しながら返す。

「遅くなるのはいいんだけど、送ってもらうのは悪くて。その、越さんは本当に大丈夫?」

「帰り道のついでだし、問題ない」

いつも通りの、簡潔な返答。

さっき聞いた話が、頭の隅に引っかかったまま離れない。

これから婚約するかもしれないのに――

送ってもらって、いいのかな。

「……あの、嫌なときは断ってくださいね」

気づけば、そんな言葉が出ていた。

少しだけ視線を逸らしてしまう。

「嫌なら、送っていない」

さらりと返されて、思わず胸が跳ねた。

……いや。

嫌っていないって言われてるだけ、だから。

――それだけ、のはずなのに。

「その……嫌じゃなければ、お願いします」

自分でも少し変な言い方だと思いながら、ぺこりと頭を下げる。

「ああ。仕事が終わったら、診療所で待っていてくれ。迎えに行く」

「あ、はい」

それだけ言って、凌越は振り返ることなく歩き去っていく。

その背中を見送りながら、私はゆっくりと息を吐いた。

胸の奥に引っかかったものが、さっきよりも少しだけ、重くなっていた。