どうせ届かないのに、それでも好きになった——宮廷武官と薬師の恋

「お母様の具合はいかがですか」

「大分、落ち着いてるわ。明蘭様にもお礼を伝えておいてもらえるかしら」

「はい、では。お大事にしてください」

軽く頭を下げて、私は訪問先を後にする。

まだ昼の名残が残る通りを歩きながら、小さく息をついた。

今日はこれでお休みだし、少し散歩してから帰ろうかな。

――と、そのとき。

扉が開く音に、ふと視線を向ける。

隣の家から出てきた見覚えのある姿に、胸がドキッと跳ねた。

凌越だった。

「越さん、こんにちは」

「姫香か」

「お家、ここなんですね」

庭付きの一軒家へと目を向ける。

「……まぁな」

短く返されて、わずかに沈黙が落ちる。

「この後、店番か?」

「いえ、今日はお休みなんですけど、薬を届けるのだけ頼まれて」

「なら、少し、寄っていく時間はありそうか」

そう言ってから、少しだけ視線をこちらへ向ける。

「えっと……はい、まぁ」

まさか自宅に招待されると思わなくて、思わず言葉がうわずる。

親切で声をかけてくれているだけだと分かっているのに。

越さんの家に入る機会なんて、もうないかもしれないと思うと、結局、私はその誘惑に負けてしまった。

「でも、その……お邪魔して、ご迷惑じゃ」

それでも一応、遠慮がちにそう聞くと、凌越は小さく苦笑した。

「こちらが誘っているのに、迷惑も何もないと思うが」

「あ、そ、そうですよね」

慌てて頷く。

「それに」

わずかに間を置いてから、言葉を続けた。

「丁度、そちらに行こうと思っていたところだ」

「あ、あの、預かりものですよね」

その言葉に、一瞬だけ表情が揺れた気がした。

ほんのわずかに、言葉を選ぶような間があって、

「……あぁ、その話は、入ってからでいい」

軽く視線で促される。

私は小さく頷いて、そのまま後に続いた。

門をくぐり、短い庭を抜けて玄関へ向かう。

綺麗に手入れされているなぁ、と感じる。

「どうぞ」

「あ、ありがとうございます」

開いてくれた扉の先へ足を踏み入れた。

中に入ると、外から見た印象と同じで、すっきりと整えられていた。

靴を脱いで上がりながら、軽く頭を下げる。

卓に案内されてから、「茶を用意するから、少し待っていてくれ」と言って、凌越は奥へと消えていく。

一人になった途端、急に落ち着かなくなって、つい部屋の中を見回してしまう。

……越さんらしい家だな、と思った。

綺麗に整えられているというより、あまり生活感がない。

お師匠様の家とも、日本の実家とも違う。

ここで暮らしている気配が、あまり感じられないというか。

……って、何、余計なこと考えてるんだろう、私。

少し頭を振って思考を振り払ったところで、ちょうど凌越が戻ってきた。

「口に合うといいが」

差し出されたお茶と菓子を受け取り、軽く頭を下げる。

「ありがとう」

湯気の立つ茶を一口飲んでから、そっと菓子に手を伸ばした。

「……甘いもの、よく食べるんですか」

何気なくそう聞くと、凌越はあっさりと否定する。

「いや、あまり得意ではない」

それだけ言って、わずかに間があいた。

「……そちらに持っていくつもりだった。残りは持って帰ってくれると助かる」

その言葉に、私は小さく頷く。

「ありがとうございます。これ、すごく美味しくて。お師匠様も、きっと喜びます」

言いながら、もう一口だけ口に運ぶ。

ふと顔を上げると、凌越がこちらを見ていた。

一瞬だけ視線が合って、慌てて目を逸らす。

さっきから、空気が少し違う気がする。

いやいや、自意識過剰だから。私しかいなければ、視線が合うのも当たり前だし。

そのまま、なんとなく手元へと視線を落とす。

――あ。

そういえば。

「もう、返したほうがいいですよね」

小袋に入れた下げ緒を取り出す。

凌越はため息をついてから、少しだけこちらを見つめたあと、まっすぐに視線を合わせた。

「持っているのは、迷惑か」

迷惑って。何が――えっと、これが……?

慌てて手を振る。

「迷惑とか……全然。持っていると、安心するので……」

言いかけて、顔が熱くなる。

――安心って何? 私、何言ってるんだろう。

どうしていいか分からなくて、つい、うつむいてしまう。

凌越は、姫香が握りしめている下げ緒に視線を向けた。

もう、曖昧なままにはしたくなかった。

「それなら、持っていて欲しい」

その言葉に、思わず顔を上げた。

凌越の表情はやわらかくて、一瞬、勘違いしてしまいそうになる。

いやいや、私が大切なお守りを預けたから――きっと、それだけで。

「……あの、本当に、頂いていいんですか?」

もう一度だけ、確認する。

「あぁ」

短く答えてから、凌越の表情が変わる。

さっきまでのやわらかさが消えて、わずかに真剣さを帯びた。

「いずれ、結婚してほしい」

「え、あの、けっ……こん?」

頭が追いつかない。

さっきまで、下げ緒の話だったのに――けっこん、って、結婚のこと?

言葉の意味は分かるのに、理解が追いつかなくて、心臓の音だけがやけに大きく響いていた。

顔が、さっきよりも熱くなっていく。

凌越は、そんな私の動揺ぶりを見て、ふっと吹き出した。

「……悪い。やはり、それの意味を知らなかったんだな」

そう言って、私が握りしめていた下げ緒に視線を向けた。

「意味って……」

「そのままの意味だ」

一度、言葉を区切ってから。

「妻になってほしい」

――え。

一瞬、意識が遠のきそうになる。

……プロポーズされてる?

これは、夢、かな。

そんなふうに思うくらい、信じられなくて。

そもそも、越さんに好かれる理由って何?

本当に、意味が分からない。

……それでも。

どうしようもなく、嬉しくて。

固まったまま動けない私を、越さんはしばらく黙って見つめていた。

それから少し心配そうな表情を浮かべて、

「返事はすぐでなくていい。気長に待つつもりだ」

そう言われて、はっとする。

「いえ、あの、違うんです。私は……その、越さんのこと、好き……だから」

最後の方は、ほとんど声にならなかった。

「……そう受け取って、いいのか」

私はこくりと頷くと、凌越がわずかに肩の力を抜くのが分かった。

……もう、だめだ。頭も心も、パンクしそうで。

「今日は、家に戻っても……いいですか。あの、落ち着きたくて」

「構わない。混乱させたな」

私は首を横に振る。

「……け、結婚なんて、できると思ってなくて……それも、越さんとなんて……」

そこまで言ったところで、恥ずかしさに耐えきれず視線を落とすと、

「あぁ」と、やわらかな声が落ちてきた。

「その……本当に、私でいいんですか。あとでやっぱり違う、と言われたら、立ち直れないというか……」

恐る恐る顔を上げた、その瞬間。

頬を、軽く引っ張られた。

ほんの少しだけ、呆れたみたいに。

「な、なん――」

すぐに手は離れる。

「……いや」

短く言ってから、小さく息を吐く。

「心配なら、今すぐ結婚しても構わないが」

わずかに、意地悪な笑みが浮かんでいた。

「い、いえ……それは、その……」

からかわれていると分かっているのに、動揺で言葉にならない。

そんな私を、凌越は少しだけ楽しそうに見ている。

「越さん、なんか余裕そうで、ずるいです」

少しだけ睨むと、

「余裕はないと思うが」

困ったように、そう返された。

私は手の中の下げ緒をぎゅっと握る。

「……下げ緒、大切にします」

「あぁ」と、短く頷きが返る。

「じゃあ、帰りますね」

そう言って立ち上がり、玄関へ向かいながら言葉を交わす。

「明後日は、診療所には来るのか」

「はい、あの……」

「遅くなるようなら送れる」

「……お願いします」

その返事に、凌越がふっと笑う。

「えっと?」

思わず首をかしげると、

「いや」

それだけだったのに、なぜか少しだけ、安堵したように見えた。