どうせ届かないのに、それでも好きになった——宮廷武官と薬師の恋

越さん、元気かな……。

ふと、そんなことを思って、小さくため息が漏れた。

戦後の処理で、みんな忙しい。

診療所も例外じゃなくて、先週の水曜日も、そして今日も遅くまで手伝いを頼まれてしまった。

武官も文官も、その中心にいる人たちは特に忙しくて、送りを頼めるような状況じゃなくて、そのまま、診療所のベッドを借りて泊まることになった。

宮廷の浴場から上がって、外に出る。

夜の空気は少しひんやりしていて、火照った体にちょうどよかった。

庭のベンチに腰を下ろして、なんとなく空を見上げる。

……あれから、二週間か。

ここに来ているのも、週に一回だし、そもそも接点がない。

知り合いではあるけど――友人といえるほど、親しいわけでもないし。

この前、店に来てくれたのだって、私がお守りを無理やり渡したから、返しに来てくれただけで。

……というか。

あんなに泣いて、ドン引きされてるかもしれない。

それから一度も見かけていない。

謝ることも、できていないままだ。

――はあ。

無意識に、いつもの癖で下げ緒に触れていた手が止まる。

「あ、」

思わず声が漏れた。

……まずい。返すの忘れてた。

なんとなく、そのまま馴染んでしまっていて。

「泊まりか」

突然、背後から声をかけられた。

びくっとして振り返る。

そこに立っていたのは、越さんだった。

さっきまで考えていた人が、目の前にいる。

そのことに気づいた瞬間、顔が熱くなるのが分かった。

……よかった、暗くて。

「あ、はい。あの、越さんも?」

「まぁな。忙しくて、しばらくは泊まりだ」

「それは……大変ですね」

「それより」

少しだけ声の調子が変わる。

「いつからそこにいるんだ」

「えっと……ちょっと、涼んでて」

その言葉に、小さくため息が落ちた。

「湯冷めするぞ。髪もまだ乾いていないように見えるが」

「そうですか? 結構、拭いたんだけど」

「それに、夜も遅い。もう、戻った方がいい」

「はい」

言われて、素直に頷く。

――あ。

「あの、この間は……泣いてしまって、すみません」

ぺこりと頭を下げる。

少しの沈黙のあと、

「なぜ、謝る?」

「えっ、いや……だって、結構な感じで泣いてしまうし」

「心配してくれたのだろう」

「……そうですけど」

小さく頷く。

「なら、謝る必要はない」

その言葉に、ふっと肩の力が抜けた。

「……それなら、その、良かったです」

――あ、そうだ。

「これ、この間、返しそびれてしまって」

慌てて、預かっていた下げ緒を差し出す。

越さんは、その下げ緒と私の顔を見比べて――小さく、ため息をついた。

「やはりな」

ぽつりと、そう言う。

「あの、ごめんなさい……やっぱり、もっと早く返したほうがよかったですよね」

「いや」

短くそう言ってから、

「返さなくてもいい」と続ける。

「え?」

思わず聞き返す。

ほんの一瞬、間があく。

「――近いうちに、店に行けると思う。また、その時に」

「はい」

よく分からないまま頷く。

そのときに返してほしい、ということなのかな?

でも――また会えると分かっているだけで、嬉しいかも。

「その、待ってます……じゃあ、戻りますね」

立ち上がって、軽く頭を下げる。

「おやすみなさい」

「おやすみ」

そう言って、越さんはその場を離れていった。

私も、少し遅れて歩き出す。

手の中には、まだ返していないままの下げ緒。

――少しだけ、顔がゆるんだ。