どうせ届かないのに、それでも好きになった——宮廷武官と薬師の恋

――生きて帰れる。

凌越は、深く息を吐いた。
戦場の血の匂いが、まだ抜けきらない。
ひどく、嫌な感覚が残っていた。

この国を守るためだと、後悔したことはない。
それでも、この手で何人もの命を奪ってきた事実が、消えることはなかった。

彼女は、こういうことを一番嫌うはずだ。

ふと、懐から小さなお守りを取り出す。
しばらくそれを見つめてから、小さく息を漏らした。

「俺には、ふさわしくないな」

ぽつりと、そう呟いた。
それでも、お守りから手を離せなかった。

―――――――――――――――――

腹部と肩に刀傷を負った武官に声をかける。

「っ……なんとか」

顔を歪めながら、ゆっくりと体を起こそうとする。

「無理しないでください」

姫香は背中に手を添えて支えた。

「悪いな」

「痛み、少しはましですか」

「あぁ、昨日よりは大分いい」

そう言うのを確認してから、薬を飲ませる。
――それが、ここでの薬師の仕事だった。

処置の手伝いをすることもあるけれど、主に薬の準備や調合、そして服薬の補助が中心だった。

ここは戦地から離れた町で、運び込める重傷者が集められる場所だった。
都の店を空けるわけにもいかないから、お師匠様と2週間おきに交代で来ていた。

最初に来たとき、思った。
覚悟が、足りなかった。

……目の前の光景から、目を逸らしたくなって。
来なければよかったと、一瞬だけ思った。

でも――逃げたいとは、思わなかった。

目の前にいる人を見てしまえば、何かできることをしたいと思ってしまうから。
それに、この世界は、日本ほど医療が整っていない。

日本では助けられたかもしれない命が、ここでは、どうにもならないことがある。
そう思わされるたびに、胸の奥が重くなる。

戦争さえなければ、と何度も思った。

ただ、詳しいことは分からないけれど、玄武国内部に変化があったらしく、戦争はあっけないほど突然に終わった。

戦争が終わった途端、それまで見なかった怪我人が、一気に運び込まれてきた。
そのまま、あと数日ほど手伝うことになった。

「はぁ……」

休憩に入り、思わずため息が漏れる。

首からかけていた小袋の中から、黒い紐を取り出して握りしめた。
越さんから預かってから、癖のようになってしまっている。

――無事なのかな、越さん。

死亡者にも、怪我人のリストにも名前はなかった。
それでも――どうしても、落ち着かなかった。

「おつかれ~」

「白雲さん、お疲れ様です」

白雲さんも数日前からこちらに派遣されてきていた。

「明日には帰っても大丈夫よ。大分落ち着いてきたし」

「わかりました」

正直、少しホッとした。
慣れない環境はやっぱり疲れる。

そして、少し不思議に思う。
お師匠様の家が、自分の居場所になっていたことに。

日本からこっちに来たときは、まさかそんなふうに思う日が来るとは思わなかったのに。

「あれ、姫香。それ、下げ緒じゃない」

「下げ緒?」

「その黒い紐よ。なに、越にでももらったのかしら」

「なんで、わかったんですか」

顔が自然に熱くなる。

「あんたにそんなの渡す相手なんて、越ぐらいしかいないでしょ」

「これは、預かっただけで。お守りの代わりに」

「あら、そう……。そういえば、姫香はそれの意味、知らないのね」

意味ありげに笑みを浮かべる。

「意味?……この下げ緒って、何かあるんですか?」

「さぁ」

肩をすくめてから、くすりと笑う。

「まぁ、帰ってきたら越に聞いてみたら?」

それ以上教えてくれる気はなさそうだった。

「無事ですよね……」

「大丈夫よ。あの子、綺麗な顔してかなりの精鋭だから。それに、リストにも載ってないでしょ」

そう言って、ぽん、と肩を軽く叩かれた。

それでも、握った下げ緒から手を離せなかった。