どうせ届かないのに、それでも好きになった——宮廷武官と薬師の恋

「本当に、いいのかい? 私はあんたには向かないと思う」

集会場の隅で、お師匠様が小さくそう言った。

私は一瞬だけ言葉に詰まってから、ゆっくりと頷く。

「……少しでも、出来ることを何かしたくて。それに、お師匠様もいますし」

自分で言いながら、ほんの少しだけ声が揺れているのが分かった。

お師匠様は私をじっと見て、それから小さく息を吐く。

「そうかい、ただ——」

言いかけた言葉を遮るように、私は先に口を開いた。

「わかっています。無理だと思ったら、ちゃんと言います」

その言葉に、お師匠様はほんのわずかに目を細めて、それ以上は何も言わなかった。

宮廷の集会場には、多くの人が集められていた。

城の医療関係者だけでなく、医療技術を持つ武官、そして各地域から集められた代表の医療関係者たち。

ざわめきは抑えられているのに、どこか落ち着かない空気が広がっている。

私はその空気の中で、無意識に指先を握りしめた。

やがて始まった説明で、状況ははっきりと示された。

玄武国との小競り合いはすでに始まっていること。本格的な戦争になる可能性が高いこと。そして五年前と同様に、同盟国である洛陽、鳳陽と連携して対応していくこと。

さらに、都にいる青嶺国の武官たちも、少しずつ国境へと送られているという。

そして——

戦争が本格化すれば、当然、多くの負傷者が出る。

そのため、城の関係者だけでなく、私たちのような一般の医療関係者にも、後方支援としての協力が求められていた。

もっとも、それは強制ではない。

あくまで任意だと、そう説明された。

正直に言えば——怖い。

逃げ出したい、とも思ってしまう。

戦争を身近に感じることなんて、平和な日本に住んでいた私にあるはずがなかった。

ここにいなければ、少しは知らないままでいられるのに、と。

それでも。

私は小さく息を吐いて、顔を上げた。

ここには、お師匠様がいて、少しずつ知り合いも増えてきた。

――そして。

武官である越さんのことが、頭に浮かぶ。

この間、あんなふうに倒れたばかりなのに。

それでもきっと、戦争になれば前線へ行くのだろう。

無事でいてほしいと祈ることしかできないのが、もどかしくて。

ただ待つだけよりも、何かをしていたかった。

私にも、できることがあるのなら。

逃げずに、やりたいと思った。

―――――――――――――――――

診療所に用事があるお師匠様と別れて、私は一人、馬車へと向かっていた。

その途中で、見覚えのある後ろ姿が目に入る。

思わず、足が止まった。

……越さん。

胸がドキッと鳴る。

いつもなら、絶対に声をかける勇気なんてないのに。

――でも、今は。

私は小さく息を吸ってから、思い切って声をかけた。

「……こんにちは」

その声に、凌越が振り返る。

「あぁ、姫香か。来ていたのか」

「説明会があったので」

「そうか」

短いやり取りのあと、言葉が続かなくなる。

何を言えばいいのか、分からなかった。

命のやり取りをしに行く人に、どんな言葉をかければいいのかなんて——平和な国で生きてきた私には、分からない。

本当は、伝えたいことならある。

ただ、無事に帰ってきてほしいと。

でも、その言葉が正しいのかも分からなくて。

迷っているうちに、先に口を開いたのは凌越の方だった。

「あまり、無理はするなよ」

その言葉に、思わず顔を上げる。

「それは、越さんの方が……」

言い終わる前に、ぽん、と頭に触れられた。

突然のことに、思わず固まる。

顔が熱くなるのが、自分でも分かった。

凌越はそんな私の様子を、少しだけ楽しそうに見てから、

「俺は無理をしなくちゃいけないからな。この国を守るために」

と、はっきりと言い切った。

その声は強くて、揺らぎがなくて。

――胸が、痛くなる。

やっぱり、言葉が見つからない。

「あの……これ」

私は咄嗟に手元の袋を探り、小さなお守りを取り出した。

「お守りです。私の世界のものだから、ご利益があるかは分からないけど……」

一瞬、ただの迷惑になるかもしれないと思った。

それでも、そのまま押し付けるように差し出す。

凌越は一瞬だけ驚いたような顔をしたあと、それを受け取った。

「……いいのか?」

戸惑ったように、こちらを見る。

「それ、私にとってすごく大切なお守りで。だから……戻ってきたら、ちゃんと返しにきてください」

自分勝手なことを言っているのは分かっていた。

でも、無事でいてほしいという願いの伝え方が、どうしても分からなくて。

凌越は、お守りと私の顔を交互に見てから、ふっとやわらかな笑みを浮かべる。

「わかった」

短く、そう答えた。

凌越は、お守りを懐にしまいかけて——ふと手を止めた。

「これを」

短くそう言って、腰の刀に手を伸ばす。

結ばれていた黒い紐をほどき、迷いなく外した。

差し出されたそれに、思わず目を瞬く。

「え……?」

「持っていろ」

戸惑いながら、それを受け取る。

お守りのかわりってことなのかな。いや、でも、あれは私が押し付けたようなものだし。

「……あの、お借りしていて大丈夫なんですか」

その言葉に、凌越は一瞬だけ表情を止めた。

――違う。

そう言いかけて、言葉を飲み込む。

「お守り、大切なものなのだろう。これでは、釣り合わないかもしれないが——」

私は慌てて首を振る。

「そんなこと……あの、大切に持ってますね」

「あぁ」と凌越は小さく頷く。

それから、少しだけ声のトーンを落とす。

「もし、危険が少しでもあるなら、逃げてほしい」

その言葉に、息が詰まる。

「私は……」

言いかけたところで、遮られた。

「俺は、姫香には安全な場所にいてほしいと思っている。できれば、ずっと」

真っ直ぐな視線が向けられる。

戦争が怖いと言ったことを、覚えていてくれたのかもしれない。

その気遣いが、今は少し苦しかった。

「だから、約束してくれないか」

あまりにも真剣な表情に、逃げたくないという言葉が出てこない。

私はただ、小さく頷いた。

それを見て、凌越はほっとしたように表情を緩める。

「お守りは、必ず返しにくる」

その言葉に、胸の奥がじんわりと熱くなる。

「はい……あの、待ってますから」

声が震えそうになるのを抑えて、なんとか返す。

「あぁ。じゃあ、また」

そう言って、そのまま背を向ける。

離れていく背中を、私はただ見つめることしかできなかった。

——次に会えるのかも、わからないまま。