どうせ届かないのに、それでも好きになった——宮廷武官と薬師の恋

明蘭が昼頃に出かけるため、店を閉めようとしていたときだった。

戸口の扉が開き、凌越が姿を見せる。

「おや、どうしたんだい。まだ調子が悪いのかい」

「いえ、お礼に伺いました。ご迷惑をおかけしたので」

そう言って差し出されたのは、一本の酒だった。

「相変わらず律儀だねぇ。……おや、この酒、私の好きなやつじゃないか」

明蘭はすぐにそれに気づき、楽しそうに笑みを浮かべる。

「お師匠様、誰か……あ、越さん。体調はもう大丈夫ですか」

声をかけながら現れた姫香は、いつもより少しだけこぎれいな格好をしていた。

「あぁ、問題ない」

その一言に、姫香は目に見えてほっとした表情を浮かべる。

「迷惑料に、これを持ってきてくれたんだよ」

「わざわざ、ありがとうございます。良かったですね、お師匠様。それ、好きなお酒ですよね」

「あんたも飲めたらよかったんだけどね」

明蘭が軽く言うと、凌越が姫香へと視線を向けた。

「酒、飲めないのか」

「はい。少し飲むだけで、すぐ頭が痛くなるので」

そう答えると、凌越はわずかに間を置いた。

「……すまない。今度、菓子でも買ってくる」

「いいです、いいです。そんな、気を使ってもらわなくて」

慌てて両手を振る姫香に、明蘭がくすりと笑う。

「そうだ、今日は休みかい」

「えぇ」

「じゃあ、ちょうどいいね。姫香にも礼をしたいんだろう?」

「……まぁ」

わずかに言葉を濁す凌越に、明蘭はさらりと続ける。

「それなら、ちょっと付き合ってやりな。本当は今日、私と花月楼に行く予定だったんだけどね。急に用事ができちまってさ」

そう言って肩をすくめる。

「あそこ、人気で予約も取りづらいだろう。せっかくだし、姫香だけでもと思ってたんだけど」

「お師匠様、大丈夫です。越さんも、せっかくのお休みなのに……」

姫香が慌てて口を挟む。

その横で、凌越は小さくため息をついた。

「俺は構わない。予定もないしな」

淡々とした口調のまま続ける。

「礼ができるなら、ちょうどいい」

「でも――」

姫香が何か言おうとした、その前に。

「じゃあ、頼むよ。姫香の分は私もちで、あとで請求しとくれ」

明蘭が軽く言い放つ。

「いえ、こちらで払います。お礼ですので」

凌越は間を置かず、きっぱりと返した。

気づけば、姫香が口を挟む余地もないまま、

――凌越と二人で食事に行くことが、決まっていた。

―――――――――――――――――

「あの、すみません。せっかくのお休みなのに」

越さんと出かけられて嬉しいと思うより、どうしても申し訳なさが上回ってしまう。

お休みの日を、私なんかのためにつぶさせてしまっているのだから。

それに、十日ほど前に死にそうな目にあったばかりだ。

本当は、ゆっくり休みたかったんじゃないのかな、とどうしても思ってしまう。

「こちらは礼のつもりだ。気にしなくていい」

「そうですけど……」

それに、あのお店。

結構高いと聞いたことがあるし、奢ってもらっていいのかな。

とはいえ、私の手取りで払うのは厳しいし。

お師匠様には、もう身内みたいなものだから甘えてしまっているけれど――

どうしようかと悩んでいると、

「……その、髪飾り」

越さんの言葉に、はっとする。

顔が一気に熱くなるのが分かった。

「……あの、これもありがとうございます」

慌ててお礼を言う。

せっかく高いお店に行くのだからと、今日は大事にしている髪飾りをつけてきていた。

越さんに買ってもらったものだ。

それなのに――気づけば、そのことを考える余裕もなくなっていた。

「いや」

短く、それだけが返ってくる。

よく考えたら、この髪飾りも買ってもらっているのに――私からは何も返していない。

なんだか、社会人として駄目な気がしてくる。

全部は無理でも、半分くらいは自分で払うべきかもしれない。

でも、半分だけ払いますっていうのも、それはそれでおかしな話だし。

ぐるぐると考えていると、

「……まだ、気にしているのか」

小さくため息をついて、そう言われた。

「だって、私、大したことしてないですし。その、お恥ずかしい話、全部は少し難しくて、でも半分くらいはやっぱり払います」

言い切ると、わずかな沈黙が落ちる。

「――怖い思いをさせた」

低い声が落ちた。

「十分、大したことだ。お前が一番嫌だと言っていたものを、見せたと思っている」

その言葉に、思わず首を振る。

「……嫌とか、じゃなくて。その……すごく心配はしました」

うまく言葉にならないまま、そう返すと、

「だったら、心配料として受け取ってくれ。その方が、俺の気も済む」

少しだけ申し訳なさそうな表情で、そう言われた。

その顔に、これ以上は何も言えなくなる。

「その……じゃあ、ありがとうございます」

小さく頷いたところで、

「ついたぞ」

そう声をかけられた。

顔を上げると、花月楼が目の前にあった。

思っていた以上に、立派な店だ。

これはさすがに、一人で来る感じのお店じゃなかったかも。

もし越さんが一緒じゃなかったら、きっと引き返していたと思う。

それに――

こんなお店で、越さんと一緒にご飯を食べるなんて。

たぶん、もう二度とない気がする。

……そうだよね。

せっかく来たんだから、今だけは少し、申し訳なさは忘れよう。

越さんだって、私に奢ることで気が済むって言ってくれているんだし。

小さく息を吐いて、私は越さんの後に続いた。

そのまま、店の中へと足を踏み入れる。

―――――――――――――――――

案内された席に腰を下ろす。

落ち着いた空気に、少しだけ背筋が伸びる。

「やっぱり、一緒に来てくれて助かりました」

小さく苦笑しながらそう言う。

お師匠様も、よく私一人で来られると思ったな。

メニューはコース料理しかないし、一人で食べていたら、たぶん浮いていたと思う。

「いや。それで、どれにするんだ」

「えっと……じゃあ、これで」

一番品数の少ないコースを指さす。

「本当にそれでいいのか。遠慮ならしなくていい」

「そんなに食べられないので」

「わかった」

短く返して、越さんはすぐに店員を呼び、注文を済ませた。

少しの間が落ちる。

「あの、ここのお店、来たことあるんですか?」

「まぁ、一度だけ。同僚と」

それだけのやり取りなのに、いつもより少しだけ緊張する。

向かい合わせで座っているからだろうか。

視線を上げると、どうしても目が合ってしまいそうで、長くは見ていられない。

……やっぱり、かっこいいなぁ。

心臓の音がうるさいくらいに響いている。

最初の料理が運ばれてくる。

思っていたよりもずっと綺麗で、一瞬だけ戸惑う。

それでも、そっと口に運ぶ。

――美味しい。

思わず、ほっと息が抜けた。

そのままもう一口食べて、少しだけ肩の力が抜ける。

もともと食べるのが好きだからか、料理を味わっているうちに、自然と落ち着いてきた。

それに、少しだけ、この状況にも慣れてきたのかもしれない。

「……これも、美味しいです」

そう言って顔を上げたとき、ふと、視線が合った。

――見られていた?

いや、偶々だって。

どんだけ自意識過剰なの、私……。

そう思ったはずなのに、少しだけ落ち着かなくなる。

「あぁ」

短い返事が返ってくる。

「来てよかったです。どれも美味しくて」

そう言うと、

「それは、良かった」

変わらない調子でそう返しながら、ほんの少しだけ口元がやわらいだ気がした。

それだけのことなのに、とても嬉しくて――

「そういえば、この近くに甘味が美味しいお店があるんです。今度、行ってみようかなって思ってて」

ただの話題のつもりで口にしただけだった。

「……そうか」

それだけの返事が返ってくる。

……一緒に行けたらなって。

まあ、無理だよね。

ふと、そんな想いを抱いた自分に、内心苦笑する。

だからこそ、今、この時間がもう少しだけ続けばいいのにと思ってしまう。

――それが叶わないことも、分かっているのに。