どうせ届かないのに、それでも好きになった——宮廷武官と薬師の恋

「越さん! 目、開けてください。お願い……!」
「お師匠様、お師匠様! 越さんが……あの、早く——!」

どうして、こんなことに。

階上から降りてくる足音が聞こえた瞬間、張り詰めていた意識がわずかに戻る。
凌さんの様子を見る。呼吸がおかしい。浅く、苦しそうに上下している。

——これ……毒?

一瞬、そんな考えが頭をよぎる。

お師匠様は何も言わず、まっすぐ凌越のもとへと駆け寄った。

「越、しっかりするんだよ」

声をかけながら、閉じかけていた瞼を無理やり開かせ、すぐに脈を取る。
続けて胸元や腕、首筋に触れ、状態を確かめていく。

「……これは……黒鈴蘭(くろすずらん)の毒か」

低く吐き捨てるように言ったあと、鋭くこちらを見る。

「姫香」

ただ呆然と凌越を見つめていた私に、叱りつけるように声が飛ぶ。

「しっかりしな、姫香。越を死なせたくないなら、清脈散(せいみゃくさん)を持ってきな。あと水もだ、早く!」

その言葉で、ようやく体が動き出す。

「は、はい……すぐ!」

慌てて店の奥へ駆け込む。

——大丈夫、大丈夫。お師匠様がいる。きっと何とかしてくれる。

そう思おうとするのに、手は冷たく震えていた。

薬と水を抱えて戻ると、お師匠様と二人で凌越の体を支え起こす。
お師匠様は迷いなく口元に薬を運び、水とともに流し込んでいく。

「……あとは、様子を見るしかないね」

小さくため息をついた。

「その……越さんは……大丈夫、ですよね」

祈るように問いかける。

「さあね」

あっさりと返される。

「この子の体力次第だろうね。ただ、越は毒に慣れるための訓練をしている。でなければ、ここまで辿り着けなかっただろう」

さらりと言われた言葉に、息が詰まる。

「毒に……慣れる……?」

思わず繰り返す。

——何を言っているんだろう。

越さんとは、住んでいる世界が違う。
そんな当たり前のことを、今さら突きつけられた気がした。

混乱している私の肩を、お師匠様が軽く叩く。

「とりあえず、魔道鏡で陸医師に連絡を入れるよ。診てもらった方がいいだろう。それから陳も呼んでくる。私たちじゃ、越を寝台まで運べないからね」

一拍置いて、まっすぐに言う。

「それまで様子を見ておくれ。呼吸と脈、そこを外すんじゃないよ」

「あ……はい」

ぐっと口を結んで頷く。

お師匠様はそんな私を見て、ほんの少しだけ声をやわらげた。

「この子はしぶといからね。きっと大丈夫さ」

そう言い残して、その場を離れていった。

―――――――――――――――――

それからの時間は、どこか現実味がなかった。

気づけば、陳さんが駆けつけてくれていて、お師匠様と二人がかりで越さんを客間の寝台へと運び込んでいた。

私は、呼吸と脈を確認することしかできない。

しばらくして、陸医師が到着する。

「……どれ」

短くそう言って、迷いなく診察に入った。

瞳を開かせ、脈を取り、胸に手を当てる。
お師匠様と同じ箇所を、同じ順番で確かめていく。

「……やはり、黒鈴蘭か」

低く呟いた声は、お師匠様と同じだった。

「清脈散を飲ませたなら、あとは持たせるしかないな」

そのまま、淡々と処置を続けていく。

首元に薬を貼り付け、呼吸を整える。
脈の様子を見ながら、胸にも別の薬を貼る。

私は言われるままに、水を用意し、薬の準備をし、ただ必死に動いた。

どれくらい時間が経ったのか、分からない。

やがて、お師匠様が小さく息を吐く。

「……少し落ち着いたね」

その一言を残して、「明日もあるから」とそっと部屋を出ていった。

陸医師は、そのまま様子を見続ける。

夜がゆっくりと明けていく。

窓の外がわずかに白んできた頃、陸医師がようやく手を止めた。

「……はぁ」

長く息を吐いてから、ぽつりと呟く。

「もう、大丈夫だろう」

その言葉を聞いた瞬間、体の力が一気に抜けた。

「……良かったです。本当に……」

声が、少し震えていた。

「じゃあ、私は戻るよ。明蘭様によろしく伝えてくれ」

「あ、はい……ありがとうございました」

陸医師は軽く頷くと、最後に振り返る。

「起きたら水を多めに飲ませるように。命はもう問題ないが、毒はまだ残っているからな」

「はい」

見送ろうかと一瞬迷う。

でも、越さんから目を離すのが怖い。

そんな私の様子を見て、陸医師は軽く笑った。

「いいよ、送りは。あとは頼むよ」

それだけ言い残して、去っていった。

―――――――――――――――――

——温かい。

ぼんやりとした意識の中で、最初にそう感じた。

重い体の奥に、かすかに熱が戻っている。

ゆっくりと息を吸う。まだ浅いが、夜のような苦しさはない。

何かが触れている。

視線を落とすと、自分の手が握られているのが分かった。

温かな手が、しっかりと絡んでいる。

その先に、姫香がいた。

ベッドの脇に座り込むようにして、上半身を預けたまま眠っている。

——ずっと、ここにいたのか。

ぼんやりとそう理解する。

無意識に、ほんのわずかに指に力が入った。

その動きに気づいたのか、姫香の目がゆっくりと開く。

「……越、さん……?」

かすれた声で名前を呼ばれた。

「悪かったな」

自分でも驚くほど小さな声だった。

その一言で、姫香は完全に目を覚ましたのだろう。
慌てて体を起こす。

「よ、よかったぁ……! どうですか、体はだるくないですか? 呼吸は苦しくない? あ、そうだ、水——飲まないと……!」

一気に言葉があふれ出す。

思わず苦笑が漏れた。

「大丈夫だ。それより……迷惑をかけたな」

姫香はすぐに首を横に振る。

「そんなこと、全然……あの、水を——」

言いかけて、ふと動きが止まる。

自分の右手が、まだ凌越の手を握っていることに気づいたのだ。

みるみるうちに、顔が赤くなっていく。

「あ、ち、違うの、これは……その、越さんの手が冷たくて……温めた方がいいかと思って……」

しどろもどろに言い訳を重ねる様子に、思わず息が抜けた。

——戻ってこれた。

そんな感覚が、胸の奥に広がっていく。

もう少し、その慌てた顔を見ていたい気もしたが、

「……水をもらえるか」

そう声をかけると、姫香ははっとしたように頷いた。

まだ顔を赤くしたまま、どこか安心した様子で立ち上がり、コップに水を注いで戻ってくる。

「体、起こせますか?」

「あぁ、少しだるいが大丈夫だ」

気だるさの残る体をゆっくりと起こす。
指先に、まだわずかに力が入りきらない。

差し出された水を受け取り、口に含む。

心配そうにじっと見つめてくる姫香の視線に、わずかに気恥ずかしさを覚えた。

何か言葉を返そうとした、その前に——

「……心配しました。本当に……よかった」

姫香が、深く息を吐く。

その言葉が、不思議と胸の奥に響いた。

巻き込んでしまったことへの申し訳なさと、それでも——
自分を見つめるその表情を、嬉しいと思っていることに気づく。

戻ってこなければならない場所が、できたような——

……らしくないな、と思う。

それでも、否定する気にはなれなかった。