どうせ届かないのに、それでも好きになった——宮廷武官と薬師の恋

今日も結局、遅くまで宮廷診療所で働くことになり、昼のうちに陳さんに送りをお願いしていた。

あとは、越さんが来たら断らないと……。

でも、やっぱり、越さんに断りを入れてから陳さんに言うのが筋だったかな、と今さら思う。

……でも、縁談の件もあったし。

はあ、とため息をついてから夕食を終え、食堂を出る。

診療所へ戻る途中で、「姫香」と声がかかった。

私はドキッとして振り返る。

「帰れそうか」

「あ、はい……」

そこまで言って、一度言葉が止まってしまう。

凌越はわずかに怪訝な顔をした。

慌てて言葉を続ける。

「その……今日は、大丈夫です」

言葉を選びながら、そう切り出す。

「近所の方に、送っていただけることになったので」

「すみません、早く連絡しなきゃいけなかったんですけど……急に決まったことで」

ちゃんと伝えなきゃ、と思って言ったはずなのに、なぜか少しだけ言いづらい。

凌越は小さく息を吐く。

「わかった。別に謝らなくていい。帰るついでだから」

「あの、あと……今後も大丈夫です。その方が送ってくれそうなので」

「また遠慮か。何を気にしている」

越さんは、はあ、とため息をついた。

けれどその視線は、さっきから私の様子を探るように向けられている。

ここで曖昧にする方がよくない気がして、続けた。

「その――」

一瞬だけ迷ってから、口を開く。

「縁談、まとまったんですよね?」

言ってしまってから、少しだけ後悔する。

でも、もう引っ込められない。

「なので……送ってもらうのは、あまり良くないのかなって」

自分でもうまく言えていないと思いながら、視線を落とす。

凌越は、わずかに目を細めた。

「……誰がそんなことを言った」

低く落ちた声に、思わず肩が揺れる。

「誰も……ただ、見かけたので……上手くいったのかなって」

つい、視線が下を向いてしまう。

少しの沈黙のあと、

「……ただ、会っただけだ」

短く言い切られる。

そして、小さく息を吐いて、

「……それでか」

と呟いた。

何かに納得したような、その声音に、どう返せばいいのか分からなくなる。

――と、そのとき。

「今、いいかな」

やわらかな声が割って入った。

振り向くと、陳さんがこちらに歩いてくるところだった。

「おや、越くんも一緒か」

にこやかにそう言ってから、私たちの様子を見て、ほんの少しだけ首をかしげる。

それでも深くは聞かず、

「……今日は、僕が送るでいいのかな?」

と、遠慮がちに言った。

「あ、えと……」

この状況をどうしていいか分からず、言葉に困る。

越さんの様子も、少しだけいつもと違う。

急に送ってもらう予定を断ったから、だよね。

……やっぱり、失礼だったかも。

「……いや」

低い声が、それを遮った。

「俺が送りますよ」

私はその言葉に驚いて、思わず越さんの顔を見る。

「……元々、そのつもりでしたから」

その言い方は丁寧なのに、どこか有無を言わせない響きがあって。

気づけば、何も言えなくなっていた。

陳さんは一瞬だけ目を丸くして、それからすぐに柔らかく笑う。

「そうか。じゃあ頼むよ」

凌越は軽く頷いた。

「また遅くなりそうなら、声かけてくれていいよ」

それだけ言って、軽く手を振る。

「あ、はい。あの、すみません」

「いいよ、いいよ。ついでだったからさ。じゃあ、お先に」

そのまま振り返ることなく、ゆっくりと去っていった。

――え、ちょっと待って。

頭の中で状況を整理しようとするけれど、うまく追いつかない。

さっきまで陳さんにお願いする流れだったはずなのに。

どうしてこうなったんだろう。

「……行くぞ」

短く言われて、現実に引き戻される。

「あ、はい」

反射的に返事をしてしまう。

数歩遅れて後を追いながら、ようやく口を開いた。

「あの……本当に、大丈夫なんですか?」

自分でも何が“大丈夫”なのか分からないまま、そう聞いていた。

凌越は一瞬だけ足を止めて、こちらを見る。

「受ける気はないと言ったはずだ」

それだけ、はっきりと言い切る。

そして、

「……勝手に遠慮するな」

少しだけ間を置いて、そう続けた。

言葉の意味を理解する前に、

「行くぞ」

もう一度、短く言われる。

そのまま前を向いて歩き出す背中を、私はただ見つめるしかなかった。

良かった、と思ってしまって。

すぐに首を振る。

――だからって、私に何かあるわけじゃない。

そんなはず、ないのに。