どうせ届かないのに、それでも好きになった——宮廷武官と薬師の恋

診療所の業務が終わり、夕食をとっていた頃だった。

「もしかして、姫香さん?」

柔らかな声に、思わず顔を上げる。

そこには、少しふっくらとした体つきの、穏やかな雰囲気の男性が立っていた。落ち着いた色合いの衣装から、文官だとすぐに分かる。

「あ、はい」

「陳です。陸医師から話は聞いているよ」

「あ、陳さんですか」

慌てて立ち上がろうとすると、

「いいよ、いいよ。ゆっくり食べて」

と、軽く手を振られた。

「あ、すみません。でも、あと少しなので」

そう言って、残っていた食事を急いで口に運ぶ。

「結局、慌てさせちゃったな。悪いね」

「いえいえ、こちらこそ。送っていただけると聞いて、助かります」

軽く頭を下げると、陳はやわらかく笑った。

「じゃあ、帰ろうか」

「はい」

食器を下げてから、私は陳のあとに続いた。

城門を出て、乗り合いの馬車に乗り込む。夜の空気は少しひんやりしている。

馬車がゆっくりと動き出す。

「ご自宅、お師匠様の家の近くなんですか?」

「そうそう、ちょうど四軒先なんだよ。陸医師にも頼まれたし、予定が合えば送るよ。帰り道だしね」

「本当ですか、助かります」

思わずほっとした声が出る。

「じゃあ、来週、水曜日、遅くなってもいいか聞かれたら、お願いするかもしれません」

少しだけ言葉を選びながらそう言うと、

「その日は大丈夫だと思う。第四書記室にいるから、声をかけてくれれば」

と、穏やかに返ってくる。

「はい、ありがとうございます」

軽く頭を下げる。

それからは、取り留めのない話になった。

「そういえば、奥さんがそちらで薬をもらってるんだよ。喘息もちでね」

「あ、もしかして。陳 佳鈴(チェン・ジャーリン)さんですか。確か、娘さんが4歳になる」

「そうそう」

「娘さん、人懐っこくて、すごく可愛らしくて」

「はは、ありがとう。ただ、人見知りしなさすぎてね、誰にでもついていっちゃうからさ」

困ったように笑う。

自然と会話が続き、気を遣わせない人だなと思う。

陸先生が「人がいい」と言っていたのも、なんとなく分かる気がした。

無理に話題を探さなくても、ぽつぽつと言葉が続いていく。

――楽だな、と思う。

それなのに、ふと浮かぶのは別の顔だった。

……まあ、越さんといると、緊張するのは仕方がないのかもしれない。

あんな距離でいられたら、落ち着く方が無理だ。

小さく息を吐く。

―――――――――――――――――

「帰りました」

扉を閉めながら声をかける。

「おかえり。今日は越の送りじゃないのかい?」

机に向かっていたお師匠様が、顔も上げずに言った。

「え、あ、はい。近所に住んでいる陳さんに送っていただきました」

「あぁ、陳か」

ようやくこちらを見て、軽くうなずく。

「でも、なんで分かったんですか? 越さんじゃないって」

「馬の蹄の音がしなかったからね」

「あ、なるほど」

思わず納得してしまう。

「陳 佳鈴さんの旦那さんだったんですね。すごく話しやすい方でした」

「まぁ、陳は人がいいからね」

「それ、陸先生も言ってました」

「まぁ、越よりは話しやすいだろう」

お師匠様が、ちらりとこちらを見て、意味ありげに言う。

……絶対、からかわれてる。

「それは、まぁ。でも、越さんも良い方です」

そう言いながら、視線を少しだけ逸らす。

頬が熱くなっているのが、自分でも分かった。

「はいはい。風呂は沸いてるから、入っといで」

軽く手を振られて、会話はそれで終わった。

お師匠様に言われて、風呂の準備のために自分の部屋へ向かう。

さっき、馬車の中で考えていたことを、ふと思い出した。

来週、越さんに、もう送ってもらわなくても大丈夫だと伝えないと。

――そう決めたはずなのに。

――言えるかな、私。