姫香と別れてから、凌越は小さく「最悪だ」とつぶやいた。
どうして皆、縁談を受ける前提で話をしてくるのか。
白雲はからかっているだけだろうが、同僚にいたっては「式はいつだ」などと勝手なことを言ってくる。
挙げ句の果てには、姫香にまであんなことを言われた。
思い出して、ひとつため息をつく。
そもそも、少し柄の悪い連中に絡まれていたのを助けただけだ。大したことはしていない。
——その程度のことで、なぜこんな話になる。
魏指揮官に呼び出され、縁談の話を持ち出されたのは二週間ほど前だった。
宮廷でも名の通った文官の家から、話が持ち込まれたらしい。
♢♢♢♢♢
「先日、柳景文の三女を助けたらしいな」
そう言われて、凌越は一瞬だけ首をかしげる。
……ああ、そういえば、そんなこともあったか。
「確かにありましたが」
「令嬢がお前を随分気に入ったそうだ」
「はぁ」
気のない返事が漏れる。
「縁談が上がっている」
その言葉に、あからさまに顔をしかめた。
「……そう露骨に嫌な顔をするな。特に当日はな」
「お待ちください。受けるつもりはありません」
即答すると、魏は面倒そうに息を吐いた。
「だろうな。だが、これは命令だ。顔は出せ」
わずかに視線を外して、続ける。
「柳殿からの頼みでな。その気がないなら、きちんと諦めさせてほしいそうだ」
一瞬だけ言葉に詰まる。
……断れない話だ。
「……わかりました」
短く答えるしかなかった。
♢♢♢♢♢
どう言ったところで、この話は覆らない。
縁談の場に出ることが決まった。
―――――――――――――――――
「悪いね、急に頼んで」
陸医師がそう言った。
「いえ、大丈夫です」
本来は出勤日ではなかったが、手が足りないからとお師匠様からの指示で、手伝いに来ている。
「林さん、風邪でしたよね」
「あぁ、数日は無理だろうな」
診療の手伝いをしながら、手が空けば薬作りも並行して進める。
今日は白雲ともう一人の薬師も休みで、薬師は実質一人だけだ。
「今日は、どこまで残れる?」
「……遅くまでは難しいです。泊まれれば良かったんですけど、明日、朝からお師匠様と出かけるので」
薬を作りながら答える。
少し迷ってから、続けた。
「送ってもらえれば、大丈夫なんですが」
ふと、越さんの顔が浮かぶ。
……いや。
すぐに打ち消した。
来週も頼むことになるのに、これ以上はさすがに気が引ける。
それに、そもそも出勤しているかどうかも知らないし。
「それなら、ちょうどいい」
陸が思い出したように言う。
「その辺に住んでいる知り合いの文官がいる。頼めば送ってくれるはずだ」
「でも、ご迷惑では……」
「気にするな。陳文修(チェン・ウェンシウ)は人がいいし、帰り道だ」
少し間を置いて、続ける。
「そもそも、遅くまで手伝わせるのはこちらの都合だ。送る手は確保しておくべきだろう」
少しだけためらってから、頷いた。
「……では、お願いできますか」
「ああ、声をかけておくよ。今日は頼む」
「はい。きりがいいので、昼に行きますね」
そう言って手を止め、私は診療所を出て食堂へ向かった。
廊下を歩いていると、見覚えのある姿に気づいて、ふと庭園へと目がいった。
越さんだ、と思った瞬間、その隣にいる女性に目を奪われる。
息を呑むほど、綺麗な人だった。遠目でも分かるほど整った顔立ちに、上質な衣装がよく映えていて、そこだけ空気が違って見える。
……そっか、縁談か。
越さんも、いつもより整った身だしなみをしていて、その女性の隣に立つ姿は自然に馴染んでいた。
縁談、あんなに嫌そうにしていたのに、今はそんな様子もない。
……この間、あんなに不機嫌にならなくてもよかったのに。
ほんの少しだけ、もやもやとした感情が胸の奥に残る。
それでも、隣の女性が嬉しそうにしているのは、ここからでも分かった。
お似合いって、こういうことを言うのだと思う。
一度、すとんと胸の奥に落ちる。
ああ、そうだよね、と納得してしまう。
――それでも。
少しだけ、胸が痛かった。
寂しいと思ってしまう自分に、苦笑する。
でも、それでいいとも思う。
うまくいってよかったと、ちゃんとそう思えるのだから。
これで私も、変な期待をせずに済む。
小さく息を吐いた。
送ってもらうことになっている文官の人が、良さそうな人だったら、遅くなる日くらいはお願いできるかもしれない。
越さんには、もう頼まない方がよさそうだし。
……でも、会えなくなるのは、やっぱり少し寂しい。
視線を外し、重い気持ちを振り切るように歩き出す。
―――――――――――――――――
――その瞬間、庭園の方でふと凌越が視線を上げた。
廊下の方に、誰かがいたような気がする。
……姫香か。
確か、来週と言っていたが――まぁ、急な手伝いでも頼まれたのだろう。
そう思い、特に気に留めることもなく、すぐに視線を戻した。
「あの……」
隣から声がかかり、何事もなかったかのように向き直る。
「やはり、私では駄目なのでしょうか」
少しだけ躊躇うような声音だった。
凌越はわずかに間を置き、それから短く答える。
「申し訳ありません」
美玲は小さく息を吐き、わずかに視線を落とす。
「……わかりました」
少し間を置いて顔を上げる。
「少しの時間でしたが、楽しかったです」
そう言って、美玲はかすかに笑った。
「あの、今日はお付き合いいただき、ありがとうございました」
「いえ、こちらこそ」
そう返しながら、わずかに視線を逸らす。
ほんの少しだけ、気まずさが残った。
――それで終わった。
どうして皆、縁談を受ける前提で話をしてくるのか。
白雲はからかっているだけだろうが、同僚にいたっては「式はいつだ」などと勝手なことを言ってくる。
挙げ句の果てには、姫香にまであんなことを言われた。
思い出して、ひとつため息をつく。
そもそも、少し柄の悪い連中に絡まれていたのを助けただけだ。大したことはしていない。
——その程度のことで、なぜこんな話になる。
魏指揮官に呼び出され、縁談の話を持ち出されたのは二週間ほど前だった。
宮廷でも名の通った文官の家から、話が持ち込まれたらしい。
♢♢♢♢♢
「先日、柳景文の三女を助けたらしいな」
そう言われて、凌越は一瞬だけ首をかしげる。
……ああ、そういえば、そんなこともあったか。
「確かにありましたが」
「令嬢がお前を随分気に入ったそうだ」
「はぁ」
気のない返事が漏れる。
「縁談が上がっている」
その言葉に、あからさまに顔をしかめた。
「……そう露骨に嫌な顔をするな。特に当日はな」
「お待ちください。受けるつもりはありません」
即答すると、魏は面倒そうに息を吐いた。
「だろうな。だが、これは命令だ。顔は出せ」
わずかに視線を外して、続ける。
「柳殿からの頼みでな。その気がないなら、きちんと諦めさせてほしいそうだ」
一瞬だけ言葉に詰まる。
……断れない話だ。
「……わかりました」
短く答えるしかなかった。
♢♢♢♢♢
どう言ったところで、この話は覆らない。
縁談の場に出ることが決まった。
―――――――――――――――――
「悪いね、急に頼んで」
陸医師がそう言った。
「いえ、大丈夫です」
本来は出勤日ではなかったが、手が足りないからとお師匠様からの指示で、手伝いに来ている。
「林さん、風邪でしたよね」
「あぁ、数日は無理だろうな」
診療の手伝いをしながら、手が空けば薬作りも並行して進める。
今日は白雲ともう一人の薬師も休みで、薬師は実質一人だけだ。
「今日は、どこまで残れる?」
「……遅くまでは難しいです。泊まれれば良かったんですけど、明日、朝からお師匠様と出かけるので」
薬を作りながら答える。
少し迷ってから、続けた。
「送ってもらえれば、大丈夫なんですが」
ふと、越さんの顔が浮かぶ。
……いや。
すぐに打ち消した。
来週も頼むことになるのに、これ以上はさすがに気が引ける。
それに、そもそも出勤しているかどうかも知らないし。
「それなら、ちょうどいい」
陸が思い出したように言う。
「その辺に住んでいる知り合いの文官がいる。頼めば送ってくれるはずだ」
「でも、ご迷惑では……」
「気にするな。陳文修(チェン・ウェンシウ)は人がいいし、帰り道だ」
少し間を置いて、続ける。
「そもそも、遅くまで手伝わせるのはこちらの都合だ。送る手は確保しておくべきだろう」
少しだけためらってから、頷いた。
「……では、お願いできますか」
「ああ、声をかけておくよ。今日は頼む」
「はい。きりがいいので、昼に行きますね」
そう言って手を止め、私は診療所を出て食堂へ向かった。
廊下を歩いていると、見覚えのある姿に気づいて、ふと庭園へと目がいった。
越さんだ、と思った瞬間、その隣にいる女性に目を奪われる。
息を呑むほど、綺麗な人だった。遠目でも分かるほど整った顔立ちに、上質な衣装がよく映えていて、そこだけ空気が違って見える。
……そっか、縁談か。
越さんも、いつもより整った身だしなみをしていて、その女性の隣に立つ姿は自然に馴染んでいた。
縁談、あんなに嫌そうにしていたのに、今はそんな様子もない。
……この間、あんなに不機嫌にならなくてもよかったのに。
ほんの少しだけ、もやもやとした感情が胸の奥に残る。
それでも、隣の女性が嬉しそうにしているのは、ここからでも分かった。
お似合いって、こういうことを言うのだと思う。
一度、すとんと胸の奥に落ちる。
ああ、そうだよね、と納得してしまう。
――それでも。
少しだけ、胸が痛かった。
寂しいと思ってしまう自分に、苦笑する。
でも、それでいいとも思う。
うまくいってよかったと、ちゃんとそう思えるのだから。
これで私も、変な期待をせずに済む。
小さく息を吐いた。
送ってもらうことになっている文官の人が、良さそうな人だったら、遅くなる日くらいはお願いできるかもしれない。
越さんには、もう頼まない方がよさそうだし。
……でも、会えなくなるのは、やっぱり少し寂しい。
視線を外し、重い気持ちを振り切るように歩き出す。
―――――――――――――――――
――その瞬間、庭園の方でふと凌越が視線を上げた。
廊下の方に、誰かがいたような気がする。
……姫香か。
確か、来週と言っていたが――まぁ、急な手伝いでも頼まれたのだろう。
そう思い、特に気に留めることもなく、すぐに視線を戻した。
「あの……」
隣から声がかかり、何事もなかったかのように向き直る。
「やはり、私では駄目なのでしょうか」
少しだけ躊躇うような声音だった。
凌越はわずかに間を置き、それから短く答える。
「申し訳ありません」
美玲は小さく息を吐き、わずかに視線を落とす。
「……わかりました」
少し間を置いて顔を上げる。
「少しの時間でしたが、楽しかったです」
そう言って、美玲はかすかに笑った。
「あの、今日はお付き合いいただき、ありがとうございました」
「いえ、こちらこそ」
そう返しながら、わずかに視線を逸らす。
ほんの少しだけ、気まずさが残った。
――それで終わった。


