薄幸の花嫁はあやかしの頭領に溺愛される

 夫婦の居室に朝日が差し込む。空気の澄んだ清々しい朝だ。
 快晴を喜ぶ鳥のさえずりに、みつはそっと目を覚ました。
 目を開けると、間近に磨徒の顔がある。
 瞬時に耳まで赤くなるのを感じて、何か声をかけようと口を開くが、言葉は出てこなかった。
 磨徒が静かに寝息を立てていることに気づいたからだ。

(旦那様の寝顔、はじめて見たな……)

 通った鼻筋、長い睫毛、形の良い唇。すべてが無防備に目の前にあって。
 逞しい腕はみつをしっかりと抱き寄せ、懐に囲いこむようにして離さない。
 そう。二人は初めてひとつの布団で眠ったのだ。

(なんだか、恥ずかしいな…)

 同衾はしたが、夫婦のいとなみに進むことはなかった。
 顔を真っ赤にしたみつが布団の中に顔をうずめると、磨徒は困ったように、愛おしそうに、優しく頭を撫でて抱き締めてくれた。
 みつの心の最奥には、月鬼がいる。
 おぼろげな存在である月鬼の面影を磨徒に重ねながら、みつはあやかしの妻となった。
 磨徒からは「俺に気がなくて構わない」と伝えられているが、それはつまり、夫婦のいとなみすらいらないということなのだろうか。
 妻として、世継ぎを残すことすら放棄してしまっていいものだろうか。

 みつの心が煩悶で揺れる。
 自分はとてつもなくわがままな妻なのではないかと、今更ながら気づいたのだ。
 目の前にある磨徒の寝顔を眺めていると、胸の奥がきゅっとしめつけられる。
 この、どこまでも優しく繊細な旦那様を大切にしたい。
 みつはそっと磨徒の背中に手を回し、懐に顔をうずめる。人間よりわずかに高いあやかしの体温に、心まであたたかくなるのを感じた。

 
「……すまない、寝入っていた。そろそろ起きなければな」

 磨徒が目を覚ました。体を動かそうとしたようだが、みつはしっかりと彼を抱擁したままだ。
 磨徒は起き上がるのを諦めた様子で、ふっと優しく目を細めてみつの髪を梳いた。
 少しの沈黙。みつはなんだかこそばゆい思いをしながら、上目遣いで磨徒を見上げる。
 
「旦那様、おはようございます。珍しく朝までお休みでしたね」

「こんなに眠ったのは久しぶりだ。お前が隣にいてくれて心休まったのかもしれない」

「そうだったら嬉しいです。あの……これからはその、こうして一緒に眠りたいです」

「ああ、俺もだ」

 見つめあい、笑みを交わす。
 みつは布団から出ることを惜しく感じていた。
 ふたたび磨徒が口を開こうとしたところで、障子の向こうから声が届く。

「おはようございます。朝餉をお持ちしてもよろしいでしょうか」

 お滝だ。普段なら早朝に磨徒が厨(くりや)まで
 一声かけにいくのだが、今朝はそれがなかったため確認に来てくれたのだろう。

「ああ、頼む」

「承知致しました。すぐにお持ちいたします」

 お滝の影が見えなくなると同時に、二人は起き上がり身支度をはじめた。
 みつはそっと別室に移り、香りよく華やかな着物に着替えて化粧を済ませる。
 鏡に映るその顔は、まだほんのりと紅潮していた。



「那岐の姿が見えない」

 朝餉を済ませ、那岐と流花を交えて話をしようとしていたところ、磨徒が深刻な面持ちで戻ってきた。
 屋敷の中をくまなく探したがどこにも見当たらないそうで、磨徒の表情には焦りの色が滲んでいる。

「どこへ行かれたのでしょうか?」

 みつが尋ねると、流花はばつが悪そうに目を伏せる。

「あたしのせいかな。ナギ、お母さんのこと思い出しちゃったよね」
 
 こめかみの薬布はすでにとれており、傷跡も見えない。ただ、目に見えて表情は曇っている。

「流花にも良くないところはあった。しかし、那岐も流花に危害を加えている。そこは反省すべきだ。そして今姿が見えないのは、他でもない那岐自身の問題だ。自分で自分を追い詰めて、心が悲鳴を上げているんだろう」 
 
「すぐに探しに行きましょう。私、もう一度那岐様のお部屋を見て参ります!」

 みつは着物の裾を持ち上げ、足早に廊下を渡っていく。
 
 那岐は、かつて母と暮らした離れで現在も寝起きしているそうだ。
 嵬族の敷地内にあるとはいえ、鬱蒼としげった暗い林の中を突っ切っていく必要があり、周囲に蠢く巨大な害虫も駆除されることなく生きている。
 獣に踏み荒らされ、破壊された柵。視界を遮るほどに長くのびた雑草。
 住み良く手入れされた形跡など微塵もなく、ここから先は余所者の居住地であると、目に入る全てが物語っている。
 やがてたどり着いた崩れ落ちそうなあばら家は、きらびやかな母屋から断絶されたようなみすぼらしさだった。

「那岐様! いらっしゃいますか!?」

 固く閉ざされた戸は、力一杯引いてもびくともしない。
 後ろから追いかけてきた磨徒が、戸口に手をかけて勢い良く引けば、パラパラと木片を散らしながらそれは開いた。

「那岐、いるのか?」

 薄汚れた玄関先、潰され体液を撒き散らした害虫の死体を避けながら、磨徒は履き物を脱いで部屋へと上がる。みつと流花もそれに続いた。
 広さは十畳ほどだろうか。四隅には蜘蛛の巣がはっており、空間の半分は書物と紙で埋まっていた。
 隠れられそうな場所も見当たらない。
 那岐の姿は見つけられなかった。

「那岐様、読書家でいらっしゃいますね。こんなにたくさんの書物を……」

「いやこれ、ぜんぶ化本じゃない。こんなの子供が読むものよ」

 積み上がって崩れそうな本の山を見渡しながら、流花は眉をひそめた。
 
「普段の那岐はだいたい机に向かっているか、布団に横たわって本を読んでいる。読むことも書くことも好きなのだ」

 机の脇に置いてある化本をぱらぱらとめくりながら、磨徒はわずかに目を細めた。

「机の上に何か書き置きが。これは何と書いてあるのですか……?」

 机上に広がった紙束を手に取り、みつが視線を落とす。読めるあやかし文字は今のところわずかで、ほとんど解読できない。

「先刻ざっと目を通したが、どうやら何か話を書いているらしい。鬼の子供が人間の子供と旅に出る内容だった」

 みつの手元にある紙束を指でなぞりながら、磨徒は大きく頷く。

「わぁ……でしたらこれは、那岐様の戯作……すごいです、読んでみたいです!」

「読ませてもらおう、那岐が戻ったら」

「はい……! お話の中に、那岐様の気持ちが隠されているような気がします」

 内容は理解できないながらも、太く殴り付けるような筆跡で書かれた本文を目で追う。
 あやかしと人間が手をとりあう姿──それは那岐の切実な願いであり、希望なのではないだろうかと、みつは静かに想いを馳せる。
 本当は、人間に歩みよりたいのかもしれない。 
 みつはしばし那岐の胸中を思いながら、そっと目を閉じるのだった。

「そろそろ行くか。那岐と話がしたい」

「はい、参りましょう!」

 紙束を机の上に置くと、みつは磨徒と流花の顔を見渡しながら両拳を握った。
 流花は反発するように顔をしかめ、磨徒は薄く笑みを浮かべた。

 履き物を履き、重い扉をしっかりと閉めた磨徒は、顎に手を当ててしばし考え込む仕草を見せる。

「那岐の行き先に心当たりはあるが……それにはみつの協力が必要になる」

「協力なんていくらでもします! どこへでも参ります!」

「お前を危険にさらしてしまうことになる……それが心配なのだ」

 瞼を閉じ、眉根を寄せて磨徒は考えこんでいる様子だ。
 そんな姿を横目で見ていた流花が、口を尖らせながら磨徒の足を蹴る。

「なによぉ! あたしは危険にさらしてもいいわけ!? あたしのことも心配して!!」

「そうだな流花……危険が伴う場所だ、お前は留守番していてくれ」

「はああああ!? なんでよ!? なんでこいつは必要で、あたしは置いてくの!? 信じらんない!」

 ぎゃあぎゃあとわめき散らす流花は駄々っ子そのもので、みつはおろおろと取り乱し、磨徒は困ったように息をついた。

「これから目指すのは、堕嵬の途(だかいのみち)──嵬族の血を引きながら、一族を抜け、身を隠して生きる闇の住人達の棲み処だ」

「だかいのみち? 初めて聞くわ。そんなのあるの?」

 流花が首をひねると、磨徒は静かに首肯する。
 
「ああ。あそこの住人は皆、半分人間の血を引いていてな。我らあやかしを拒絶している。道のりも険しいので行くからには命懸けだ。みつ、流花。それでもついてきてくれるか?」

 みつと流花は決意の眼差しで頷き合った。

「もちろんです!」
「あったりまえよ!」