薄幸の花嫁はあやかしの頭領に溺愛される

 暇をもて余したみつは、昼を知らせる鐘の音とともに部屋の掃除をはじめた。
 江戸にいた頃も、世話になっていた染物屋の店内から家内に至るまで清掃はすべてみつの仕事だったため、手慣れたものだ。
 廊下に面した障子の桟(さん)を丹念に拭き上げていたその時、派手に音を立てて障子が粉砕された。すさまじい衝撃と圧は、まるで爆破を受けたかのようだ。
 外側から勢い良く足が付き出してくる。何者かによって蹴破られたのだ。
 美しく組まれた格子枠は木っ端微塵となり四方に飛散する。
 みつの腕にも勢いよく飛んできた木枠の破片が突き刺さり、鮮血が流れた。

「人間くせぇんだよなァ……鼻がひん曲がりそうだぜ」

 障子を蹴破り破壊したのは、あやかしの男だった。不快そうに顔をしかめて、そのまま室内へと侵入する。
 黒髪に尖った耳、頭から突き出す一本の角……そして額に浮かぶのは、嵬族の証である紋様だ。
 胸元が大きく開いた着物を羽織り、あらわにした両腕には無数の腕輪をつけている。

「旦那様の弟君(おとうとぎみ)……ですか?」

 腕に刺さっていた木片を抜き、懐の手拭いで止血しながら、みつはわずかに首を傾げる。
 婚礼の儀に際して嵬族について説明を受けた時、磨徒には弟がいると聞いていた。
 父であった先代当主は没後間もないし、母は現在山奥で隠居しているとの話だ。
 この屋敷に住む肉親は弟一人ということになる。

「ああそうだよ。嫁もらったっつうから見にきてみりゃ、貧相な女だなァ。磨徒に釣り合わねぇから、とっとと離縁でもして消えろや」

「あ、やっぱり弟君なのですね。はじめまして、この度輿入れいたしました、みつと申します」

「話聞いてんのかブス。節穴の耳を食いちぎってやろうか」

「あやかしの皆様はやはり、人間がお嫌いですよね。私もできるだけ早く、こちらの慣習を覚えたいと思っています」
 
 あやかしは人間を見下し、忌み嫌うもの。幼き頃よりそう教わってきた。それが自然な反応だ。
 あやかしに嫁ぐ以上、虐げられ疎まれて当然であるとみつは覚悟していた。磨徒の対応が異常なのだ。

「どうやったって、てめぇがこの家に馴染むことはねぇよ」

 存外深く肉を抉られていたようで、みつの腕からは出血が止まらない。
 手拭いに吸われていく血液の匂いに狩猟本能が刺激されたのか、男は獰猛な顔つきでみつの腰を引き寄せ、傷ついた腕をひっつかむ。
 そうして傷口にかぶりつき、血液を吸い上げる。      
 鋭利な犬歯で肉を裂きながら、味わうように喉をならし、大量の血を飲み下していく。
 ぐちゅぐちゅと不快な音が、静まり返った室内に響いた。
 みつは、痛みで身がすくみ声を上げることもできなかった。 

「何をなさっているのです!」
 
 偶然通りかかったお滝が金切り声をあげた。その声に導かれて家中(かちゅう)の者がかけつける。
 磨徒の弟は舌打ちしながらみつを解放し、血で汚れた口もとをぬぐう。
 多くの血を失ったみつは、そのまま畳の上に転がるように失神した。



 闇の中に意識が吸い込まれ、みつの脳裏には、これまで生きてきた時間の記憶がなだれ込んできた。
 
「寝る時間があるなら働け。掃除をしろ、洗濯をしろ、水を汲んでこい、食事の準備をしろ!」

「またくだらん本を読んでいるのか。貸せ、焼き捨ててやる」

「あんたを嫁になんかやらないよ。一生うちでこき使ってやるからね」
 
 搾取されるだけの人生だったわけではない。
 昔は幸せだった。優しい両親と兄がいて、毎日たくさんの本を読んで、笑顔が絶えなかった。
 しかし、大店だった実家の書店に盗賊が押し入り、家族ごと家を焼かれてからみつの生活は一変した。
 親戚である染物屋に命からがら身を寄せたのはいいものの、そこで待っていたのは日常的な罵倒と暴力だった。
 いびられ搾取されながら、ただひたすらに身を削って働く日々。
 限界だった。いつだって逃げ出したかった。
 疲れた、もういやだ、すべてなかったことにしたい。
 みつは脳裏に浮かぶ月鬼にすがり、毎日祈りを捧げていた。
  
 月鬼様、月鬼様……醜い私の人生ごと、全部壊してください。


  
 みつが目を覚ましたのは、夜も更け屋敷全体が寝静まった頃だった。

「うう……」

 かすかに疼く腕の痛みにうめきながら、うっすらと目を開く。

「目を覚ましたか……すまない、恐ろしかっただろう」

 視界に入ってきたのは、心配そうに眉を寄せてこちらを覗き込む磨徒の姿だった。みつの手を優しく握っている。

「旦那様、おかえりなさいませ……すみません、私こんな時刻まで眠ってしまって……」

 力なく笑って起き上がろうとするみつを静止しながら、磨徒がそっと布団に押し戻す。

「傷が痛むだろう、眠っていてくれ。回復するまで何日でもお前のそばにいる」

「そんな……旦那様はお仕事でお忙しいはずです。私のことは気になさらないでください。明日には元気になります」

「お前を守ることができなかった。それが不甲斐ないのだ」 

 磨徒は苦しげに言葉を吐き出す。
 みつは驚くと同時に、胸の奥がきゅっと締め付けられるようだった。

「旦那様は、なぜそんなにも優しいのですか? ほかのあやかしの皆さまと、あまりにも違いすぎて……」

「人間を蔑み見下していては、俺の目指す新しき世は成立しない。まず妻であるお前を大切にしたいのだ」

「あ……ありがとうございます……」

 自然に涙がこぼれ落ちる。
 優しくされるというのは、こんなにも心の内をあたたかくしてくれるものなのか。
 家族を失って以来、ここまで自分に寄り添ってくれる人間はいなかった。
 そう考えると、あやかしの身でこうも真心を尽くしてくれる磨徒があまりにも異質な存在に感じる。
 
「お前を襲ったのは、俺の弟の那岐(なぎ)だ。もともと気性の荒いところがあるが、まさかこうして牙をむくとは思わなかった……すまない」

 磨徒は、そっとみつの涙をぬぐう。
 眉間にしわを寄せ、苦しそうな表情だ。
 心配をかけてしまったとみつは申し訳なさを感じながら、もぞもぞと布団の中に沈んでいく。目元から下がすっぽりと覆われて、みのむしのような姿になった。

「弟君……那岐様は、あやかしとして当然の反応をされただけです。私は大丈夫ですから」

「これを当然と思うあやかし側に問題がある。弟には必ず謝罪をさせる。しばし時間をくれ」

「そんな……謝罪などいりません。私は気にしておりませんので」

 困ったようにゆるくかぶりを振るみつの頭に、磨徒はそっと掌を置いた。

「反省してもらわねば、また同じ事が起こる。話し合いは必要だ」

「うう……それは、そうですけど……」

 頭上に優しく置かれた大きな掌に熱が集中するようで、みつは頬が熱くなるのを感じた。
 気恥ずかしさと、そこまで深く自分を想ってくれる嬉しさに、むずがゆい思いがする。

「今夜はゆっくり休んでくれ。そばにいるから何も心配はいらない」

「はい……ありがとうございます」

 優しく頭を撫でてくれる掌の心地よさに、みつはそっと目をつむった。
 磨徒に嫁いで良かったと、心から思った瞬間だった。

 

 夫婦の居室に朝日が差し込む。
 耳に優しい鳥のさえずりに、みつは目を覚ました。
 穏やかな朝。腕の傷は、そう痛むこともない。
 脇に目をやれば、磨徒が座って本を読んでいる。夜通しとなりにいてくれたのだろうかと、みつは少々申し訳なさを感じる。

「旦那様、おはようございます」

 ゆっくりと体を起こし、微笑みながらみつが挨拶すると、磨徒は本を伏せて心配そうな眼差しを向けた。

「傷の具合はどうだ? 痛むか?」

「あまり痛みは感じません。薬が効いたのでしょうか」

「あやかしの秘薬が人間にも効いて良かった。今日は臥して過ごすといい」

 すさまじく効果てきめんな秘薬に、みつは驚くばかりだ。
 多量の血液を吸われ、立つことすらままならなかった状態から、一晩でずいぶん体調を取り戻した。
 すぐにでも布団から出て動き回れる気がする。


 朝餉を済ませ、膳が片付いてもまだ、磨徒はみつのとなりを離れない。
 磨徒はあやかしを束ねる者として多忙な身。本来ならば朝餉をたいらげるとすぐに外出するはずである。

「旦那様、私のことは気になさらず、どうぞお仕事へ……」

「今日はお前のそばにいると決めた。心配はいらない」

「ですが……」

「何も気にすることはない。眠っていていいぞ」

 磨徒はふたたび布団に入るよう促す。しかし、みつはゆるく首をふった。

「たくさん眠りましたので、もうねむくありません……」

「そうか、では今朝は俺が子守唄を」

「わたしも幼子ではありませんよ」

 先日己が投げ掛けた言葉をそのまま返されて、みつは思わず笑みをもらす。磨徒もつられて微笑んだ。
 会話を交わすほどに感じる。磨徒には優しく洒脱なところがあると。言葉の端々に、包み込むようなあたたかさを感じるのだ。

「それでは書物でも読むか? お前の好きな本とは毛色が違うと思うが……」

「読みたいです! あやかしの皆様は、どのような本を読まれているのですか?」

 みつはわずかに身を乗り出し、磨徒の膝に伏せられている本に視線を落とす。
 古びた本で、所々破れている。表紙には何やら題字が書いてあるが、あやかしの文字は読むことができない。

「これは政(まつりごと)に関する本だ。あやかしを統べる者としての心構えや実践可能な統治方法が書いてある。好きな本で、よくこれを開いている」

「まぁ……旦那様はいつもお勉強をなさっているのですね。ご立派です」

「俺はまだまだ未熟だ。それよりも、お前が好む本を手に入れたいと思う。どんなものを読みたい?」

 内心政治の話は分からないとひやひやしていたみつは、磨徒の言葉に目を輝かせた。

「読本がいいです!」

「よみほん……というと、何だ?」

「歴史であったり、怪談であったり、説話であったり、様々なお話をまとめたものでございます。私が好きなのは、歴史を題材にした架空のお話ですね」

「ほう。事実ではない作り話が本になっているのだな」

「あやかしの都には、そういった本はありませんか?」

 みつが小首を傾げると、磨徒も顎に手を当てて考えこむ仕草を見せる。
 そのまま沈黙が流れると、乱暴に障子が開き那岐がずかずかと室内に入ってきた。

「あるだろうがよ、こっちにも。俺はガキの頃から化本(ばけほん)しか読んでねぇぜ」

 ムスッと不機嫌そうな表情で、那岐は磨徒のとなりに腰をおろす。
 左半身に大きな怪我をしており、手当てされた跡がある。見るからに重症だ。

「那岐様、どうされたのですか?」

 みつがおずおずと尋ねれば、那岐は不快そうに牙をむき、うなるように声をあげた。

「てめぇの亭主だよ。出会い頭にぶちギレられた」
 
 油断したと舌打ちをする那岐に対して、磨徒はそっと目を伏せる。

「旦那様、ここまでの仕打ちを……」

「まずは一撃くらってもらった。お前の痛みを知ってもらうためだ」

 磨徒は絶大な妖力を有して生まれ、嵬族始まって以来の天才術師と呼ばれているらしい。
 そんな磨徒による一撃だ。命を絶たれていない時点で加減はしていると見受けられるが、那岐の半身は火傷でただれて目も当てられぬ状態だった。

「なんつうか俺も、あそこまでやるつもりはなかった。てめぇのことは好きじゃねぇが、まぁその……なんだ」

「血の匂いで理性を失ったのだろう? 正直に謝ったほうが楽になるぞ」

「ああ、くそっ! 謝りゃいいんだろ! 悪かったな!」

 いらだたしげに頭を掻きむしりながら、那岐がうなる。
 自尊心の強いあやかしにとって、ひ弱な人間に謝罪の言葉を吐かねばならない状況は耐えがたい苦痛だろう。

「那岐様、お気になさらないでください。私は大丈夫ですので」

「おう、そう言うなら気にしねぇわ。じゃあな」

 一件落着と立ち上がろうとする那岐の手を掴み、磨徒が強くひねり上げる。すぐさま那岐は飛び上がって正座した。

「反省しろ。二度と俺の妻に手を出すな」

 眼光鋭く磨徒が弟の眼を射抜く。那岐はひるみ、戦意喪失した様子で軽く舌打ちした。

「もう二度としねぇよ。ただてめぇ、これからはあやかしの前で血を流さねぇようにしろ。どいつも人間の血に飢えてっから」

「わかりました、気を付けます」

「おう。そんじゃな。悪かった」

 磨徒に対してこんなもんでいいだろうと言外に目で訴え、那岐は立ち上がった。そのまま頬の傷をさすりながら部屋を出ていく。
 嵬族は驚異的な身体修復力を備えており、傷の治りがはやいと聞く。
 加えて先述の秘薬もある。那岐の火傷も翌日には癒えるだろう。

 あやかしの中には他にも、みつをこころよく思わぬ者はいるはずだ。
 どんな差別や迫害を受けようと気をしっかり保っていようと、みつは決意を固めるのだった。