「その後私は凍城様の手引きのもと旦那様と面会し、輿入れが決まり……今日に至ります」
一通り己の過去を語り終えたみつは、小さく息をついて俯いた。
日の本を去ったあの日、人間の世で生きたすべての記憶をそっと心の奥へとしまいこんだ。
思い出したくもない、悪夢のような日々だった。
あやかしの都に来てからというもの、みつはずっと夢の中にいるような心持ちだ。
夫である磨徒の優しさに、凍てついた胸奥がゆるやかに溶けていくのを感じていたからだ。
「……よく話してくれた。辛い記憶を掘り起こさせてしまったな、すまない。そしてありがとう」
磨徒は耳にしたすべてを噛み締めるように、目を細めながらゆっくりと頷いてくれた。
その優しい声色と表情に、みつは心が解きほぐされていくのを感じる。
長く話し込んでいたため、時刻はとうに深夜を回っている。
虫のしらべは聞こえて来ないが、遠くで小さく野鳥の鳴く声が聞こえた。
しばし畳の上に目線を落とし何やら思案している様子だった磨徒が、神妙な面持ちで口を開く。
「はな殿は、その後どうされているだろう」
みつは、俯いたまま静かに言葉を紡いだ。
「旦那様への輿入れが決まりました折りに、凍城様へ託しました。仕度金としていただいた千両はすべてはな様の養育に使っていただくこととし、現在はたかの屋から引き取り、凍城様の妹君ご夫婦の養子となっているはずです」
「そうだったのか……大和の親類の元ならば、心配はいらないだろう」
「はい。それだけが気がかりでしたが、後にはもう何の未練もございません」
そうだ。未練など何もない。
けれど過去と向き合っていく中で、みつの心には一つ、わだかまるものがあった。
「申し訳ございません……内心では人間という存在に希望を失っていた私のような者が、あやかしと人間の共生を目指すなど、馬鹿げた話だと思います」
みつの視界がふたたび涙でにじむ。
澄んだ心を持つ清らかな磨徒に自分は相応しくないのではないかと、胸の奥が張り裂けんばかりに締め付けられる。
「……いや、そうは思わない。己の血を、種族を、時に疎ましく思うことも、呪いたくなることもあるのは俺も同じだ」
「そんな……旦那様のお考えは立派です。あやかしと人間、双方の幸福を考えてくださっている。それがよく分かるからこそ、私もお手伝いしたいと思ったのです」
「ありがとう。俺も、あやかしの醜い部分を嫌というほど目の当たりにしてきた。耐え難い現状から目をそらしたくなったこともある──しかし、俺には逃げる選択肢がない。迎合するか、変えるか。どちらかしか選べないのだ」
綺麗事では渡っていけない世の中だ。
それは人の世もあやかしの世も同じ。
種のあり方を嘆き、憂う両者は、ここに来てはじめて心の内を包み隠さず打ち明けていた。
「……私、人間が怖いです。けれど旦那様が人間を信じてくださるなら、共に生きる世を作りたいと願ってくださるなら、そのお考えに報いたいと思うのです……人とあやかしは、心を通い合わせることができる、共生できると、日々痛感しています。だから、そんな私だからこそ、何かできたらって、そう思って……」
みつは、ぼろぼろと涙を流しながら声を震わせる。
人間なんかもうこりごりだと。そう思う反面、磨徒が信じる人間を、もう一度信じてみたい気持ちも芽生えている。
現状を変えたい気持ちは、磨徒と同じである。
何の力も持たなかったあの頃とは違う。
今なら嵬の頭領の妻として、出来ることは山ほどあるのだ。
「みつが来てくれたことで、すでに多くのことが変化している。良い方向にだ。傷病者治療への感謝の言葉も毎日耳に入る。本当にありがとう。俺にとってお前は、かけがえのない妻だ」
磨徒はそっとみつの涙をぬぐい、優しい手付きで頭を撫でてくれる。
みつはわずかに鼻をすすり、気はずかしそうに微笑んだ。
「……もったいないお言葉にございます。私、もっともっとあやかしの皆様のために働きたいんです。少しでも心穏やかに暮らせるように、お手伝いをしたくて」
「お前は強いな……いや、強くあろうと気を張っているのだろう。そして、そんな気持ちをこれまで月鬼が支えてくれていたのだな」
「はい……月鬼様のように生きたいと思うことで、己を奮い立たせておりました。折れそうだった私を救ってくれた恩人なんです」
「ああ。俺は月鬼に感謝している。みつの一番辛かった日々を支えてくれたのだからな」
もがき苦しむ日々の中、生きるしるべとして歩みを支えてくれた存在は、やがて己の一部となり、切り離せぬ核へと変わっていく。
みつの中での月鬼もそうだ。
生きていくためのお守りのようなものである。
「月鬼様は、私に辛い日々を生き抜く力をくださいました。そして……旦那様も、私に幸福と希望を与えてくださるかけがえのない存在です。旦那様と過ごす毎日が、私の心をときほぐしてくれます。ほんとうに今、とっても幸せなんです」
「みつ……俺の方こそ、多くの幸福をもらっている。お前を娶って本当に良かった。これからもずっと、俺のとなりにいてほしい」
磨徒がその両腕でみつを優しく包み込む。着物ごしにも分かる、たくましく大きな体躯に鼓動がはね上がった。
あたたかなぬくもりを噛み締めるように、みつは静かに目を閉じてその身を委ねるのだった。
「月鬼には到底かなわないと思って、これまで無意識に一線引いていた。しかし、俺にしかできないこともあると学んだ。俺はこうしてみつに触れられる。いつでも言葉をかけることができる。喜びも悲しみも分かち合うことができる……俺は夫として二度と退くことはない。お前だけを愛し続ける」
みつは、己を抱擁する磨徒の両腕に力がこもったのを感じる。
交わしあう体温。息づかいを間近で感じられる距離。見上げれば、磨徒の熱のこもった瞳と視線がかち合った。
溢れんばかりの愛おしさで胸のうちが満たされていく。
「……嬉しいです、ありがとうございます。私、旦那様のことが誰より大切です。大好きです。私の気持ち、信じてください……」
ぽろぽろと大粒の涙をこぼしながら、みつは磨徒の背にぎこちなく両腕を回す。
一度は拒絶された想いをふたたび吐き出すことに不安と戸惑いがにじむ。
そんなみつの心中を察したのか、磨徒はわずかに眉を寄せて腰をかがめる。
鼻先が触れあいそうな距離だ。
「信じるに決まっている。もう二度とお前を傷つけない。その気持ちが何より嬉しい……俺も、お前のことが好きだ。心底愛おしいと思う」
「……っ……磨徒さまぁ……」
不器用に歩んできた夫婦の想いが、はじめて通じあった。
安堵と喜びにうち震えながら、みつは磨徒の懐に顔をうずめる。
あたたかな体温、そして伝わる胸の鼓動に、やわらかく心の内がほぐれていく。
「みつ──」
二人の唇が、静かに重なる。
ゆるやかに、そっと角度を変えて幾度もその感触を確かめ合う。
愛おしい。大好き。もっとこの熱を分かち合いたい──。
すれ違ったぶんの気持ちをぶつけ合うように、夫婦の抱擁は続く。
幾度となく名前を呼び合い、熱を交わし合って。
心が通じあった喜びに身を寄せ合い、愛し合う二人の夜は更けていくのだった──。
一通り己の過去を語り終えたみつは、小さく息をついて俯いた。
日の本を去ったあの日、人間の世で生きたすべての記憶をそっと心の奥へとしまいこんだ。
思い出したくもない、悪夢のような日々だった。
あやかしの都に来てからというもの、みつはずっと夢の中にいるような心持ちだ。
夫である磨徒の優しさに、凍てついた胸奥がゆるやかに溶けていくのを感じていたからだ。
「……よく話してくれた。辛い記憶を掘り起こさせてしまったな、すまない。そしてありがとう」
磨徒は耳にしたすべてを噛み締めるように、目を細めながらゆっくりと頷いてくれた。
その優しい声色と表情に、みつは心が解きほぐされていくのを感じる。
長く話し込んでいたため、時刻はとうに深夜を回っている。
虫のしらべは聞こえて来ないが、遠くで小さく野鳥の鳴く声が聞こえた。
しばし畳の上に目線を落とし何やら思案している様子だった磨徒が、神妙な面持ちで口を開く。
「はな殿は、その後どうされているだろう」
みつは、俯いたまま静かに言葉を紡いだ。
「旦那様への輿入れが決まりました折りに、凍城様へ託しました。仕度金としていただいた千両はすべてはな様の養育に使っていただくこととし、現在はたかの屋から引き取り、凍城様の妹君ご夫婦の養子となっているはずです」
「そうだったのか……大和の親類の元ならば、心配はいらないだろう」
「はい。それだけが気がかりでしたが、後にはもう何の未練もございません」
そうだ。未練など何もない。
けれど過去と向き合っていく中で、みつの心には一つ、わだかまるものがあった。
「申し訳ございません……内心では人間という存在に希望を失っていた私のような者が、あやかしと人間の共生を目指すなど、馬鹿げた話だと思います」
みつの視界がふたたび涙でにじむ。
澄んだ心を持つ清らかな磨徒に自分は相応しくないのではないかと、胸の奥が張り裂けんばかりに締め付けられる。
「……いや、そうは思わない。己の血を、種族を、時に疎ましく思うことも、呪いたくなることもあるのは俺も同じだ」
「そんな……旦那様のお考えは立派です。あやかしと人間、双方の幸福を考えてくださっている。それがよく分かるからこそ、私もお手伝いしたいと思ったのです」
「ありがとう。俺も、あやかしの醜い部分を嫌というほど目の当たりにしてきた。耐え難い現状から目をそらしたくなったこともある──しかし、俺には逃げる選択肢がない。迎合するか、変えるか。どちらかしか選べないのだ」
綺麗事では渡っていけない世の中だ。
それは人の世もあやかしの世も同じ。
種のあり方を嘆き、憂う両者は、ここに来てはじめて心の内を包み隠さず打ち明けていた。
「……私、人間が怖いです。けれど旦那様が人間を信じてくださるなら、共に生きる世を作りたいと願ってくださるなら、そのお考えに報いたいと思うのです……人とあやかしは、心を通い合わせることができる、共生できると、日々痛感しています。だから、そんな私だからこそ、何かできたらって、そう思って……」
みつは、ぼろぼろと涙を流しながら声を震わせる。
人間なんかもうこりごりだと。そう思う反面、磨徒が信じる人間を、もう一度信じてみたい気持ちも芽生えている。
現状を変えたい気持ちは、磨徒と同じである。
何の力も持たなかったあの頃とは違う。
今なら嵬の頭領の妻として、出来ることは山ほどあるのだ。
「みつが来てくれたことで、すでに多くのことが変化している。良い方向にだ。傷病者治療への感謝の言葉も毎日耳に入る。本当にありがとう。俺にとってお前は、かけがえのない妻だ」
磨徒はそっとみつの涙をぬぐい、優しい手付きで頭を撫でてくれる。
みつはわずかに鼻をすすり、気はずかしそうに微笑んだ。
「……もったいないお言葉にございます。私、もっともっとあやかしの皆様のために働きたいんです。少しでも心穏やかに暮らせるように、お手伝いをしたくて」
「お前は強いな……いや、強くあろうと気を張っているのだろう。そして、そんな気持ちをこれまで月鬼が支えてくれていたのだな」
「はい……月鬼様のように生きたいと思うことで、己を奮い立たせておりました。折れそうだった私を救ってくれた恩人なんです」
「ああ。俺は月鬼に感謝している。みつの一番辛かった日々を支えてくれたのだからな」
もがき苦しむ日々の中、生きるしるべとして歩みを支えてくれた存在は、やがて己の一部となり、切り離せぬ核へと変わっていく。
みつの中での月鬼もそうだ。
生きていくためのお守りのようなものである。
「月鬼様は、私に辛い日々を生き抜く力をくださいました。そして……旦那様も、私に幸福と希望を与えてくださるかけがえのない存在です。旦那様と過ごす毎日が、私の心をときほぐしてくれます。ほんとうに今、とっても幸せなんです」
「みつ……俺の方こそ、多くの幸福をもらっている。お前を娶って本当に良かった。これからもずっと、俺のとなりにいてほしい」
磨徒がその両腕でみつを優しく包み込む。着物ごしにも分かる、たくましく大きな体躯に鼓動がはね上がった。
あたたかなぬくもりを噛み締めるように、みつは静かに目を閉じてその身を委ねるのだった。
「月鬼には到底かなわないと思って、これまで無意識に一線引いていた。しかし、俺にしかできないこともあると学んだ。俺はこうしてみつに触れられる。いつでも言葉をかけることができる。喜びも悲しみも分かち合うことができる……俺は夫として二度と退くことはない。お前だけを愛し続ける」
みつは、己を抱擁する磨徒の両腕に力がこもったのを感じる。
交わしあう体温。息づかいを間近で感じられる距離。見上げれば、磨徒の熱のこもった瞳と視線がかち合った。
溢れんばかりの愛おしさで胸のうちが満たされていく。
「……嬉しいです、ありがとうございます。私、旦那様のことが誰より大切です。大好きです。私の気持ち、信じてください……」
ぽろぽろと大粒の涙をこぼしながら、みつは磨徒の背にぎこちなく両腕を回す。
一度は拒絶された想いをふたたび吐き出すことに不安と戸惑いがにじむ。
そんなみつの心中を察したのか、磨徒はわずかに眉を寄せて腰をかがめる。
鼻先が触れあいそうな距離だ。
「信じるに決まっている。もう二度とお前を傷つけない。その気持ちが何より嬉しい……俺も、お前のことが好きだ。心底愛おしいと思う」
「……っ……磨徒さまぁ……」
不器用に歩んできた夫婦の想いが、はじめて通じあった。
安堵と喜びにうち震えながら、みつは磨徒の懐に顔をうずめる。
あたたかな体温、そして伝わる胸の鼓動に、やわらかく心の内がほぐれていく。
「みつ──」
二人の唇が、静かに重なる。
ゆるやかに、そっと角度を変えて幾度もその感触を確かめ合う。
愛おしい。大好き。もっとこの熱を分かち合いたい──。
すれ違ったぶんの気持ちをぶつけ合うように、夫婦の抱擁は続く。
幾度となく名前を呼び合い、熱を交わし合って。
心が通じあった喜びに身を寄せ合い、愛し合う二人の夜は更けていくのだった──。
