「私は“簾雪堂”(れんせつどう)という書店の娘として生まれました。優しい両親と五つ上の兄がいて、何不自由なく、日々幸せに生きていました……」
部屋に響くのは、心地よく秋をうたう虫たちの声のみだ。
ぽつりぽつりと語り出せば、心の奥底で錆び付いた記憶の扉が開くのを感じる。
みつはそっと目を伏せ、懐かしい生家の縁側を思い出していた。
ぽかぽかと陽のあたる特等席で、本を広げる時間が大好きだった。
「そうか……兄君との仲はどうだったのだ?」
続きを促すように磨徒が尋ねれば、みつはかすかに微笑みを返した。
「兄とは特に仲が良かったです。名を菊太郎といいまして、妹の私が言うのも何ですが、博識で商才もあり、優しくて……私の自慢でした」
「菊太郎殿か。一度お会いしてみたいものだ」
「……もう兄は、この世にいないのです。私が十六を迎えた年のある日、屋敷に盗賊が入りまして──両親は恐らく斬られて亡くなり、兄は盗賊と交渉し私を逃がしてくれましたが、その後きっと殺されたのだろうと思います」
思い出したくもない、地獄のような一夜の出来事だった。
盗賊による押し込み。
徒党を組んだ盗っ人たちが、周到な下調べと手配のもと、集団で商家を荒らす悪質な強盗行為である。
防ぐことは難しく、押し入られた商家の人間が口封じに始末され、証拠隠滅のため屋敷ごと焼かれるのは多く見られる手口だった。
簾雪堂は夜間も警護人員を雇ってはいたが、屋敷の規模から見ると守りは手薄であり、事件の数日前に父が、警護人を増やそうかと悩んでいたことを記憶している。
菊太郎は、自室の箪笥で管理している蔵の鍵を渡すことを条件に、みつを逃がしてもらう提案をした。
その箪笥には細工があり、数多くある引き出しの中の一つは、特殊な開け方をしなければびくともしない。
鉄の箪笥の前でみつを背にかばいながら、抜き身の刀に向き合った兄の勇気を思えば、今でも心が震える。
「そのような状況で相手と冷静に話し合えるとは、菊太郎殿は肝が据わっていたんだな……兄としての矜持もあったのだろう、尊敬する」
「はい。私にはもったいないくらい立派な兄でした……天明春待月も、もともとは兄の好きな本だったんです。兄妹揃って、主役の春綱(はるつな)がお気に入りでした」
天明春待月は、勧善懲悪の物語だ。
主人公春綱が従者の月山(つきやま)と共に旅をして仲間を集めながら、人間を喰らい尽くさんとする物の怪に立ち向かっていく。
兄菊太郎はよく「春綱のように弱き者を助け、清らかに生きていきたい」と語っていたものだ。
「春綱……月鬼ではないのか?」
磨徒がわずかに目を見開き、首をひねる。
それはそうだろう。春綱の名など、みつはこれまで口にしたことがないのだから。
「最初は、力を持たぬ者たちに手を差しのべる正義の味方に憧れていました……ですが、家族を失い、家を焼かれ、命からがら助けを求めた親戚の家で酷使される日々の中、悟ったんです。誰も私を助けてなどくれない、救済者はいないということに……それからは、己の力のみを信じ、何者にも振り回されることのない月鬼様の生き方を信奉するようになりました」
「なるほど、そうか……搾取されるばかりの日々に、みつは望みを失っていたのだな。辛かったな……頼った先では、ひどい扱いを受けていたのか……?」
「罵倒と暴力は日常茶飯事で……いえ、でも本当は、こんな身寄りのない私を家に置いていただけたことを感謝しなければならないのだと思います。先方も苦しい生活状況でしたし、跡取りもなかなか生まれず、日々ピリピリと張りつめておりましたので」
親戚にあたる染物屋「たかの屋」は、染物業を営む商家が立ち並ぶ紺屋町の隅で細々と続く、こじんまりとした店だった。
食い扶持が増えることを良しとしない彼らは、当初みつを追い返す姿勢でいた。
他に行くあてがないみつは、何でもしますからと頭を下げて懇願を続けた。
従兄弟にあたる、たかの屋夫婦の長男加助(かすけ)が「働き手が増えるのは助かる、食い扶持が増えるぶん、働いてもらえばいい」と両親を説得し、なんとか居場所を得ることができたのだった。
その後は誰よりも早起きして店内から屋内まで隅々を掃除し、家人の食事は朝夕すべてをみつが作った。
与えられる食事は残り物のみで、薄汚れた物置小屋にて寝起きする日々。
何かにつけて言いがかりをつけられ、傷つけられてばかりの毎日だった。
感情を押し殺しながら過ごすうちに、視界からどんどん色が抜けていくのを感じていた。
「……みつは一家の者同様に働いていたにも関わらず、そのような扱いを受けていたのか?」
磨徒の表情が曇る。
心を痛めてくれているのだろう。親身に耳を傾けてくるその姿勢を、みつは嬉しく思った。
「そうですね……私は、彼らの消化しきれない苛立ちのはけ口だったのでしょう……大奥様はよく私を罵りながら足蹴にし、熱いお茶を湯呑みごと投げつけられることも多くありました」
「許しがたいな……先ほど跡取りの問題があると聞いたが、それは解決しないままだったのか?」
「はい。従兄弟の加助さんの奥様は、たきさんと言いまして、なかなか子宝に恵まれずにおりました。そのことで大奥様から嫌味を言われ、いびられ続けていたのですが、嫁がれて三年目にしてようやく子を授かって……」
「それはめでたいことだ。一家にも何か変化が起こったのではないか?」
「いえ、何も。お生まれになったのが女の子でしたので、大奥様は怒り狂い、その場でくびり殺せとわめき散らしました。そこはなんとか加助さんが止めに入ったのですが、その後たきさんに対するいびりは激しくなっていきました。当然、まだ幼い加助さんとたきさんの娘、はなちゃんもひどい扱いを受けるようになっていって……」
たきとはなの懐かしい面ばせが頭をよぎる。
たきは大人しく物静かな女で、みつをいびるようなことは決してしなかった。
みつもまた彼女の置かれた状況に同情的で、二人は人目のないところで励まし合いながら、過酷な毎日を生きていた。
「幼子にまでそのような扱いを……たき殿やはな殿は、今でも虐げられているのだろうか」
「……たきさんはもう、お亡くなりになっています」
みつの言葉に、磨徒は言葉を失った様子で硬直している。
たきの死については、思い出したくもない凄惨な記憶だ。みつにとって大きな心の傷となっている。
「何があったのか、聞いて差し支えはないか?」
磨徒はいかにも尋ねにくそうに、やや俯いたみつの顔を覗き込んでくる。
今宵はすべてを話す覚悟で磨徒と向かい合っているのだ。何も隠すことなどない。
「お話します……はなちゃんが二歳となった今年、たきさんは連日心ない言葉を浴びせられ、疲弊しきっていたご様子でした……ある日私がはなちゃんのお世話をしていた時に、たき様がふらりとお見えになったんです。手に鉈(なた)をぶら下げた状態で……」
「なた……というのは?」
「鉈は切れ味の良い刃物です。たきさんはそれを、娘であるはなちゃんに向かって振り下ろしました」
「なんとむごいことを……たき殿は、追い詰められ正常な判断ができなくなっていたのだろうか?」
「はい。女の子なんていらない、売り飛ばしてしまえと日々わめき立てられて、乱心してしまったのだと思います。はなちゃんは左腕を切り落とされ、その後にたきさんは自害されたのです……情けない話なのですが、私は目の前の現実を受け止めきれず、その場で倒れてしまい……意識を取り戻した時にはすべてが終わっていました」
あの時、自分が止めに入っていたらと悔やんでも悔やみきれない。
たきがそこまで追い詰められる前に、もっと手を差しのべられたのではないかとも思う。
みつはぎゅっと膝の上で拳をにぎった。
「……加助殿は、さぞ辛かっただろうな」
震えるみつの掌に、磨徒の大きな手が重なる。
そのあたたかな体温に、こわばっていた心の内が静かに解きほぐされていくのを感じる。
「いえ、それが……私が意識を取り戻した後、大奥様や旦那様、そして加助さんがひそひそと話をしているのを障子ごしに耳にしまして……加助さんはまるで気に病んだ様子はなく、心を病み凶行に及んだたきさんの事を忌々しげに語っていました。はなちゃんのことも、年頃になれば売り飛ばす予定だったそうで、腕を失ってしまったので買い手がつかないと悔やんでいる様子でした」
「ここまでの話を聞いている限り、加助殿は善人であるとばかり思っていたが……」
「私も、そう思っていました。けれど内心は女を見下し、静かに搾取を続けるような方で。その後加助さんは、後妻として私をめとると仰ったのです。あいつは心が強いので、たきの二の舞にはならないだろうって……一生こき使って搾り取ってやるって」
淡々と語りながらも、あの晩の嘲笑うような加助の声が、みつの頭の中で響き渡る。
彼は、家を焼いた盗賊のように直接みつに手を加えたわけではない。
しかし表向きは穏やかに、友好的に接しておきながら、内心は自分以外の人間を道具や金づるとしてしか見ていなかったのだ。
「みつは、それからどうなったのだ……?」
磨徒が表情をゆがめる。
目の前に座す彼はみつとの距離をつめて、互いの膝が触れあいそうなほど間近で、返答を待つ。
みつは、大きく息を吐き出した。
「それからすぐ、私はたかの屋を飛び出しました。すべてに疲れきって……人間という生き物に失望してしまったんです」
「そうか。それは無理もないことだ。みつの中で張りつめていたものが切れたのだな……それから俺と出会うまでは、どうしていたのだ?」
「それが、たかの屋を出た晩、行くあてもなく歩いていると、橋のたもとに高札が立っているのを見つけまして……その内容は、嵬族の頭領が人間の嫁を求めているというものでした。志願者は明朝、近所の寺の境内に集まるようにと書かれておりました」
「なるほど、みつはそこに志願してくれたのだな」
「はい。月鬼様はもともと、話に聞くあやかしの頭領を模して描かれた方でしたので……実際にお会いしたいと思いました。そして、できることなら私が妻になりたいと。もう人の世で生きていたくなかったんです。遠いあやかしの都に、月鬼様を思いながら嫁いで、そのことを打ち明けた末に旦那様に命を刈り取ってもらおうと思って……」
涙がにじんで、声が震える。
人間に失望し、消え入ってしまいたいと願った醜い己の感情を、あの日のみつは磨徒に押し付けようとしていた。
月鬼と立場を同じくする磨徒に己の命を託すことで、わずかながら納得のいく最期を迎えようと思っていたのだ。
「どのような思いで志願したのであっても、俺はみつと出会うことができて幸せだ。気に病む必要はない……ただ、みつの心の傷を癒す手伝いをしたい。これからも、お前のとなりに立つことを許してほしい」
「……っ……旦那様……もちろんです。私、もう旦那様に月鬼様を重ねたりしていません、ですから……!」
「ああ、分かっている。そんな顔をしないでくれ。俺は、何があろうとお前を否定しない。誰より傍で支えたいのだ」
磨徒はわずかに身をのりだし、みつの掌を両手で強く握りしめる。
ぽろぽろと涙をこぼしながら、みつは何度も頷いてみせた。
みつは、月鬼という唯一の希望にすがりつく気持ちで、磨徒の妻となった。
そうして日々、悪びれもせず月鬼への愛ばかりを聞かせていたのだ。己を誰より大切に扱ってくれる、この磨徒に。
なんと見苦しく、浅ましい真似を……。浅慮な己が嫌になる。
けれど、とうに自分の気持ちには気づいているのだ。磨徒が誰よりも大切だと。
これから真心をもって接していくことで、償っていきたい。
本当の意味で磨徒と夫婦になりたいと、みつは思った。
部屋に響くのは、心地よく秋をうたう虫たちの声のみだ。
ぽつりぽつりと語り出せば、心の奥底で錆び付いた記憶の扉が開くのを感じる。
みつはそっと目を伏せ、懐かしい生家の縁側を思い出していた。
ぽかぽかと陽のあたる特等席で、本を広げる時間が大好きだった。
「そうか……兄君との仲はどうだったのだ?」
続きを促すように磨徒が尋ねれば、みつはかすかに微笑みを返した。
「兄とは特に仲が良かったです。名を菊太郎といいまして、妹の私が言うのも何ですが、博識で商才もあり、優しくて……私の自慢でした」
「菊太郎殿か。一度お会いしてみたいものだ」
「……もう兄は、この世にいないのです。私が十六を迎えた年のある日、屋敷に盗賊が入りまして──両親は恐らく斬られて亡くなり、兄は盗賊と交渉し私を逃がしてくれましたが、その後きっと殺されたのだろうと思います」
思い出したくもない、地獄のような一夜の出来事だった。
盗賊による押し込み。
徒党を組んだ盗っ人たちが、周到な下調べと手配のもと、集団で商家を荒らす悪質な強盗行為である。
防ぐことは難しく、押し入られた商家の人間が口封じに始末され、証拠隠滅のため屋敷ごと焼かれるのは多く見られる手口だった。
簾雪堂は夜間も警護人員を雇ってはいたが、屋敷の規模から見ると守りは手薄であり、事件の数日前に父が、警護人を増やそうかと悩んでいたことを記憶している。
菊太郎は、自室の箪笥で管理している蔵の鍵を渡すことを条件に、みつを逃がしてもらう提案をした。
その箪笥には細工があり、数多くある引き出しの中の一つは、特殊な開け方をしなければびくともしない。
鉄の箪笥の前でみつを背にかばいながら、抜き身の刀に向き合った兄の勇気を思えば、今でも心が震える。
「そのような状況で相手と冷静に話し合えるとは、菊太郎殿は肝が据わっていたんだな……兄としての矜持もあったのだろう、尊敬する」
「はい。私にはもったいないくらい立派な兄でした……天明春待月も、もともとは兄の好きな本だったんです。兄妹揃って、主役の春綱(はるつな)がお気に入りでした」
天明春待月は、勧善懲悪の物語だ。
主人公春綱が従者の月山(つきやま)と共に旅をして仲間を集めながら、人間を喰らい尽くさんとする物の怪に立ち向かっていく。
兄菊太郎はよく「春綱のように弱き者を助け、清らかに生きていきたい」と語っていたものだ。
「春綱……月鬼ではないのか?」
磨徒がわずかに目を見開き、首をひねる。
それはそうだろう。春綱の名など、みつはこれまで口にしたことがないのだから。
「最初は、力を持たぬ者たちに手を差しのべる正義の味方に憧れていました……ですが、家族を失い、家を焼かれ、命からがら助けを求めた親戚の家で酷使される日々の中、悟ったんです。誰も私を助けてなどくれない、救済者はいないということに……それからは、己の力のみを信じ、何者にも振り回されることのない月鬼様の生き方を信奉するようになりました」
「なるほど、そうか……搾取されるばかりの日々に、みつは望みを失っていたのだな。辛かったな……頼った先では、ひどい扱いを受けていたのか……?」
「罵倒と暴力は日常茶飯事で……いえ、でも本当は、こんな身寄りのない私を家に置いていただけたことを感謝しなければならないのだと思います。先方も苦しい生活状況でしたし、跡取りもなかなか生まれず、日々ピリピリと張りつめておりましたので」
親戚にあたる染物屋「たかの屋」は、染物業を営む商家が立ち並ぶ紺屋町の隅で細々と続く、こじんまりとした店だった。
食い扶持が増えることを良しとしない彼らは、当初みつを追い返す姿勢でいた。
他に行くあてがないみつは、何でもしますからと頭を下げて懇願を続けた。
従兄弟にあたる、たかの屋夫婦の長男加助(かすけ)が「働き手が増えるのは助かる、食い扶持が増えるぶん、働いてもらえばいい」と両親を説得し、なんとか居場所を得ることができたのだった。
その後は誰よりも早起きして店内から屋内まで隅々を掃除し、家人の食事は朝夕すべてをみつが作った。
与えられる食事は残り物のみで、薄汚れた物置小屋にて寝起きする日々。
何かにつけて言いがかりをつけられ、傷つけられてばかりの毎日だった。
感情を押し殺しながら過ごすうちに、視界からどんどん色が抜けていくのを感じていた。
「……みつは一家の者同様に働いていたにも関わらず、そのような扱いを受けていたのか?」
磨徒の表情が曇る。
心を痛めてくれているのだろう。親身に耳を傾けてくるその姿勢を、みつは嬉しく思った。
「そうですね……私は、彼らの消化しきれない苛立ちのはけ口だったのでしょう……大奥様はよく私を罵りながら足蹴にし、熱いお茶を湯呑みごと投げつけられることも多くありました」
「許しがたいな……先ほど跡取りの問題があると聞いたが、それは解決しないままだったのか?」
「はい。従兄弟の加助さんの奥様は、たきさんと言いまして、なかなか子宝に恵まれずにおりました。そのことで大奥様から嫌味を言われ、いびられ続けていたのですが、嫁がれて三年目にしてようやく子を授かって……」
「それはめでたいことだ。一家にも何か変化が起こったのではないか?」
「いえ、何も。お生まれになったのが女の子でしたので、大奥様は怒り狂い、その場でくびり殺せとわめき散らしました。そこはなんとか加助さんが止めに入ったのですが、その後たきさんに対するいびりは激しくなっていきました。当然、まだ幼い加助さんとたきさんの娘、はなちゃんもひどい扱いを受けるようになっていって……」
たきとはなの懐かしい面ばせが頭をよぎる。
たきは大人しく物静かな女で、みつをいびるようなことは決してしなかった。
みつもまた彼女の置かれた状況に同情的で、二人は人目のないところで励まし合いながら、過酷な毎日を生きていた。
「幼子にまでそのような扱いを……たき殿やはな殿は、今でも虐げられているのだろうか」
「……たきさんはもう、お亡くなりになっています」
みつの言葉に、磨徒は言葉を失った様子で硬直している。
たきの死については、思い出したくもない凄惨な記憶だ。みつにとって大きな心の傷となっている。
「何があったのか、聞いて差し支えはないか?」
磨徒はいかにも尋ねにくそうに、やや俯いたみつの顔を覗き込んでくる。
今宵はすべてを話す覚悟で磨徒と向かい合っているのだ。何も隠すことなどない。
「お話します……はなちゃんが二歳となった今年、たきさんは連日心ない言葉を浴びせられ、疲弊しきっていたご様子でした……ある日私がはなちゃんのお世話をしていた時に、たき様がふらりとお見えになったんです。手に鉈(なた)をぶら下げた状態で……」
「なた……というのは?」
「鉈は切れ味の良い刃物です。たきさんはそれを、娘であるはなちゃんに向かって振り下ろしました」
「なんとむごいことを……たき殿は、追い詰められ正常な判断ができなくなっていたのだろうか?」
「はい。女の子なんていらない、売り飛ばしてしまえと日々わめき立てられて、乱心してしまったのだと思います。はなちゃんは左腕を切り落とされ、その後にたきさんは自害されたのです……情けない話なのですが、私は目の前の現実を受け止めきれず、その場で倒れてしまい……意識を取り戻した時にはすべてが終わっていました」
あの時、自分が止めに入っていたらと悔やんでも悔やみきれない。
たきがそこまで追い詰められる前に、もっと手を差しのべられたのではないかとも思う。
みつはぎゅっと膝の上で拳をにぎった。
「……加助殿は、さぞ辛かっただろうな」
震えるみつの掌に、磨徒の大きな手が重なる。
そのあたたかな体温に、こわばっていた心の内が静かに解きほぐされていくのを感じる。
「いえ、それが……私が意識を取り戻した後、大奥様や旦那様、そして加助さんがひそひそと話をしているのを障子ごしに耳にしまして……加助さんはまるで気に病んだ様子はなく、心を病み凶行に及んだたきさんの事を忌々しげに語っていました。はなちゃんのことも、年頃になれば売り飛ばす予定だったそうで、腕を失ってしまったので買い手がつかないと悔やんでいる様子でした」
「ここまでの話を聞いている限り、加助殿は善人であるとばかり思っていたが……」
「私も、そう思っていました。けれど内心は女を見下し、静かに搾取を続けるような方で。その後加助さんは、後妻として私をめとると仰ったのです。あいつは心が強いので、たきの二の舞にはならないだろうって……一生こき使って搾り取ってやるって」
淡々と語りながらも、あの晩の嘲笑うような加助の声が、みつの頭の中で響き渡る。
彼は、家を焼いた盗賊のように直接みつに手を加えたわけではない。
しかし表向きは穏やかに、友好的に接しておきながら、内心は自分以外の人間を道具や金づるとしてしか見ていなかったのだ。
「みつは、それからどうなったのだ……?」
磨徒が表情をゆがめる。
目の前に座す彼はみつとの距離をつめて、互いの膝が触れあいそうなほど間近で、返答を待つ。
みつは、大きく息を吐き出した。
「それからすぐ、私はたかの屋を飛び出しました。すべてに疲れきって……人間という生き物に失望してしまったんです」
「そうか。それは無理もないことだ。みつの中で張りつめていたものが切れたのだな……それから俺と出会うまでは、どうしていたのだ?」
「それが、たかの屋を出た晩、行くあてもなく歩いていると、橋のたもとに高札が立っているのを見つけまして……その内容は、嵬族の頭領が人間の嫁を求めているというものでした。志願者は明朝、近所の寺の境内に集まるようにと書かれておりました」
「なるほど、みつはそこに志願してくれたのだな」
「はい。月鬼様はもともと、話に聞くあやかしの頭領を模して描かれた方でしたので……実際にお会いしたいと思いました。そして、できることなら私が妻になりたいと。もう人の世で生きていたくなかったんです。遠いあやかしの都に、月鬼様を思いながら嫁いで、そのことを打ち明けた末に旦那様に命を刈り取ってもらおうと思って……」
涙がにじんで、声が震える。
人間に失望し、消え入ってしまいたいと願った醜い己の感情を、あの日のみつは磨徒に押し付けようとしていた。
月鬼と立場を同じくする磨徒に己の命を託すことで、わずかながら納得のいく最期を迎えようと思っていたのだ。
「どのような思いで志願したのであっても、俺はみつと出会うことができて幸せだ。気に病む必要はない……ただ、みつの心の傷を癒す手伝いをしたい。これからも、お前のとなりに立つことを許してほしい」
「……っ……旦那様……もちろんです。私、もう旦那様に月鬼様を重ねたりしていません、ですから……!」
「ああ、分かっている。そんな顔をしないでくれ。俺は、何があろうとお前を否定しない。誰より傍で支えたいのだ」
磨徒はわずかに身をのりだし、みつの掌を両手で強く握りしめる。
ぽろぽろと涙をこぼしながら、みつは何度も頷いてみせた。
みつは、月鬼という唯一の希望にすがりつく気持ちで、磨徒の妻となった。
そうして日々、悪びれもせず月鬼への愛ばかりを聞かせていたのだ。己を誰より大切に扱ってくれる、この磨徒に。
なんと見苦しく、浅ましい真似を……。浅慮な己が嫌になる。
けれど、とうに自分の気持ちには気づいているのだ。磨徒が誰よりも大切だと。
これから真心をもって接していくことで、償っていきたい。
本当の意味で磨徒と夫婦になりたいと、みつは思った。
