「みつ殿から話は聞いているぞ。夫婦仲も円満なようで何よりだ。日の本から何か取り寄せたいものはあるか?」
凍城は隣り合わせに座す磨徒とみつの顔を見渡しながら、目を細めた。
「ありがとう。大和のおかげでみつを迎えることができた。それと、現時点で取り寄せたい品をまとめてある。よろしく頼む」
磨徒は懐から文を取り出し、畳の上に広げる。
日本語で書かれているため、内容はみつにも読み取れた。衣類や食材など様々な品がずらりと列挙されている。
それらに目を通していた凍城が、ふっと笑みをこぼした。
「へぇ、天明春待月……確か、だいぶ前に流行った読本だよな。気になるのか?」
「みつの好きな本だ。いつでも読めるよう屋敷にも置いておきたい」
磨徒の言葉に、みつの胸中が乱れる。
というのも、最近は意識して月鬼に想いを馳せる時間を削っていたからだ。
生きることに何の望みも見いだせなかった頃、崩れ落ちそうな身を唯一支えてくれたのが、天明春待月だった。
行く手を遮るものは躊躇なく破壊し、ただただ己の欲望を貫き通すために手段を選ばない月鬼の姿は、みつにとってどんな英雄よりも輝いて見えた。
月鬼様ならこんなことで負けない。
月鬼様みたいに強く生きたい。
そう言い聞かせることで、泣きそうな一日を気丈に生き抜くことができた。
恩人だ。
誰も助けてくれなかったあの日々に、生きる術を教えてくれたのは、他でもない月鬼なのだ。
しかし、今はあの頃とは違う。
磨徒の元へ嫁ぎ、幸福な日々を送っている。
以前のように月鬼にすがり、己を奮い立たせることはなくなった。
磨徒と笑顔を交わすたび、磨徒を愛おしく思えば思うほど、己の奥底に潜んでいた月鬼の気配が薄まっていくのを感じる。
「あの、旦那様……わたし、大丈夫です。手元に本なんていりません。今すごく幸せですから……いりません、いりません……」
ぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。
現在は磨徒の妻なのだから、たとえ本の中の相手であろうと、想いを引きずることは罪なのではないかと、煩悶を続けていた。
月鬼のことを考えまいと、忘れようと思い出に蓋をしたのは、子作りを拒絶されたあの夜からだ。
磨徒の存在が、みつの中であまりに大きくなりすぎた。
そのことに気持ちが追い付かず、戸惑うばかりの毎日だ。
「どうした、泣かないでくれ……みつがいつでも月鬼に会えるようにしたいというのはもちろんだが、俺も知りたいのだ、月鬼のことを」
「どうかお気になさらないでください……忘れますから、思い出に変えてみせますから……」
みつの涙は止まらない。
磨徒はすすり泣くみつの肩に手を回し、ぐっと抱き寄せた。
「すまない、俺が悪かった。無理をしなくていい、落ち着いたらゆっくり話をしよう」
磨徒は、みつの背中をあやすようにさする。
一連のやりとりを見守っていた凍城はしばし固まっていたが、二人の会話が途切れたところで言葉を発した。
「おい磨徒。なんだかよく分からんが、嫁さんを泣かすなよ」
「すまない。俺が不甲斐ないばかりに、みつを哀しませている」
「……円満そうに見えて、何かあるみたいだな。夫婦の事情に首をつっこむのは野暮だとは思うが、俺が仲介した二人だからな。差し支えなければ概要を知りたい」
話していただけませんかと凍城がみつに優しく語りかけると、しばし時間を置いて、みつはかぶりを振った。
「申し訳ございません、私の醜い過去の話でございます……話をするなら、旦那様と二人の時にさせてください」
「他人に話すのは憚られる内容ですか?」
「……はい。旦那様にだけ、聞いてほしいのです」
「承知しました、以後詮索は致しません。それでは、少し話題を変えてもよろしいでしょうか?」
と、凍城が場を見渡せば、みつと磨徒は静かに頷いた。
みつはズキリと痛む胸をおさえる。
磨徒だけではなく凍城にまで心配をかけてしまった自分が情けない。
「単刀直入に言えば、叛徒(はんと)が出た。共にあやかし側との交易、交渉にあたっていた田所という者だ。何を企んでいるのかは不明だが、五日ほど前に妖(あやし)の鍵と通行手形の写しを持ち去り、逃亡中だ」
神妙な面持ちで、凍城は磨徒に視線を送る。
人里からあやかしの都へ移動するには、結界を解くための秘具である妖の鍵と通行手形が必須になるということは、みつも話に聞いていた。
しかし、それらに写しが存在したことは初耳だ。
不穏な空気を感じて、みつは緊迫した表情で息をのんだ。
「それを聞いて合点がいった。数日前から、都では人間の仕業であろう事件が増えているんだ」
磨徒が眉間にしわを寄せ、難しい顔をしながらため息をつく。
凍城は声にならない呻きをあげながら、あぐらをかいた己の膝を悔しげに叩いた。
「おいおい本当かよ……あの野郎、市井の民に手を出しているのか……」
「夜間、外を出歩いているヒトガタのあやかしが、次々に斬りつけられている。死者八名、生存者は十二名ほど確認できている」
「そんなに被害者がいるのか……生存者に話を聞いてみたいところだな」
磨徒と凍城の会話を耳にし、みつの中でも様々な事柄に合点がいく。
昼の診察で怯えながら金創をあらわにした民たちは、恐らくこの事件に巻き込まれたのだろう。
なんともひどい話だ。
「一日もはやく、叛徒が見つかることを祈ります」
みつが憂いの表情を見せると、磨徒と凍城は力強く頷いてくれた。
「そういうわけで、俺はこれから夜の町へ調査に向かう。磨徒も来ないか? 二人いれば解決も早いだろう」
立ち上がった凍城の誘いに乗り、磨徒もすぐさま腰を上げた。
みつは不安を隠すことなく磨徒を見上げながら、彼の着物の裾をぎゅっと掴む。
その指先に、磨徒のてのひらが優しく重ねられた。
「みつ、すまないが行ってくる。帰りは遅くなるだろう。帰ったらまた、ゆっくり話を聞かせてくれ」
触れあった指先を磨徒がそっと撫でながら、丁寧に着物から引き剥がした。
磨徒の声色に緊迫した様子はなく、あまりにいつも通りなので、みつの感情も次第に凪いでいく。
「……はい、お気をつけて」
三人が部屋を出ていくまで、みつはじっとその後ろ姿を見送った。
無事に帰ってほしいと、ただただその身を案じながら──。
凍城は隣り合わせに座す磨徒とみつの顔を見渡しながら、目を細めた。
「ありがとう。大和のおかげでみつを迎えることができた。それと、現時点で取り寄せたい品をまとめてある。よろしく頼む」
磨徒は懐から文を取り出し、畳の上に広げる。
日本語で書かれているため、内容はみつにも読み取れた。衣類や食材など様々な品がずらりと列挙されている。
それらに目を通していた凍城が、ふっと笑みをこぼした。
「へぇ、天明春待月……確か、だいぶ前に流行った読本だよな。気になるのか?」
「みつの好きな本だ。いつでも読めるよう屋敷にも置いておきたい」
磨徒の言葉に、みつの胸中が乱れる。
というのも、最近は意識して月鬼に想いを馳せる時間を削っていたからだ。
生きることに何の望みも見いだせなかった頃、崩れ落ちそうな身を唯一支えてくれたのが、天明春待月だった。
行く手を遮るものは躊躇なく破壊し、ただただ己の欲望を貫き通すために手段を選ばない月鬼の姿は、みつにとってどんな英雄よりも輝いて見えた。
月鬼様ならこんなことで負けない。
月鬼様みたいに強く生きたい。
そう言い聞かせることで、泣きそうな一日を気丈に生き抜くことができた。
恩人だ。
誰も助けてくれなかったあの日々に、生きる術を教えてくれたのは、他でもない月鬼なのだ。
しかし、今はあの頃とは違う。
磨徒の元へ嫁ぎ、幸福な日々を送っている。
以前のように月鬼にすがり、己を奮い立たせることはなくなった。
磨徒と笑顔を交わすたび、磨徒を愛おしく思えば思うほど、己の奥底に潜んでいた月鬼の気配が薄まっていくのを感じる。
「あの、旦那様……わたし、大丈夫です。手元に本なんていりません。今すごく幸せですから……いりません、いりません……」
ぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。
現在は磨徒の妻なのだから、たとえ本の中の相手であろうと、想いを引きずることは罪なのではないかと、煩悶を続けていた。
月鬼のことを考えまいと、忘れようと思い出に蓋をしたのは、子作りを拒絶されたあの夜からだ。
磨徒の存在が、みつの中であまりに大きくなりすぎた。
そのことに気持ちが追い付かず、戸惑うばかりの毎日だ。
「どうした、泣かないでくれ……みつがいつでも月鬼に会えるようにしたいというのはもちろんだが、俺も知りたいのだ、月鬼のことを」
「どうかお気になさらないでください……忘れますから、思い出に変えてみせますから……」
みつの涙は止まらない。
磨徒はすすり泣くみつの肩に手を回し、ぐっと抱き寄せた。
「すまない、俺が悪かった。無理をしなくていい、落ち着いたらゆっくり話をしよう」
磨徒は、みつの背中をあやすようにさする。
一連のやりとりを見守っていた凍城はしばし固まっていたが、二人の会話が途切れたところで言葉を発した。
「おい磨徒。なんだかよく分からんが、嫁さんを泣かすなよ」
「すまない。俺が不甲斐ないばかりに、みつを哀しませている」
「……円満そうに見えて、何かあるみたいだな。夫婦の事情に首をつっこむのは野暮だとは思うが、俺が仲介した二人だからな。差し支えなければ概要を知りたい」
話していただけませんかと凍城がみつに優しく語りかけると、しばし時間を置いて、みつはかぶりを振った。
「申し訳ございません、私の醜い過去の話でございます……話をするなら、旦那様と二人の時にさせてください」
「他人に話すのは憚られる内容ですか?」
「……はい。旦那様にだけ、聞いてほしいのです」
「承知しました、以後詮索は致しません。それでは、少し話題を変えてもよろしいでしょうか?」
と、凍城が場を見渡せば、みつと磨徒は静かに頷いた。
みつはズキリと痛む胸をおさえる。
磨徒だけではなく凍城にまで心配をかけてしまった自分が情けない。
「単刀直入に言えば、叛徒(はんと)が出た。共にあやかし側との交易、交渉にあたっていた田所という者だ。何を企んでいるのかは不明だが、五日ほど前に妖(あやし)の鍵と通行手形の写しを持ち去り、逃亡中だ」
神妙な面持ちで、凍城は磨徒に視線を送る。
人里からあやかしの都へ移動するには、結界を解くための秘具である妖の鍵と通行手形が必須になるということは、みつも話に聞いていた。
しかし、それらに写しが存在したことは初耳だ。
不穏な空気を感じて、みつは緊迫した表情で息をのんだ。
「それを聞いて合点がいった。数日前から、都では人間の仕業であろう事件が増えているんだ」
磨徒が眉間にしわを寄せ、難しい顔をしながらため息をつく。
凍城は声にならない呻きをあげながら、あぐらをかいた己の膝を悔しげに叩いた。
「おいおい本当かよ……あの野郎、市井の民に手を出しているのか……」
「夜間、外を出歩いているヒトガタのあやかしが、次々に斬りつけられている。死者八名、生存者は十二名ほど確認できている」
「そんなに被害者がいるのか……生存者に話を聞いてみたいところだな」
磨徒と凍城の会話を耳にし、みつの中でも様々な事柄に合点がいく。
昼の診察で怯えながら金創をあらわにした民たちは、恐らくこの事件に巻き込まれたのだろう。
なんともひどい話だ。
「一日もはやく、叛徒が見つかることを祈ります」
みつが憂いの表情を見せると、磨徒と凍城は力強く頷いてくれた。
「そういうわけで、俺はこれから夜の町へ調査に向かう。磨徒も来ないか? 二人いれば解決も早いだろう」
立ち上がった凍城の誘いに乗り、磨徒もすぐさま腰を上げた。
みつは不安を隠すことなく磨徒を見上げながら、彼の着物の裾をぎゅっと掴む。
その指先に、磨徒のてのひらが優しく重ねられた。
「みつ、すまないが行ってくる。帰りは遅くなるだろう。帰ったらまた、ゆっくり話を聞かせてくれ」
触れあった指先を磨徒がそっと撫でながら、丁寧に着物から引き剥がした。
磨徒の声色に緊迫した様子はなく、あまりにいつも通りなので、みつの感情も次第に凪いでいく。
「……はい、お気をつけて」
三人が部屋を出ていくまで、みつはじっとその後ろ姿を見送った。
無事に帰ってほしいと、ただただその身を案じながら──。
