磨徒はみつ達の前まで歩みを進めると、群衆へと振り返り声を上げた。
「一同、顔を上げてくれ。立ち上がり、目線を合わせて聞いてほしい。今後は嵬族の頭領に対し、過度にへりくだる必要はない。私を同胞として受け入れてもらいたい。我らあやかしは家族。一枚岩を目指してゆく。先代の治世に失望した者も少なくないだろうが、この私が力を尽くし、皆に捧げることを誓おう。揺るぎなき安寧の世を」
そう呼びかけると長い沈黙をはさみ、わずかに場がざわめき出した。
へりくだる必要はない? 安寧の世をつくる?
信じられない出まかせだと、声をひそめて民衆が囁く。
それもそうだろう、にわかには信じがたい発言だ。
あやかしの世は厳しい階級社会であり、平民はただ平伏し、服従を誓うのが当たり前だったはずだ。みつが幕府から教わった話ではそうだった。数百年変わらぬ主従関係が存在すると。
にも関わらず、磨徒は言葉ひとつで長く続いてきた従属関係を緩和しようとしている──。
みつはその揺るがぬ意思と決断力に心打たれた。
初夜に二人で語り合った彼の理想と目標は今、形となって世に放たれたのだ。
妥協なき実行。磨徒は本気で世界を変えようと動いている。
心ない言葉に打ち負かされそうだったみつの意識は、沸騰するかのごとく熱く奮い立った。
民たちは困惑した様子でざわざわと言葉を交わしているが、皆が腰を上げるのを待つようにその場を動かない磨徒を見て、一人また一人と立ち上がっていく。
そうして大半の民が背筋を伸ばしたところで、磨徒はふたたび彼らに語りかけた。
「半月前に出したお触れを思い出してほしい。張り出した事柄は二つ。一つはあやかしの都の治安維持や生活水準の引き上げを目指す旨について。もう一つは、人間との関わりに関する事柄だ──人間及び人間の血を引く者に危害を加えた者は死罪、迫害や差別行為もまた罪とし、相応に裁くといった内容だった。俺は、人間とあやかしが共生できる世を目指している」
共生という言葉に、ふたたび群衆は大きくざわめいた。
できるわけがないと誰もが思っただろうが、口に出す者はいなかった。
「みつ、隣へ来てくれ」
磨徒は、神妙な面持ちのまま話に耳を傾けていたみつに手招きをする。
みつは磨徒から声をかけられたことにより背筋が伸び、凛とした表情で彼の隣へと歩み出た。
そんなみつの背に手を回し、磨徒は声を張り上げる。
「紹介しよう、妻のみつだ。我ら夫婦が模範となり、証明する。人間とあやかしは手をとりあって生きていくことができると」
語り終えると同時に、磨徒はみつからも言葉をかけるよう促した。
大きく息を吸い、決意の眼差しで群衆を見渡したみつは、ひるむことなく高らかに宣言する。
「お初にお目にかかります。磨徒様の妻、みつと申します。私は人間とあやかしの間に、偏見と差別という垣根のない世を作りたく思っております。あやかしの皆様と、分け隔てなく言葉を交わしたい。仲良くなりたいのです」
群衆のざわめきは増すばかりだ。
どこからか罵倒も聞こえてくる。
しかしそれを意にも介さず、みつは飛び交う言葉を正面から受け止める。
(不思議。旦那様のお顔を見たら、何も怖くなくなった)
みつは押し寄せる悪意と偏見の塊へ、一歩一歩歩み寄っていく。
先へと踏み出すたびに、強い拒絶の念を感じる。けれど止まらない。
やがて野次を飛ばしていた者たちの目の前までたどり着くと、柔らかな笑みを向けてその場にかがみ込んだ。
低くなった目線の先にいるのは、短い角の生えた一つ目の少女。地面に両足を投げ出し、力なく座っている。
彼女はひどく怯えた表情でぎゅっと目をつむり、身を守るように頭を抱えた。
「怪我をしてらっしゃるのですね……痛いですよね。少しだけ見せていただけますか?」
少女の足にはさらしが巻かれているが、緑色の血が滲み、大きなシミを作っていた。
萎縮した様子でガタガタと震える少女は大粒の涙をこぼしている。
傍らに立つ母らしき女が、少女を横から抱き抱えるようにして、お許しくださいと懇願する。
「ごめんなさい、すぐ終わりますので。力を抜いていてください」
みつは優しく丁寧な手付きで、少女に巻かれたさらしを巻き取っていく。
やがてあらわれた傷口はひどい悪臭を放っていた。
足の甲から膝下までが大きく裂けている。まともな手当てすらできず不衛生な環境なのだろう、歩行も困難になるほどの重症だ。
みつは懐から印籠を取り出し、中に詰めておいた塗り薬を傷口に優しく塗り込んでいく。嵬族の秘薬である。
「うっ……」
少女は一瞬顔を歪めたが、やがてぽかんと口を開き、驚いたようにみつを見上げた。
「痛くない……なんで?」
「傷によく効くお薬です。明日には元気になると思うので、今日は安静にしていてくださいね」
みつがふわりと笑顔を見せると、少女はぽろぽろと涙をこぼしながら笑ってくれた。
傍らの母親は、何度も礼を述べながら平伏している。
みつは少女の頭を撫で、母親の肩を優しく叩くと、立ち上がって群衆へと呼びかける。
「嵬屋敷には、傷病に効くお薬が数多くございます。これよりは私が、毎日都まで下りて参ります。お怪我や病気で悩んでらっしゃる方は、遠慮なく頼ってくださいませ」
いいですよね? と磨徒の方を振り返れば、笑顔で頷いてくれた。
みつもぱっと笑顔になる。
自分にできることは何かを常に考えていたみつにとって、わずかに道が開けた瞬間だった。
あやかしの都の医療技術は絶望的に発展がなく、怪我や病気への対処は気休め程度の薬草や、効果のあやしい祈祷が主だと聞く。
妖力を込めて精製される嵬族の秘薬には絶大な効果があることを、みつは身をもって知っている。
嵬族のみが独占しているのはもったいない。民と共有すべきだと思ったのだ。
「……あの、本当にいい薬があるのですか? うちのおっ母も病気なのですが……」
「うちの子も診てくだせぇ! 家で臥せってるんです!」
「私も腕の骨を折ってしまって……! 効く薬はありますか?」
みるみるうちに、みつは助けを求めるあやかしの波にのまれてしまう。
多くの者が藁にもすがる思いで生きているのだろう。各々が切羽詰まった表情をしている。
「皆、今日のところは我慢してもらえないか。明日また、みつに診てもらうといい」
磨徒は群衆にもみくちゃにされているみつの手を引き保護すると、治療を懇願していたあやかし達一人一人の目を見ながら穏やかに諭していく。
「明日また、都に下りて参ります。場所は……どこにいたしましょう?」
みつが首をかしげながら磨徒を見上げれば、すぐさま返答があった。
「都の中心部に嵬族の別邸がある。そこを使ってくれ」
「承知致しました……手当てをお望みの皆様、明日は嵬族の別邸までお越しください!」
笑顔で周囲を見渡すみつの耳に届くのは、感謝の声だった。中には拝みながら涙を流している者もいる。
体を壊し弱りきっている者も少なくないあやかしの都では、医術問題の改善は急務だ。
みつが関わることによって、磨徒だけでは手の回らなかった部分に光を当てることができる。
これは大きな一歩である。
いつしか野次馬は姿を消し、陰口と罵倒の一切が聞こえなくなった。
静かになった水路の脇で、磨徒はそっとみつを抱きよせ、耳元に口をよせて囁く。
「みつ、お前が誇らしい。自慢の妻だ」
「あ、ありがとうございます……! 私の方こそ、磨徒様は自慢の旦那様です」
顔を背けながら頭をかく那岐と、目のやり場に困って俯く流花の二人をよそに、夫婦の包容はしばし続いた。
「一同、顔を上げてくれ。立ち上がり、目線を合わせて聞いてほしい。今後は嵬族の頭領に対し、過度にへりくだる必要はない。私を同胞として受け入れてもらいたい。我らあやかしは家族。一枚岩を目指してゆく。先代の治世に失望した者も少なくないだろうが、この私が力を尽くし、皆に捧げることを誓おう。揺るぎなき安寧の世を」
そう呼びかけると長い沈黙をはさみ、わずかに場がざわめき出した。
へりくだる必要はない? 安寧の世をつくる?
信じられない出まかせだと、声をひそめて民衆が囁く。
それもそうだろう、にわかには信じがたい発言だ。
あやかしの世は厳しい階級社会であり、平民はただ平伏し、服従を誓うのが当たり前だったはずだ。みつが幕府から教わった話ではそうだった。数百年変わらぬ主従関係が存在すると。
にも関わらず、磨徒は言葉ひとつで長く続いてきた従属関係を緩和しようとしている──。
みつはその揺るがぬ意思と決断力に心打たれた。
初夜に二人で語り合った彼の理想と目標は今、形となって世に放たれたのだ。
妥協なき実行。磨徒は本気で世界を変えようと動いている。
心ない言葉に打ち負かされそうだったみつの意識は、沸騰するかのごとく熱く奮い立った。
民たちは困惑した様子でざわざわと言葉を交わしているが、皆が腰を上げるのを待つようにその場を動かない磨徒を見て、一人また一人と立ち上がっていく。
そうして大半の民が背筋を伸ばしたところで、磨徒はふたたび彼らに語りかけた。
「半月前に出したお触れを思い出してほしい。張り出した事柄は二つ。一つはあやかしの都の治安維持や生活水準の引き上げを目指す旨について。もう一つは、人間との関わりに関する事柄だ──人間及び人間の血を引く者に危害を加えた者は死罪、迫害や差別行為もまた罪とし、相応に裁くといった内容だった。俺は、人間とあやかしが共生できる世を目指している」
共生という言葉に、ふたたび群衆は大きくざわめいた。
できるわけがないと誰もが思っただろうが、口に出す者はいなかった。
「みつ、隣へ来てくれ」
磨徒は、神妙な面持ちのまま話に耳を傾けていたみつに手招きをする。
みつは磨徒から声をかけられたことにより背筋が伸び、凛とした表情で彼の隣へと歩み出た。
そんなみつの背に手を回し、磨徒は声を張り上げる。
「紹介しよう、妻のみつだ。我ら夫婦が模範となり、証明する。人間とあやかしは手をとりあって生きていくことができると」
語り終えると同時に、磨徒はみつからも言葉をかけるよう促した。
大きく息を吸い、決意の眼差しで群衆を見渡したみつは、ひるむことなく高らかに宣言する。
「お初にお目にかかります。磨徒様の妻、みつと申します。私は人間とあやかしの間に、偏見と差別という垣根のない世を作りたく思っております。あやかしの皆様と、分け隔てなく言葉を交わしたい。仲良くなりたいのです」
群衆のざわめきは増すばかりだ。
どこからか罵倒も聞こえてくる。
しかしそれを意にも介さず、みつは飛び交う言葉を正面から受け止める。
(不思議。旦那様のお顔を見たら、何も怖くなくなった)
みつは押し寄せる悪意と偏見の塊へ、一歩一歩歩み寄っていく。
先へと踏み出すたびに、強い拒絶の念を感じる。けれど止まらない。
やがて野次を飛ばしていた者たちの目の前までたどり着くと、柔らかな笑みを向けてその場にかがみ込んだ。
低くなった目線の先にいるのは、短い角の生えた一つ目の少女。地面に両足を投げ出し、力なく座っている。
彼女はひどく怯えた表情でぎゅっと目をつむり、身を守るように頭を抱えた。
「怪我をしてらっしゃるのですね……痛いですよね。少しだけ見せていただけますか?」
少女の足にはさらしが巻かれているが、緑色の血が滲み、大きなシミを作っていた。
萎縮した様子でガタガタと震える少女は大粒の涙をこぼしている。
傍らに立つ母らしき女が、少女を横から抱き抱えるようにして、お許しくださいと懇願する。
「ごめんなさい、すぐ終わりますので。力を抜いていてください」
みつは優しく丁寧な手付きで、少女に巻かれたさらしを巻き取っていく。
やがてあらわれた傷口はひどい悪臭を放っていた。
足の甲から膝下までが大きく裂けている。まともな手当てすらできず不衛生な環境なのだろう、歩行も困難になるほどの重症だ。
みつは懐から印籠を取り出し、中に詰めておいた塗り薬を傷口に優しく塗り込んでいく。嵬族の秘薬である。
「うっ……」
少女は一瞬顔を歪めたが、やがてぽかんと口を開き、驚いたようにみつを見上げた。
「痛くない……なんで?」
「傷によく効くお薬です。明日には元気になると思うので、今日は安静にしていてくださいね」
みつがふわりと笑顔を見せると、少女はぽろぽろと涙をこぼしながら笑ってくれた。
傍らの母親は、何度も礼を述べながら平伏している。
みつは少女の頭を撫で、母親の肩を優しく叩くと、立ち上がって群衆へと呼びかける。
「嵬屋敷には、傷病に効くお薬が数多くございます。これよりは私が、毎日都まで下りて参ります。お怪我や病気で悩んでらっしゃる方は、遠慮なく頼ってくださいませ」
いいですよね? と磨徒の方を振り返れば、笑顔で頷いてくれた。
みつもぱっと笑顔になる。
自分にできることは何かを常に考えていたみつにとって、わずかに道が開けた瞬間だった。
あやかしの都の医療技術は絶望的に発展がなく、怪我や病気への対処は気休め程度の薬草や、効果のあやしい祈祷が主だと聞く。
妖力を込めて精製される嵬族の秘薬には絶大な効果があることを、みつは身をもって知っている。
嵬族のみが独占しているのはもったいない。民と共有すべきだと思ったのだ。
「……あの、本当にいい薬があるのですか? うちのおっ母も病気なのですが……」
「うちの子も診てくだせぇ! 家で臥せってるんです!」
「私も腕の骨を折ってしまって……! 効く薬はありますか?」
みるみるうちに、みつは助けを求めるあやかしの波にのまれてしまう。
多くの者が藁にもすがる思いで生きているのだろう。各々が切羽詰まった表情をしている。
「皆、今日のところは我慢してもらえないか。明日また、みつに診てもらうといい」
磨徒は群衆にもみくちゃにされているみつの手を引き保護すると、治療を懇願していたあやかし達一人一人の目を見ながら穏やかに諭していく。
「明日また、都に下りて参ります。場所は……どこにいたしましょう?」
みつが首をかしげながら磨徒を見上げれば、すぐさま返答があった。
「都の中心部に嵬族の別邸がある。そこを使ってくれ」
「承知致しました……手当てをお望みの皆様、明日は嵬族の別邸までお越しください!」
笑顔で周囲を見渡すみつの耳に届くのは、感謝の声だった。中には拝みながら涙を流している者もいる。
体を壊し弱りきっている者も少なくないあやかしの都では、医術問題の改善は急務だ。
みつが関わることによって、磨徒だけでは手の回らなかった部分に光を当てることができる。
これは大きな一歩である。
いつしか野次馬は姿を消し、陰口と罵倒の一切が聞こえなくなった。
静かになった水路の脇で、磨徒はそっとみつを抱きよせ、耳元に口をよせて囁く。
「みつ、お前が誇らしい。自慢の妻だ」
「あ、ありがとうございます……! 私の方こそ、磨徒様は自慢の旦那様です」
顔を背けながら頭をかく那岐と、目のやり場に困って俯く流花の二人をよそに、夫婦の包容はしばし続いた。
