今宵は朔夜の屋敷に宿を借りることとなり、遅い時間ではあるが軽く食事をとって、みつと磨徒は部屋へと通された。
広い座敷の中央に、布団が二組敷かれている。
「ふああ……旦那様、本日はお疲れ様でございました。わたし、こんなに密度のある一日を過ごしたのは初めてです」
二人きりになった瞬間に力の抜けきったみつが、畳の上にへたり込む。
体力気力ともに限界だった。もう一歩も動けそうにない。
「無理をさせてしまったな、すまない。さあ、布団に入ろう」
畳の上でそのまま眠ってしまいそうなみつの姿に笑みをもらすと、磨徒はみつの背中と膝下に手を回し、軽々と抱き抱えた。
そうしてゆっくりと布団の上に横たえる。自然と、磨徒が覆い被さるような形になった。
二人の視線が交わる。互いの顔が間近にあり、息づかいも聞こえてくる。
みつの鼓動が甘く跳ね上がり、ただでさえ思考力の落ちた脳は溶け落ちそうだった。
(私は、旦那様に不義理をしている……)
いつしかうっすらと付きまとっていた暗い感情が、胸の奥でざわざわと音を立てる。
今日一日磨徒と行動を共にし、そして彼の思いを聞いて、もっともっと寄り添いたいと思った。一番の理解者でありたいと思った。
月鬼の面影を抱きながら嫁いだ身である自分が、そんなことを思うなんておこがましいのかもしれない。
けれど、このままでは嫌だと思った。変わりたいと思ったのだ。
磨徒の優しさが好きだ。まっすぐな心根が好きだ。もっと磨徒のことを知りたい。
押し寄せる無数の感情に胸がしめつけられ、みつはぽろぽろと涙をこぼした。
「みつ、どうした? どこか痛むか?」
「いいえ、違います。ごめんなさい、私……」
心配そうに顔を覗き込んでくる磨徒のことを、直視できない。
泣き顔を見られるのが恥ずかしくて、みつは両手で顔を覆いながら嗚咽をもらす。
ただただ困惑した様子で言葉に詰まる磨徒は、ぎこちない手つきでみつの頭に触れた。そうしてそっと、あやすように撫でる。
「旦那様の力になりたい……もっともっと寄り添いたい、心の支えになりたいです」
「充分支えてもらっている。ここまでしてもらって、俺は果報者だ」
「私、妻として全然何もできていなくて──」
「そんなことはない、泣かないでくれ。俺はお前といる時間が何より幸せだ」
みつは、顔を覆っていた手を恐る恐るはずしてみる。
目の前にある磨徒の顔は、困ったように、切なそうに笑っていた。
「旦那様……」
みつはねだるように、磨徒を見上げて両手を広げる。
ただふれ合いたかった。抱き締めてほしかった。
「みつ……」
磨徒はぎゅっと優しい手つきで、みつを腕の中におさめた。
何気ない所作から、己がどれだけ丁重に扱われているのか伝わってきて、みつの心ははちきれんばかりに満たされる。
昼間。詛獣を前にして戦意をむき出しにし、何者も寄せ付けない圧倒的な力をもってすべてを蹂躙したあやかしの王──そんな磨徒が、今は壊れ物を扱うような手付きで、自分だけを見つめてくれる。
昼と夜の顔がまるで違う磨徒。このことを知るのは自分だけなのだろうと……そう感じるたびに、壊れそうなほどに胸の鼓動が脈打つのを感じる。
(ああ、私は……旦那様のことが好きなんだ)
みつは頬を赤らめながら、しかし幸福にあふれた表情で磨徒の背中へと手を回した。
密着し互いの体温を感じていると、胸の奥から愛おしさが溢れだしてくる。
もっと触れ合いたい。もっと旦那様に近づきたい。
みつの中で磨徒の存在が大きく膨れ上がり、今この時、最愛の存在だった月鬼の気配は影をひそめていた。
「あの、その……旦那様」
「ん、どうした?」
磨徒がわずかに顔を上げると、二人の視線は交わった。
みつは顔を真っ赤にして目をうるませながら、おずおずと言葉を発する。
「妻としての責を果たしたいです」
「……責?」
「……ですからその……あの……子を、授けてくださいませ」
磨徒は目を見開いて、わずかにその身を震わせた。
驚いただろうか、はしたない申し出だっただろうかと、みつは不安になり身がすくむ思いだ。
けれど、ようやく妻としての立場を自覚できたのだ。親愛の情を伝えずにはいられなかった。
磨徒はしばし考えこむ様子を見せたあと、眉間に皺を寄せ苦しげに目をつむった。
「……俺は、月鬼の代わりにはなれない」
「代わりを求めているわけではありません……! 私は今、他の誰でもなく磨徒様を見ています……ですから……」
「お前に無理はさせたくない、世継ぎのことは心配するな。さぁ、今夜はもう寝よう」
みつの体をそっと引き剥がし、磨徒は布団に身を潜らせた。
みつに背を向ける形だ。まるでこれ以上の対話を拒絶するかのような姿勢に、みつはそっと顔を覆って涙をこぼした。
磨徒の気持ちが分からないわけではない。
きっと磨徒も葛藤している。そんなことは考えるまでもなく理解できる。みつは身を裂かれるような罪悪感に全身を揺さぶられた。
(私が月鬼様のことばかり話していたからだ……旦那様の気持ちも考えずに、隠すこともせず月鬼様に対する愛ばかりを語り、知らぬ間に夫婦の関係にヒビを入れていた……)
後悔しても遅い。
磨徒の中で、己は愛を向ける対象ではなく、共に目標に向かう仲間に過ぎないのだろうと。
そう納得しながら、ただただ布団の中でとめどなく流れる涙をぬぐっていた。
不義理をはたらいてごめんなさい。
気持ちを踏みにじってごめんなさい。
当たり前のような顔をしながら、なんて酷な仕打ちを続けていたのだろう。
みつは己の行いを猛省し、心の中で磨徒にひれ伏しながら何度も謝罪の言葉を繰り返した。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
修復不可能かもしれない夫婦の溝。
ただただその狭間に心を漂わせながら、悲痛な涙に濡れるみつの夜は更けていくのだった──。
広い座敷の中央に、布団が二組敷かれている。
「ふああ……旦那様、本日はお疲れ様でございました。わたし、こんなに密度のある一日を過ごしたのは初めてです」
二人きりになった瞬間に力の抜けきったみつが、畳の上にへたり込む。
体力気力ともに限界だった。もう一歩も動けそうにない。
「無理をさせてしまったな、すまない。さあ、布団に入ろう」
畳の上でそのまま眠ってしまいそうなみつの姿に笑みをもらすと、磨徒はみつの背中と膝下に手を回し、軽々と抱き抱えた。
そうしてゆっくりと布団の上に横たえる。自然と、磨徒が覆い被さるような形になった。
二人の視線が交わる。互いの顔が間近にあり、息づかいも聞こえてくる。
みつの鼓動が甘く跳ね上がり、ただでさえ思考力の落ちた脳は溶け落ちそうだった。
(私は、旦那様に不義理をしている……)
いつしかうっすらと付きまとっていた暗い感情が、胸の奥でざわざわと音を立てる。
今日一日磨徒と行動を共にし、そして彼の思いを聞いて、もっともっと寄り添いたいと思った。一番の理解者でありたいと思った。
月鬼の面影を抱きながら嫁いだ身である自分が、そんなことを思うなんておこがましいのかもしれない。
けれど、このままでは嫌だと思った。変わりたいと思ったのだ。
磨徒の優しさが好きだ。まっすぐな心根が好きだ。もっと磨徒のことを知りたい。
押し寄せる無数の感情に胸がしめつけられ、みつはぽろぽろと涙をこぼした。
「みつ、どうした? どこか痛むか?」
「いいえ、違います。ごめんなさい、私……」
心配そうに顔を覗き込んでくる磨徒のことを、直視できない。
泣き顔を見られるのが恥ずかしくて、みつは両手で顔を覆いながら嗚咽をもらす。
ただただ困惑した様子で言葉に詰まる磨徒は、ぎこちない手つきでみつの頭に触れた。そうしてそっと、あやすように撫でる。
「旦那様の力になりたい……もっともっと寄り添いたい、心の支えになりたいです」
「充分支えてもらっている。ここまでしてもらって、俺は果報者だ」
「私、妻として全然何もできていなくて──」
「そんなことはない、泣かないでくれ。俺はお前といる時間が何より幸せだ」
みつは、顔を覆っていた手を恐る恐るはずしてみる。
目の前にある磨徒の顔は、困ったように、切なそうに笑っていた。
「旦那様……」
みつはねだるように、磨徒を見上げて両手を広げる。
ただふれ合いたかった。抱き締めてほしかった。
「みつ……」
磨徒はぎゅっと優しい手つきで、みつを腕の中におさめた。
何気ない所作から、己がどれだけ丁重に扱われているのか伝わってきて、みつの心ははちきれんばかりに満たされる。
昼間。詛獣を前にして戦意をむき出しにし、何者も寄せ付けない圧倒的な力をもってすべてを蹂躙したあやかしの王──そんな磨徒が、今は壊れ物を扱うような手付きで、自分だけを見つめてくれる。
昼と夜の顔がまるで違う磨徒。このことを知るのは自分だけなのだろうと……そう感じるたびに、壊れそうなほどに胸の鼓動が脈打つのを感じる。
(ああ、私は……旦那様のことが好きなんだ)
みつは頬を赤らめながら、しかし幸福にあふれた表情で磨徒の背中へと手を回した。
密着し互いの体温を感じていると、胸の奥から愛おしさが溢れだしてくる。
もっと触れ合いたい。もっと旦那様に近づきたい。
みつの中で磨徒の存在が大きく膨れ上がり、今この時、最愛の存在だった月鬼の気配は影をひそめていた。
「あの、その……旦那様」
「ん、どうした?」
磨徒がわずかに顔を上げると、二人の視線は交わった。
みつは顔を真っ赤にして目をうるませながら、おずおずと言葉を発する。
「妻としての責を果たしたいです」
「……責?」
「……ですからその……あの……子を、授けてくださいませ」
磨徒は目を見開いて、わずかにその身を震わせた。
驚いただろうか、はしたない申し出だっただろうかと、みつは不安になり身がすくむ思いだ。
けれど、ようやく妻としての立場を自覚できたのだ。親愛の情を伝えずにはいられなかった。
磨徒はしばし考えこむ様子を見せたあと、眉間に皺を寄せ苦しげに目をつむった。
「……俺は、月鬼の代わりにはなれない」
「代わりを求めているわけではありません……! 私は今、他の誰でもなく磨徒様を見ています……ですから……」
「お前に無理はさせたくない、世継ぎのことは心配するな。さぁ、今夜はもう寝よう」
みつの体をそっと引き剥がし、磨徒は布団に身を潜らせた。
みつに背を向ける形だ。まるでこれ以上の対話を拒絶するかのような姿勢に、みつはそっと顔を覆って涙をこぼした。
磨徒の気持ちが分からないわけではない。
きっと磨徒も葛藤している。そんなことは考えるまでもなく理解できる。みつは身を裂かれるような罪悪感に全身を揺さぶられた。
(私が月鬼様のことばかり話していたからだ……旦那様の気持ちも考えずに、隠すこともせず月鬼様に対する愛ばかりを語り、知らぬ間に夫婦の関係にヒビを入れていた……)
後悔しても遅い。
磨徒の中で、己は愛を向ける対象ではなく、共に目標に向かう仲間に過ぎないのだろうと。
そう納得しながら、ただただ布団の中でとめどなく流れる涙をぬぐっていた。
不義理をはたらいてごめんなさい。
気持ちを踏みにじってごめんなさい。
当たり前のような顔をしながら、なんて酷な仕打ちを続けていたのだろう。
みつは己の行いを猛省し、心の中で磨徒にひれ伏しながら何度も謝罪の言葉を繰り返した。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
修復不可能かもしれない夫婦の溝。
ただただその狭間に心を漂わせながら、悲痛な涙に濡れるみつの夜は更けていくのだった──。
