愛って呼んでいい?

 それからというもの、おれの高校生活の形は決まった。

 昼休みのチャイムが鳴れば二年生の教室へ猛ダッシュ。
 水曜の放課後は、うさぎ小屋で愛先輩を拝む。

 以上。おれの新しい「日常」、完成。

 最初は教室の入り口で「愛先輩!」って呼ぶだけで、クラス中がフリーズしてたけど。
 最近じゃ、おれが廊下に立っただけで、二年三組の人たちがニヤニヤし始める。

 「おーい明宮、また来たぞ、例の赤ちゃん」

 ……赤ちゃんじゃない。十五歳。
 身長だって一七八センチある。
 ……まあ、いいけど。愛先輩に会えるなら、おしゃぶりくらいくわえてやる。

 「お前、本当に毎日来るのな」

 「おれに会いたかったですか?」

 「ポジティブすぎるだろ」

 愛先輩は呆れたみたいに、ため息をつく。
 でも、手はちゃんと隣の椅子を引いてる。これがツンデレってやつか?

 「愛先輩、暇ですか?」

 「暇じゃねーよ。英単語のテストあるんだよ」

 「おれが持っててあげます。はい、せーの」

 「二年の単語、お前にはまだ早い。返せ」

 「りぴーと・あふたー・みー?」

 「……っ、やめろ。お前に言わせたら幼児英会話にしか聞こえねーよ」

 そう言いながら、愛先輩は笑うのをこらえて単語帳を預けてくれる。
 愛先輩と同じクラスになれたみたいで、うれしい。

 「愛先輩、今日は卵焼き交換しませんか」

 愛先輩はだいたいパンだけど、たまにお弁当の日がある。
 おれん家の卵焼きは甘め。じゃあ、愛先輩のはどうなんだろう。

 「俺、もう一口食ってるから」

 「むしろそれがいいです」

 「……わかったから。さっさと食え」

 ちょっと照れたように笑う、愛先輩。
 それを見るのが、おれは何より好き。
 だって、おれにとって、愛先輩は「特別」だから。

 そんなやり取りを毎日繰り返した。


 けれど、ある日の昼休み。

 「明宮、お前さ、その一年と付き合ってんの?」

 愛先輩のクラスの男子が、軽いノリで笑いながら言った。
 付き合ってる? おれと、愛先輩が?
 意味がよくわからなくて、首を傾げる。

 「……は?」

 その瞬間、愛先輩が一瞬だけ黙った。
 いつもなら「バカ言え」って秒で流すはずなのに。

 その言葉が出てこない。
 ほんの一瞬だけ、空気が止まる。

 「……ただ、面倒見てるだけ」

 少しの沈黙。
 愛先輩はいつもと同じようにそう言って、おれの頭に手を置いた。

 ……なんか、固い。

 いつもと同じはずの手のひらが、ほんの少しだけ強張ってる気がした。

 『面倒見てるだけ』

 その言葉が、ささくれみたいに胸の奥にひっかかる。
 でも、その時のおれには、あの一瞬の間が何だったのか、まだ全然わかってなかった。

 というか、おれたち、思ってたよりずっと目立ってたらしい。
 もともと有名人な愛先輩に、名前だけいかついベビーフェイスのおれ。
 セットでいると、周囲の注目度はさらに跳ね上がったみたいだ。

 「あ、今日も来た。龍之介くんだっけ? 本当に可愛い顔してるよね」
 「ねえ、これお菓子あげる。食べる?」

 気づけば、愛先輩のクラスの人たちが話しかけてくるようになってた。
 二年生の先輩たちはみんなノリが良くて、おれをマスコットか何かだと思ってる。

 「あ、ありがとうございます」

 チョコとかグミを受け取る。
 でも、おれの視線はいつも、「こいつを餌付けすんな」ってめちゃくちゃ不機嫌そうな愛先輩だけに向いてる。

 もらったお菓子は、結局食べるのを忘れてポケットや机の奥に溜まっていく。
 だって、おれは、目の前の愛先輩を追いかけるだけで、いつだって手一杯だから。


 そんなある日の、昼休み。
 いつものように、二年三組のドアを開けた。

 「愛先輩!」

 呼んだ瞬間、先輩の肩がぴくん、と跳ねた。
 なのに、こっちを見ない。
 窓際で、じっとスマホを眺めてる。

 「愛先輩?」

 もう一度、近づいて呼んでみる。
 スマホの画面は全然動いてないのに、指先だけがススス、と滑ってる。

 周りが
 「お、今日は明宮サンご機嫌ななめか?」
 なんて野次を飛ばすけど、それどころじゃない。

 しばらくして、愛先輩はようやく顔を上げた。
 でも、その目。いつもの優しさが一ミリもない。なんか、トゲトゲしてる。

 「……来いよ」

 短く、それだけ。
 おれはとりあえず、いつものように隣に座った。

 ……けど。今日は、絶対におかしい。
 お弁当を広げても、愛先輩は一言も喋らない。
 いつもなら「野菜食え」とか「また怪我してねーだろうな」とか、口うるいくらい構ってくれるのに。

 「あの……愛先輩。今日、タコさんウインナーなんです。一個、いりませんか」

 「……あー、ごめん。今日は、いい」

 突き放すわけじゃない。でも、いつもと違う。明らかに壁がある。
 おれの箸が、空中で止まった。

 「……愛先輩?」

 「なに」

 「おれ、何かしましたか?」

 覗き込んでも、愛先輩は一瞬こっちを見て、すぐに視線を逸らした。

 「別に……なんでもない。ちょっと、寝不足なだけ」

 「大丈夫ですか? 食べないと倒れますよ」

 「……んー」

 生返事。
 昨日まであんなに笑ってたのに。

 おれが固まってると、近くの先輩たちが「龍之介くん、今日も可愛いね」「これ、お菓子」って笑って寄ってきた。
 いつもなら「こいつに構うな」って愛先輩が割って入るのに。
 今日の愛先輩は、何も言わない。
 ただ、不自然なくらい静かに、スマホに目を向けてる。

 ……やっぱり、迷惑だったんだ。

 毎日毎日、一年のおれが教室まで押しかけて。
 下の名前で呼んで、ベタベタして。
 愛先輩は優しいから、断れなかっただけで。

 『お前だから放っておけない』

 あの言葉を鵜呑みにして、おれは愛先輩の時間を奪ってただけなんだ。
 男のおれに「好き」って何度も言われて、いい加減、気持ち悪くなったのかも。

 「……愛先輩」

 「ん?」

 「すみませんでした。おれ、邪魔ばっかして」

 「……は?」

 愛先輩が驚いたように顔を上げた。
 でも、もうその瞳を見るのが怖い。

 「……もう行きますね」

 食べかけの弁当を無理やりねじ込んで、教室を飛び出す。

 後ろで愛先輩が呼んだ気がしたけど、廊下を走る足音でかき消した。

 胸の奥が、ぎゅううって雑巾みたいに絞られる。
 寂しい。
 けど、愛先輩に「嫌い」って言われるのは、それよりも何万倍も怖い。

 おれ、バカだ。……調子に乗ってたんだ、きっと。

 廊下を走りながら、視界がじわっと滲んだ。