愛って呼んでいい?

 六限終了のチャイムが鳴り終わる前に、おれは体育館から更衣室へ猛ダッシュした。

 なんで今日に限って、最後が体育なんだよ。

 普段なら「だるー」とか言ってダラダラ着替えるところだけど、今は一秒でも惜しい。
 焦るほど指が動かなくて、ネクタイは結ぶのを諦めてポケットに突っ込んだ。

 早く、早くうさぎ小屋に行かなきゃ。

 一昨日までは、うさぎをモフモフすることしか考えてなかったのに。
 今は、うさぎの何万倍も、愛先輩に会いたい。

 肩で息をしながらうさぎ小屋に駆け寄ると、そこにはもう、見慣れた背中があった。

 おれの、大好きな愛先輩。

 「……あ、愛先輩! 遅くなって、すみませ――」

 「お前、それどうした?」

 謝るおれの言葉を遮って、愛先輩が怪訝そうな顔で覗き込んできた。
 おれより高い背を少しかがめて、じっと顔を見てくる。

 近い。イケメンのどアップ。
 かっこいい。ちょっと、息、止まりそう。

 「…………ん?」

 「『ん?』じゃないだろ。ここ」

 指で、頬を指される。

 「昼休み、そんなのなかったよな。まさか俺がつねったやつ?」

 余裕たっぷりだったはずの愛先輩が、少し焦ってる。これは、珍しい。

 「んー……たしか、」

 あ、思い出した。六限のバスケ。
 よりによってジャージを忘れて、半袖で。

 愛先輩に言えば、貸してくれたかな。

 学年でジャージの色は違う。愛先輩は紺色で、おれは青。
 でも色が似てるから、ごまかせたかも。

 愛先輩のジャージを着たおれ、最高じゃん。
 なんて、妄想にふけってぼーっとしてたら。

 飛んできたボールを顔面キャッチ。

 ……うん、それだ。
 普段ならすぐ忘れるくせに、愛先輩が絡むとおれの記憶力すごいな。
 愛先輩とテスト勉強とかしたらおれ、武装できるんじゃないか?
 
 「たしかって……。お前、もっと自分を大事にしろよ」

 愛先輩が呆れたように、でもさっきより少し安心したみたいに、ため息をついた。

 「たいしたことないと思ってたんですけど」

 「痛いだろ、これ。腫れてるし、内出血もしてる。……ちょっと待ってろ」

 ボールが当たったときは、確かに「あ、痛」って思った。
 でも、おれの頭はそれどころじゃなくて、愛先輩のことでフル稼働中。
 言われなきゃ、たぶん忘れてた。

 愛先輩はポケットからハンカチを取り出して、近くの水道へ向かう。
 おれはその背中をぼんやり眺める。

 「じっとしてろ。……これで少しはマシになる」

 濡らしたハンカチが、頬に当たる。
 冷たいのに、その奥にある愛先輩の指先は、やっぱり熱い。

 「やばい」

 「何が」

 「すっごい、嬉しいです」

 「は?」

 「愛先輩」

 「なに」

 「おれ、自分のことよく分かんないんで。……代わりに、愛先輩がおれのこと、大事にしてください」

 真っ直ぐ見て言ったら、頬に触れてた手が、ピタッと止まった。

 愛先輩の耳が、昼休みより赤い。
 視線が一瞬だけ泳いで、ハンカチを押し当てる手に、ほんの少しだけ力がこもった。

 「……お前、本当に、……変なやつ」

 冷たいはずなのに、触れられてる場所が、熱い。
 けど、愛先輩は急に視線を逸らすと、パッと手を離した。

 「ほら、さっさとやって帰るぞ。うさぎが腹減らしてる」

 それから、逃げるみたいに掃除用具を掴んだ。
 おれは頬のひんやりした感じをちょっとだけ惜しみながら、慌ててその背中を追いかけた。

 掃除道具に手を伸ばそうとした、そのとき。

 「わ……っ」

 一匹、二匹、三匹……。
 おれの足元が、一瞬でもふもふの毛玉地帯になった。

 「お前、モテすぎだろ。なんだよ、それ」

 餌の袋を抱えた愛先輩が、それを見て呆れたような声を出す。
 ちょっとだけ、不機嫌そうに見えるのは気のせいか?

 「かわいい……」

 たまらず、足元の一匹を抱き上げた。
 膝の上に乗せると、ふわふわで、あったかい。
 頭を撫でたら、うっとり目を細めてくれた。

 「愛先輩、見てください。この子、めちゃくちゃ可愛いです」

 「……分かったから、サボんな。早くやれ」

 ……冷た。
 顔を上げたら、愛先輩はこっちを見ないで、水飲み場の方へ行ってしまった。
 怒らせた? おれ、なんか悪いことした?

 「あ……すみません。ちゃんとやります」

 慌ててうさぎを地面に下ろす。
 もふもふとの別れは惜しいけど、愛先輩が不機嫌なのはもっと困る。

 「……愛先輩。おれ、うさぎにモテても、あんま嬉しくないです」

 「は?可愛いだろ。それが目的で飼育委員になったんじゃないの?」

 「うさぎも好きですけど……。おれ、愛先輩にだけ、モテたいです」

 箒を持ったまま、思ったことがそのまま口から出た。

 愛先輩が、ピタッと動きを止める。
 静まり返った小屋の中に、うさぎが餌をかじる音だけがする。

 まずい。また暴走した。
 今度こそ本当に怒られる――。

 「……お前、そういうこと、誰にでも言ってるわけじゃないんだよな?」

 「言わないです。愛先輩にだけです」

 「おれ、やっぱり愛先輩にとって、ただの手のかかる後輩ですか?」

 手当てしてくれたのも、昼休みに隣を空けてくれたのも。
 おれが早川龍之介だからじゃなくて、ただの危なっかしい一年生だから?

 見上げたら、愛先輩が、小さくため息をついて歩み寄ってきた。
 怒ってる感じじゃない。

 「正直、そうだよ。お前、放っておくとどっかで野垂れ死にそうだし。目が離せない」

 「……やっぱり」

 「でも、」

 おれの持ってる箒に、愛先輩が手を添える。

 「誰にでも面倒見良いほど、俺、優しくないから。……お前だから、放っておけない」

 ――それって。

 「ほら、そこ俺がやるから。お前は日誌書いとけ」

 「いいんですか?」

 「お前が掃除すると、またどっかぶつけるだろ。見てて、ヒヤヒヤするんだよ」

 手が離れる瞬間、指先が微かに触れ合った。

 面倒見がいいだけ。
 危なっかしいだけ。
 それでもいい。

 愛先輩が「お前だから」って言ってくれるなら。
 それで、十分かも。

 オレンジ色に染まる小屋の中で、愛先輩が少しだけ近い。

 昨日より、ちょっとだけ。