愛って呼んでいい?

 ピンポーン。

 聞き慣れたおれん家のインターフォンが、今日はいつもより高く鳴った気がした。
 大急ぎで、玄関へ走る。

 扉を開けると、そこに愛がいた。
 Tシャツにジャケットを羽織っただけの、ラフな格好。
 私服。反則。

 「どうした、そんなに見つめて」

 「ううん。今日もかっこいいなって思ってただけ」

 「……お前、本当にそういうことさらっと言うよな」

 愛が少しだけ照れくさそうに視線を逸らして、おれの頬を軽くつねった。
 指先から、愛の熱が流れ込んでくる。
 またこれだ。肺の空気が全部押し出される感じ。

 季節はもうすぐ四月。
 初めて愛に会ってから、もうすぐ一年経つ。
 おれは二年生に、愛は三年生になる、そんな春休み。

 昨日も会ったばっかりなのに、玄関で向き合うだけで、あの日と同じくらい胸がうるさい。

 「なんか、変な感じ」

 「何がだよ」

 「愛が、おれの家の中にいるの。いつもは、外の暗いところで『おやすみ』ってするだけだったから」

 今まで、何度も家まで送ってもらった。
 おれが「男だから大丈夫」って言っても、「俺が送らせてほしいの」って言って、絶対に玄関の前までついてきた。

 愛の家にお泊まりしたときもそうだった。
 心さんに「手を出したら庭に埋める」って笑顔で脅されたせいもあるかもしれないけど。
 何より愛自身が「大事にしたいから」って言って、最後の一線は絶対に越えようとしなかった。

 そんな愛が、今日はおれの家の中にいる。

 「お邪魔します」

 「うん。ゆっくりしていって」

 おれの後ろをついてくる、愛の足音。
 いつもより少しだけ、慎重に聞こえる。

 「意外と、片付いてんだな」

 「愛が来るから、昨日、お餅仕込みながら掃除したもん」

 「まだその設定引っ張ってんのかよ。……ってか、誰かいないのか? さっきから静かだけど」

 愛がリビングの方を気にしながら、少し声を潜めて聞いてくる。おれは「うん」とだけ答えて、自分の部屋のドアを開けた。

 「うん、って。お前な、ご両親は?」

 「あー。父さんと母さんは、謙信の引っ越しの手伝いに行ってるよ」

 「……謙信?」

 愛が、わけわかんねー、って顔で眉を上げた。

 「うん。おれの兄ちゃん。一八歳で、愛の一つ上。一人暮らし始めるから、みんなでそっちに行ってるの。今日は帰ってこないって」

 おれが丁寧に謙信のスペックを教えたのに。
 愛は部屋の入口に立ったまま、盛大に、深い溜息をついた。

 「……りゅうくん。あのな、お兄さんの名前とか年齢はどうでもいいんだよ。お前の兄貴が謙信だろうが信長だろうが、今はそんなの関係ねーの」

 「信長はいないよ?」

 「わかってるよ! そういうことじゃなくて! ……親御さんもいないなら、それを先に言えって。勝手に上がり込んだら、まずいだろ」

 愛が少しだけ焦ったように、自分の前髪を乱暴にかき上げた。
 どうしてそんなに落ち着かないのか、おれには全然わからない。
 とりあえず「座って」って促して、ベッドに並んで座る。

 「また負けた……」

 対戦格闘ゲーム。
 画面の中で、おれのキャラクターが派手に吹っ飛ぶ。

 愛はやっぱり強い。
 けど、二戦目、三戦目って進むうちに、愛の操作がどんどん雑になっていくのがわかった。

 「愛、いま手加減したでしょ」

 「してねーよ」

 「した。おれ、そんなに弱くないもん」

 「……お前が必死な顔で画面見てるから、つい」

 愛はコントローラーを置いて、抗議するおれから、不自然な隙間を作った。
 おれを避けるみたいに。

 愛の声が、少しだけ低くなる。

 「……りゅうくん。悪いけど、あんま近づかないで」

 「なんで?」

 「…………今のお前と二人きりで、そんな無防備に隣に来られたら、俺の理性が、本気で死ぬ」

 愛の声は低くて、掠れてた。
 おれを大事にしようとして、愛がずっと一人で戦ってくれているのが伝わってきて、胸の奥がじりじりする。

 「愛がおれのこと大切にしてくれてるの、わかってるよ」

 愛の手を握ったら、愛は天を仰いで、熱いため息を吐き出した。

 「……後悔しても知らないからな」

 逃げ場のない声。
 握られた手が、少し震えてる。
 それに気づいた瞬間、おれの心臓も、壊れそうなくらい激しく鳴り始めた。

 「……うん」

 おれが答えた瞬間、愛の瞳がさらに暗くなった。

 「いいんだな? お前のこと、抱いても」

 「……うん」

 返事と同時だった。
 視界が、ぐわんって揺れる。
 気づいたときにはベッドに押し倒されてて、その上を愛の体が覆っている。
 目の前に、愛の顔。近すぎて、呼吸が止まる。

 「愛……っ」

 降ってきたのは、雨みたいなキスの嵐だった。
 額、鼻、頬、それから唇。
 何度も、何度も。
 唇が重なるたびに熱くて、おれの頭の中は一気に真っ白になる。

 愛の手が、おれのシャツのボタンに掛かった。
 震える指先。愛が苦しそうに息を吐く。

 「はぁ……」

 押し倒されたまま、愛を見上げる。
 ふと、胸の奥がちくりとした。
 おれは愛の理想とは違うかもしれない。ヒョロくて、頼りなくて。男の体なんて、抱いても全然、良くないんじゃないかな。

 「……愛?」

 「ん?」

 「おれ、女の子みたいに、かわいくないから……」

 「そんなこと、一ミリも思わねーよ」

 愛がおれの頬を包み込んだ。
 大きな、熱い手のひら。

 「りゅうくんは世界で一番かわいい。俺、りゅうくん以外、抱きたくないから」

 真っ直ぐな言葉に、肺の空気が全部なくなる。
 愛は、おれの首元に顔を埋めたまま、もどかしそうに呟いた。

 「……加減、できるか分かんねぇ」

 愛が、おれの首筋に顔を埋めたまま、もごもごと言った。
 熱い息が、肌に直接当たって、それだけで溶けそうになる。

 「……りゅうくんを、ぐちゃぐちゃにしそうで。……壊しそうで……それが、怖い」

 こんなに大事にしてくれてるのに、愛にはまだストッパーがあるみたいだ。
 怖い、なんて。

 愛に壊されるなら、別にそれでもいいのに。
 っていうか、おれはどうなってもいいから、愛に笑っててほしい。

 ぐちゃぐちゃ、ってなんだろう。
 混ぜられる感じ?
 だったら、あれだ。

 おれは少しだけ考えてから、愛の頬を両手で挟んだ。
 熱い。愛の顔、おれよりずっと熱い。

 「…………それが、怖い」

 おれは少しだけ考えてから、愛の頬を両手で挟んだ。
 熱い。愛の顔、おれより熱い。

 「おれ、スクランブルエッグになる?」

 「………………は?」

 「おれ、……愛になら、料理されてもいいよ」

 大真面目に答えたら、愛が一瞬だけ止まった。
 それから、堪えきれないって感じで、ふっと吹き出した。

 「ははっ……。お前、ほんと……。この状況で、よくそんなこと言えるな」

 折れそうなくらい強く抱きしめられる。
 笑ったあとの吐息が耳元を掠めて、それから――。
 ゆっくり顔を上げた愛の目は、もう迷ってなかった。
 見たこともないくらい真剣な、男の顔。

 「ごめん、龍之介。俺、余裕ないわ」

 甘い「りゅうくん」じゃない。
 低くて、少しだけ苦しそうな「龍之介」って響き。
 おれを大事にしてた愛の自制心が、おれの手で壊れていく。
 それが見れるのは世界でたった一人、おれだけなんだって思ったら、ゾクゾクした。

 「おれ、余裕のない愛も、大好きだよ」

 「…………っ、お前、あんま煽るなよ」

 愛が熱い息を吐きながら、おれの首筋に顔を埋めた。
 次に降ってきたのは、さっきみたいな優しいのじゃなかった。

 首筋を、熱い塊がなぞっていく。
 唇が重なったとき、それはおれを全部食べちゃうみたいな、剥き出しの熱だった。

 「いと――」

 名前を呼ぼうとしたけど、深いキスにすぐ塞がれた。
 シャツの中に愛の大きな手が入ってきて、背中をゆっくりなぞる。
 触れられるたびに、おれの体が自分のもんじゃなくなっていくみたいだ。

 この先どうなるのか、おれにはまだ全然わからない。
 けど、愛の体温も、乱れた呼吸も、心臓の音も。
 全部がすごくて、おれはただ、このまま愛っていう波に飲まれてしまいたいと思った。


 あれから、どれくらいの時間が経ったのか、全然わからなかった。

 愛の胸の中で、おれは生まれたての雛みたいに、その体温にしがみついていた。
 おれの背中を撫でる、愛の大きな手のひら。
 ゆっくり、ゆっくり。
 それが心地よすぎて、おれの意識はもう、半分くらいどこかへ飛んでいきそうだった。

 「……りゅうくん」

 愛が、ちょっと困ったみたいに笑っておれの顔を覗き込んできた。

 「ん?」

 「どうしてくれんの。お前のこと、どんどん好きになるんだけど」

 「おれも、どんどん好きになるよ?」

 おれが当たり前のこととして返したら、愛は「……っ」って息を詰まらせて、おれの首筋に顔を埋めた。

 「俺、自分でも怖いくらい、りゅうくんで頭いっぱいだわ」

 「……おれも、愛でいっぱい」

 「……知ってる。でも、もう止められねーんだよ。これ以上……どうすればいいか分かんねぇ」

 抱きしめる腕に、ぎゅっと力がこもる。
 おれは、その腕の中に顔を埋めたまま、幸せすぎて言葉にならない溜息を吐き出した。

 「おれも……。昨日より今日の方が、ずっと愛のこと好きだよ。明日はもっと、絶対好きになる。……だから、おれも同じだよ」

 「……っ。……ずるいな、お前」

 愛が、折れそうなくらい強くおれを抱きしめた。
 絶対に離さないっていう、愛の「覚悟」が、腕の強さから伝わってくる。

 一年前、初めて愛に「好き」って言ったときは。
 一年後の春休み、愛にこんなにぐちゃぐちゃにされて、こんなに深く、命の一部みたいに愛されるなんて、思ってもみなかった。

 「好きって言ってくれて、ありがとう。……龍之介。一生、大事にするから」

 耳元で聞こえた、真っ直ぐな言葉。
 かっこいい愛が、かっこつけずに、おれだけにくれた誓い。

 あぁ、もう、本当にダメだ。
 おれの脳みそは、もう愛でいっぱいどころか、愛に全部溶かされて、塗りつぶされてる。

 おれは大好きな愛の鼓動を聞きながら、世界一幸せなの眠りに落ちていく。

 いとし。
 ……夢の中でも、きっとおれは何度でもその名前を呼ぶんだろうな。
 おれの「愛」は、いつだって、愛で溢れてるから。