愛って呼んでいい?

 月曜日の朝、鏡の前で自分のじゃないネクタイを結びながら、「よし」と小さく呟いた。
 指先にあたるネクタイの端っこが、ちょっとだけ擦れてる。
 二年生の愛がずっと使ってるから、おれのより、なんだかクタクタで柔らかい。

 修学旅行から愛が帰ってきたあとの、土日の記憶はほとんどない。
 土曜の朝、ベッドで半分溶けていたおれの耳に届いた、あの掠れた声のせいだ。

 『……りゅうくんに会わないと、俺のHPは回復しない。枯れて死ぬ』

 愛が、死んじゃう。
 それは困る。おれが会いに行かないと。
 そんなふうに、切実な声でわがままを言われて、断れるはずがない。

 余裕があって、いつも意地悪くおれを手のひらで転がす愛も好きだけど。
 たまに見せる、余裕がなくて焦る姿や、こうやって甘えてくる愛は、なんだかたまらなく可愛い。
 ……なんて、本人に言ったらまた「生意気」って言われるだろうから、絶対秘密だけど。

 学校の昇降口。
 おれと愛のブレザーは、ようやくそれぞれの持ち主の元へ戻った。
 けれど、ネクタイだけは――。

 「愛、ネクタイ、……このまま、交換したままでもいい?」

 おれのわがままに、愛は優しく目を細めて笑った。

 「いいよ。もっとわがまま言っていいって言っただろ。大事にしてやって」

 愛がそう言うから。それを許してくれるから。
 おれ、本当に調子に乗っちゃいそうだ。

 おそろいのうさぎのキーホルダーと、交換したままのネクタイ。
 おれは愛の「しるし」を身に纏って、幸せな一週間をスタートさせた。


 昼休み。
 今日は愛の教室じゃなく、二人で中庭にやってきた。
 ここは、初めて二人で昼ごはんを食べた思い出の場所。

 あの時からおれ、相当わがままだった気がする。
 愛は買ったパンを全部半分こにしてくれたっけ。

 「あのさ。パン、半分こしたときのこと、覚えてる?」

 「忘れるわけないだろ。りゅうくん、俺が食おうとするやつ全部『そっちがいい!』って言って、奪い取ったもんな」

 「ちがうよ。愛に赤いやつ、あげようと思ったんだよ」

 「嘘つけ。絶対自分が紅ショウガ食べられないだけだろ」

 愛は相変わらずだ。「赤いの」って言っただけで、それが何か分かってしまう。
 おれの思考も、好みも、愛には全部透けて見えているみたいだ。

 あの頃から愛のことが好きだったけど、この気持ちにどんな名前をつけていいか分からなくて。
 愛に「好き」って言っても、「それは違う好きだよ」なんて、大人の顔でいなされていた。
 でも、今ならわかる。
 あの時から、おれの「好き」は、これしかなかったんだ。

 今日はお互いにお弁当。
 ふとした拍子に肩が触れ合う。あの時より、ずっと近い距離。
 おかずを交換しながら食べていると、愛の口元に、珍しく小さな米粒がついているのが見えた。

 「あ、愛。ついてる」

 「え? どこ? 取って」

 愛が顔を近づけてくる。
 おれは指先でそれを摘んで、そのまま、ぱくりと自分の口に放り込んだ。

 「ん。おいしい」

 「……りゅうくん!?」

 愛が、裏返ったような声を上げる。

 「ん?」

 「……『ん?』じゃねーよお前、ほんと何なの。無自覚にそういうことすんなよ」

 愛は顔を覆って、くぐもった声で呻いてる。
 余裕そうに見えるけど、なんだか今の愛、耳まで真っ赤だ。

 おれは箸を止めて、真っ直ぐに愛を見つめた。

 「愛の彼氏」

 「…………は?」

 「彼氏、なんで」

 だって、おれたち、付き合ってるんだし。

 瞬間、愛は回路がショートしたみたいにポカンとして。
 それから、がばっと頭を抱え込んだ。

 「……ちょっと待って。無理」

 掠れた、絞り出すような声。

 「なんで? 二回言ったから?」

 「違う。お前が無理……っ」

 「だめ? 嫌い?」

 不安になって、愛の顔を覗き込む。
 愛は深いため息をついて、ようやく顔を上げた。

 「だめじゃないけど……。……可愛すぎて逮捕! 警察呼ぶぞマジで」

 愛がようやく笑って、おれの額をぴっと弾いた。

 「いいか、金輪際、上目遣い禁止」

 「おれ、結構背高いよ。愛以外、こんなに見上げることないもん」

 「そういう意味じゃねーよ……」

 愛は呆れたように笑って、とびきり甘くおれの髪をくしゃくしゃにした。

 おれだけが、愛をこんなに困らせることができる。
 この無敵の特権を、少しだけ誇らしく思いながら。
 おれは愛の大きな手のひらの温かさに、そのまま、とろけるように身を委ねた。


 「アイス、半分こしねー?」

 放課後、おれと愛は、帰り道にあるコンビニに寄り道をした。
 愛が買ったのは、二つに割れるソーダ味のアイス。
 コンビニの駐車場の隅っこ。人気のない植え込みの縁に、二人で並んで座る。

 パキッ。

 愛がおれの分を割って、はい、と手渡してくれた。

 「こっちの方が大きいよ?」

 「いいよ。りゅうくんがおいしそうに食べてくれるのが、俺は一番うれしいし」

 愛の手が、おれの頭を優しく撫でる。
 愛はいつだって、おれに一番いい方をくれるんだ。

 アイスを頬張ると、冷たさと甘さが一気に広がった。

 「冷たっ……。でも、おいしい」

 「今日、結構暑かったしな」

 愛が笑う。

 「あ、口の端、青くなってる」

 おれの口元を、自分の親指でさっとなぞった。
 愛に触れられると、胸の奥がくすぐったい。

 「愛、甘やかしすぎ」

 ジトっと愛を睨んでみる。

 「そんな顔してもだめ。俺の生きがい奪うなよ」

 結局、愛のこういうさりげない甘やかしに、おれの心臓は簡単に跳ねてしまう。

 愛は自分のアイスを齧りながら、空いた手でおれの頬をむにむにと弄り始めた。
 愛はおれの頬をつねったり、柔らかさを確かめるように触るのが好きだ。

 「なあ、なんでりゅうくんの頬っぺた、こんなにもちもちなの? 赤ちゃんかよ」

 「毎朝付きたてのお餅、ほっぺに仕込んでるから」

 大真面目に答えたら、隣で一瞬、呼吸が止まった。

 「……っ、ぶはっ!」

 こらえきれなくなったみたいに、愛が吹き出す。

 「仕込んでんの? マジで反則。面白さまで兼ね備えてるとか、俺をどうしたいの? 餅って……可愛いすぎだろ」

 くしゃっと崩れた、愛の笑顔。
 それを見ていたら、おれの胸の奥も、春の陽だまりみたいに温かくなった。

 「笑い死ぬ……っ」

 愛はそう言いながら、おれの頬をもう一度、今度は包み込むように撫でた。
 アイスを持っていた愛の指先は冷たいはずなのに。
 触れられた場所から、じわじわと、熱が広がっていく。


 茜色の空が、ゆっくりと燃えるように暮れていく。
 食べ終えたアイスの棒を袋にしまって、しばらく、二人でその光を眺めていた。

 隣にいる愛の横顔。夕日に縁取られて、いつもよりずっと綺麗に見える。
 優しくて、かっこよくて、少し意地悪で。

 ……あぁ。そうか。

 おれの中にあるこの気持ちは、きっと他の誰かが言う「好き」とは重さが違う。
 もっと深くて、名前を付けるのが怖いくらい、大切で。

 「ねえ、愛」

 「ん? なに? また俺の顔に、なんか付いてる?」

 おどけたように笑って、愛がこっちを向く。

 「ちがうよ」

 「……あ。じゃあ何、俺に見惚れた?」

 いつもみたいに余裕たっぷりにからかってくる愛に、「そうだけど、ちがう」って首を振った。

 まっすぐに見つめ返したら、愛の笑みが、ふっと消えた。

 「おれ……愛のこと、特別だって思ってる」

 喉の奥から、やっとの思いで絞り出した。

 「特別に、好き。……でも」

 好き、よりも。もっと、ずっと。
 奥の方にある、別のなにか。

 「……それが何なのか、ずっと分かんなかったんだ」

 他の人の「好き」と同じ、軽いものなんじゃないかって、怖くなったこともあった。
 名前をつけたくても、相応しい言葉が見つからなくて、ずっともどかしくて。
 でも。

 「……ねえ、愛」

 その名前を呼んだ瞬間、視界がじん、と熱くなった。

 「……おれのこの気持ち、(あい)って言うんだね」

 愛(いとし)という、名前。
 その響きをなぞるだけで、心臓が壊れそうなくらい熱く高鳴る。
 答えは、ずっとすぐそばにあった。
 この重くて、あったかい塊の名前は、大好きな、あなたそのものだったんだ。

 「おれ、愛のこと、愛してる」

 言った瞬間、愛の瞳が大きく揺れた。
 言葉を失って、ただおれを見つめている。

 「……龍之介」

 深く、震える声。

 「俺も……。俺も、龍之介のこと、愛してる」

 がしっと肩を引き寄せられた。
 回された腕が、少し震えてる。

 「あの日……『好き』って、言ってくれて……。今も、こうして。必死に言葉探して、伝えてくれて……」

 愛の声が、熱を持って鼓膜を揺らす。
 おれの肩に額を預けたまま、愛が、強く、短く息を吐いた。

 「……ありがとう。本当に」

 余裕たっぷりの年上なんかじゃない。
 そこにいるのは、ただ、おれを愛してくれている、おれの世界で一番特別な人だ。

 「愛、どうしよう……」

 焦って、手を伸ばした。
 だって、愛が今にも泣き出しそうだから。
 泣きそうな愛を見るのは、初めてで。

 でも――

 「……泣くなよ、龍之介」

 愛が、自分の制服の袖口でおれの目元を優しく拭った。

 「……泣いてんのは、お前だろ」

 「え……?」

 言われて、ようやく気づいた。
 視界がずっと、ぐにゃぐにゃに歪んでること。
 頬を伝って、顎のあたりが、変に熱くて濡れていること。

 「愛だって、泣いてるじゃん」

 「俺は泣いてねーよ。……本当、生意気」

 愛がそう呟いて、おれの顎をくいっと持ち上げた。

 おれを呼ぶ愛の声。おれが呼ぶ、愛の名前。
 世界で一番特別なその響きが、もう逃げ場をなくしていた。

 抗う暇なんて、これっぽっちもなくて。

 降ってきたのは、今までで一番深くて、熱いキス。
 唇が重なった瞬間、さっきまでアイスを食べていたはずの口の中が、一気に沸騰したみたいに熱くなった。
 頭の中が真っ白になって、ただ、目の前の体温を離したくないって思った。

 あぁ、そうか。
 愛の隣で、おれはずっと、これを探してたんだ。

 「愛してる」

 重なったその言葉は、おれが言ったのか、愛が言ったのか。
 もう、どうでもいいくらい、混ざり合っていた。