愛って呼んでいい?

 「遅い……」

 愛から聞いていた到着予定時間は、一時間近く過ぎていた。

 学校の周りはもう真っ暗で、街灯がパチパチ鳴ってる。
 愛のブレザーを羽織って、愛のネクタイを締めて、おれは校門の前でずっと立ち尽くしていた。

 愛と離れて過ごした三日間は、果てしなく、永遠に近いほど長かった。
 その間、おれはどうやって息をしていたんだっけ。

 山田先輩や里中先輩から送られてくる、隠し撮りの愛。
 バスの中で爆睡する愛や、寺の階段を気だるげに登る愛。どれもこれも、カメラが壊れるんじゃないかって思うくらい、かっこよすぎた。
 それと、夜の短いビデオ通話。画面越しの低い声。
 それだけを命綱にして、なんとか今日まで生き延びたと言っても過言じゃない。

 おれの肺は、愛という酸素がないと、すぐに動かなくなってしまうみたいだ。

 それなのに。
 スマホを握りしめてメッセージを送るけど、既読すらつかない。
 事故? 誘拐? それともトラブル?
 一度不安になると、おれの脳みそは悪い方へ悪い方へ転がっていく。
 もし、このまま愛が帰ってこなかったら。おれ、愛のブレザー着たまま一生ここで待つことになるのかな。

 プシュー。
 重たい排気音が聞こえた。
 遠くに光るライトが見えて、大型バスがようやく滑り込んできたのは、あれからさらに十分後のこと。
 ドアが開いて、疲れきったような妙にハイテンションな二年生たちが次々と降りてくる。

 その人混みの中に、見慣れた背の高いシルエットを見つけた。

 「……あ!」

 愛だ。
 キョロキョロ周囲を見回していた愛と、目が合った。
 大きなバッグを肩にかけたまま、愛がおれの元へ走ってくる。

 「ごめん、道が混んでて。寝落ちしてメッセージ、気づかなかった。心配させたな」

 おれの頭に置かれた、愛の手。
 あったかい。画面越しじゃなくて、本物の、愛の熱だ。

 「そんなに寂しかったか? 三日ぶりに会った俺、かっこよすぎて声も出ねーの?」

 いつもの、ちょっと意地悪な笑い方。
 おれをからかって楽しそうな、大好きな愛の顔。
 「……ん」って、短く返した。
 返したけど、それ以上、言葉が喉に詰まって出てこない。

 うれしい。寂しかった。無事でよかった。
 いろんな感情がぐちゃぐちゃに混ざって、喉の奥が熱くなる。
 愛の顔を見れば見るほど、視界が、じわじわ滲んでいった。

 「あれ。りゅうくん?」

 愛の戸惑ったような声が聞こえた。
 ドサッ、と大きな音がして、愛が持っていたバッグが地面に落ちる。
 それと同時に、おれの両肩をガシッと掴む。

 「……っ、ごめん、寂しい思いさせて悪かった。俺の方が、何倍も、何十倍も寂しかったから。だから……もう泣くなって、龍之介」

 耳元で、愛の声が震えてる。
 いつもみたいに余裕ぶった意地悪な声じゃない。
 愛の声は驚くほど甘くて、今にも一緒に泣き出しそうに震えていた。

 「あーーーっ!! 明宮が龍之介くん泣かせたーーー!!」
 「一秒で泣かすとかドS! 鬼畜! 悪魔!」

 近くにいた山田先輩と里中先輩が、野次馬根性全開で叫んでる。
 周りも「え、明宮くん後輩いびり?」とか勝手なこと言ってる。
 もう、そんなのどうでもいい。

 「泣かせてねーよ。感動の再会、邪魔すんな」

 愛は、見せつけるみたいに、おれの手を恋人繋ぎでぎゅっと握った。

 「はい、解散解散」

 外野を一蹴して、おれを見つめる瞳。
 それは、先輩たちの隠し撮りよりも、ビデオ通話の画面越しよりも、ずっとずっと深くて、とろとろに甘かった。

 繋がれた手のひらから伝わってくる愛の体温が、おれの心臓を叩く。
 ようやく帰ってきた。おれの、大好きな人。

 「……愛」

 「ん?」

 「おかえりなさい」

 愛は一瞬だけ足を止めて、それから繋いだ手に、痛いくらい力を込めた。

 「……ただいま、龍之介」



 夜の空気はちょっと冷たかったけど、繋いでる愛の手は、びっくりするくらい熱い。
 その熱が伝わってきて、熱が出ちゃいそうだ。

 「約束通り、一緒に帰ろうな」

 愛がおれの手を引いて歩き出す。

 「いつもの分かれ道までで大丈夫だよ。一人で帰れるし」

 本当は、ずっと一緒にいたい。
 でも、愛は大きいバッグを持ってて、三日間も遠くに行ってたんだ。絶対、おれが思ってるよりずっと疲れてる。
 おれを送り届ける体力があるなら、一秒でも早く愛を家のベッドで寝かせてあげたい。

 そう言ったら、愛が急に立ち止まった。

 「りゅうくんのそういう優しいとこ、大好きだけどさ」

 繋いでる手に、ぎゅって力がこもる。

 「俺が、まだりゅうくんと離れたくない。……これ、俺のわがままなんだけど。だめ?」

 愛がおれをじっと見てくる。
 ……わがまま?
 愛がそんなこと言うなんて珍しいし、なんだか今日の愛、いつもより目がトロンとしてて……。
 そんな顔でお願いされたら、断れるわけがない。

 おれが頷いたら、愛は「よし」って嬉しそうに笑って、また歩き出した。

 「お土産も、たくさん買ってきたからな。それに、明日学校休みだから、死ぬほど寝ればいいだろ」

 アスファルトの上で、二人の影がゆらゆら揺れながら並んでる。
 おれは愛にそっとくっついて、ずっと心配だったことを聞いた。

 「愛……あの、修学旅行、ちゃんと楽しかった?」

 「え?」

 「おれ、寂しいとかばっかり言っちゃったから……。先輩たちが送ってくれた写真の愛も、あんま笑ってなかった気がするし。おれのせいかなって」

 愛が楽しめなかったなら、全部おれのせいだ。
 もしそうだったら、どうしよう。
 不安になって愛の顔を覗き込むと、愛は少しだけ空を見上げて、ぼそっと呟いた。

 「あー……まあ、それなりに。景色は綺麗だったし、飯もうまかった。でも……」

 愛は一瞬言葉を切って、繋いでる手にぎゅっと力を込めた。

 「やっぱり、隣にお前がいないとダメだわ。何見ても、何食っても、『あ、これりゅうくんならこう言うだろうな』って、お前のことばっかり考えてた」

 「……おれのこと?」

 「そうだよ。だから、楽しかったけど、半分くらいは早く帰りてぇなーって思ってた。お前がいないと、調子狂う」

 おれのせいで楽しめなかったんじゃなくて、おれがいなかったから。
 愛の言葉は、おれが思っていたよりもずっとストレートで、なんだか胸の奥がくすぐったい。

 「おれも……おれも、ずっと愛のこと考えてたよ」

 「知ってる。さっきも、あんなに泣いてくれたもんな」

 愛がちょっと意地悪く笑うけど、声がすごく……なんていうか、ハチミツみたいに甘い。
 おれが恥ずかしくて下を向いたら、愛の声がもっと近くで聞こえた。

 「いつか、一緒に行こうな。りゅうくんと俺と、二人で」

 「……二人で?」

 「そう。お前が見たいって言った景色、全部俺が隣で見せてやるから。……これからも、ずっと隣にいるんだから。そのくらいの計画、今から立てといてもいいだろ?」

 ずっと隣にいる。
 愛が当たり前みたいに言ったその言葉が、おれの胸の奥に、すとんって落ちた。
 なんだか、さっきよりもずっと、心臓のあたりがポカポカする。

 「うん。……約束だよ。あ、愛。バッグ、半分持とうか?」

 「いい。お前が持ったら、地面に擦るだろ」

 愛がふいっと顔をそらして、バッグをおれから遠ざけるように持ち替えた。
 ……地面に擦るわけ、ないのに。
 おれと愛の身長差は、たったの五センチしかないはずなのに。
 子供扱いして、愛は自分だけ重いものを持とうとする。
 三日間も遠くに行って、絶対疲れてるはずなのに。

 おれのことばっかり甘やかして、一人で守ろうとする愛の嘘が、なんだか無性にじれったくなった。
 おれだって、愛の力になりたいのに。

 「擦らないもん! おれ、もう赤ちゃんじゃないもん!愛、疲れてるんだから、半分貸して」

 一生懸命に言い返したけれど、愛は立ち止まっておれをまじまじと見つめたあと、ふっと噴き出した。

 「……あー、悪い。でもお前、『赤ちゃんじゃない』って自分で言ってて恥ずかしくねーの?」

 「あ……」

 あんなに真剣に愛のことを心配してたのに。
 ……これじゃ、さっきまで泣いてたのと合わせて、本当に赤ちゃんみたいじゃん。
 自分で言ってから、顔が火が出るほど熱くなる。

 「ほら、手。離すなよ、赤ちゃん」

 愛がクスクス笑いながら、繋いだ手をさらに強く握りしめてくる。

 「……赤ちゃんじゃないってば」

 小さく抵抗してみたけど、愛の手のひらがあまりに優しくて、結局そのまま、大人しく愛に引かれて歩き出した。




 「ほら、これ。りゅうくんにお土産」

 公園の横を通りかかったとき、愛が足を止めて、大きなバッグから袋を取り出した。
 中には、ふわふわのタオルと、お菓子がこれでもかってくらい詰め込まれている。
 愛が、あっちこっちのお店で、おれのことを思い出しながらこれを選んでくれたんだ。

 「……こんなにたくさん?」

 「渡したくて、ずっとうずうずしてた」

 そう言って笑う愛を見て、胸の奥がキュッとなる。

 「あと、これ」

 バッグをゴソゴソ探って、差し出してきたのは、小さなうさぎのキーホルダー。
 愛が自分のバッグを指さすと、そこには全く同じうさぎが揺れてる。

 「おそろい?」

 「そう。おそろい。もう絶対、毛玉の抜け毛をお守りにしようなんて思うなよ。こっちの方が百倍効くから」

 「うれしい……。これ、おれの墓に一緒に入れて」

 「縁起でもねーこと言うな。俺より先に死ぬの、絶対禁止。わかったか?」

 愛は呆れたように笑いながら、おれの額を指先でぴしっと弾いた。
 ちょっとだけ痛いけど、そのあとに撫でてくれる手のひらが、三日間の寂しさを全部溶かしてくれるみたいに甘い。

 「愛……おれのこと、甘やかしすぎじゃない?」

 「別にいいだろ。りゅうくんを甘やかすのが、俺の生きがいみたいなもんだから」

 「……生きがい?」

 「そう。だから、もっとわがまま言って」

 「……これ以上、なに言えばいいの」

 お土産の袋を大事に抱え直して、首を傾げると、
 愛はふっと目を細めて、おれの耳元に顔を寄せた。

 「『嫁にして』とか?」

 「…………えっ」

 あまりに近すぎる声。
 耳の奥が熱くなって、足が地面に張り付いたみたいに動けなくなる。
 よ、め。……お嫁さん?

 「……愛。おれ、男だよ? お嫁さんには、なれないよ」

 おれが一生懸命に答えると、愛は「ぷはっ」と我慢できなくなったみたいに噴き出した。
 おれの髪を、くしゃくしゃにかき回す。

 「知ってるよ。……お前、ほんとお前、そういうとこ……」

 「おれ、変なこと言った?」

 「いーや。大正解。……でも、男とか女とか関係ねーよ。俺がお前を一生囲って、責任取ってやるって言ってんの」

 愛の言葉は、いつだっておれの想像を追い越していく。
 一生。責任。
 それって、なんだか――結婚する人が言う、プロポーズ、みたいだ。

 そう思った瞬間、顔が爆発しそうなくらい熱くなった。
 またそうやって、涼しい顔して、おれの全部をお見通しみたいなことを言うんだ。
 愛はいつもずるい。おれが言葉に詰まって、真っ赤になるのを楽しんでる。

 おれは少しだけムッとしたふりをして。
 でも、本当は破裂しそうなくらい心臓がうるさくて。
 繋いだ愛の手を、言葉の代わりに、力いっぱい握り返した。



 家の玄関が見えてしまった。あーあ、もう着いちゃう。
 そう思った瞬間、繋いでいた右手が、強く握られた。

 「愛……?」

 振り返る暇もなかった。
 ぐいっと腕を引かれて、気づいたら視界が愛の胸板で埋まっていた。

 背中に回された腕が、ちょっと痛い。
 愛の心臓が、耳のすぐ横で工事現場みたいにドクドク鳴ってる。

 ずっと欲しかった体温。
 その瞬間、なんだか急に堪えられなくなった。
 頭がふわふわして、離れたくない、まだ、一緒にいたい。それ以外なにも考えられなくなる。

 おれは少しだけ背伸びをして、自分から愛の首元に腕を回した。
 いつもなら、愛がしてくるのを待つけど。
 でも、今日は、おれ、おかしくなってるんだ。

 ちゅっと、ほんの一瞬。
 心臓が口から飛び出しそうなほど緊張しながら、愛の唇に触れた。
 おれからキスしたのは、きっとこれが初めてだ。

 「……愛。……おれん家、泊まる?」

 自分でも驚くほど小さな声。
 なんでそんなことを言ったのか、自分でも分からない。
 思考はもう、ドロドロに溶け切っていた。

 直後、愛が弾かれたように身を引いた。

 「…………ッ!!」

 愛は片手で自分の顔を覆って、そのまま天を仰いだ。
 肩が、激しく上下している。

 「……だめだ。今日はダメ。絶対、ダメ」

 「なんで?」

 「なんでってお前……正気かよ」

 愛の声は、ひどく掠れていた。
 喉をぎゅっと締め付けられたみたいに、苦しそうな声。

 「今お前の部屋入ったら、俺、お前を襲う自信しかねーよ。理性が、もう、一ミクロンも残ってねーから」

 さっきまでお兄さんぶってたのに。
 今の愛は、今にもおれに噛みつきそうなライオンみたいだ。
 もしかして……。

 「……おれ、食べられる?」

 「……っ、もう帰れ!!」

 愛はおれの背中を玄関の方へ、全力で急かすように押した。

 「大事にしたいんだよ、お前のこと。だから今日は、ちゃんと送り届けて終わり。……わかったか」

 玄関の扉を閉めるその瞬間まで、愛はおれの姿を焼き付けるみたいに、じっと見守っていた。

 部屋に入っても、心臓の音がうるさくて止まらない。
 机の上に置いた、おそろいのうさぎ。
 嫁、一生、責任、生きがい……。

 愛が置いていった言葉をなぞるだけで、身体の芯が熱くなる。
 唇に残ったわずかな熱と、愛の、あの必死な顔。

 「……大事にされてる、なぁ……」