愛って呼んでいい?

 「ただいま」

 「いーくん、お帰りなさーい!……って、えっ⁉」

 玄関を開けた瞬間、嵐。
 勢いよく現れたのは、綺麗なお姉さんと、おっとりしたお母さん。
 二人とも、愛をそのまま女の人にしたみたい。息を呑むほど整った顔。
 全員、モデルなの?オーラが一般人じゃないんだけど。

 「もしかして、りゅうくん⁉ 本物⁉ 実在してたの⁉」

 「心ちゃん、びっくりさせちゃだめよ。いらっしゃい、りゅうくん。ゆっくりしていってね。……あら、イケメン」

 ……イケメン? おれが?
 お門違いな褒め言葉に戸惑いながら、とりあえずぺこりと頭を下げる。

 「早川龍之介です。おじゃまします」

 「うわ、マジか……。いーくんが死ぬ気で隠すわけだわ……」

 愛のお姉さん・心さんが叫びながら、おれをまじまじと見つめてくる。

 「隠す?」

 「そうなの! 写真の一枚も見せないから、私とお母さんの間では『りゅうくん妖精説』まで出てたんだからね」

 「妖精……」

 「それが、こんな……ねぇ、透明感やばすぎない? うるうるのもっちもちじゃん。いーくん、誘拐してきた?」

 「するわけねーだろ」

 愛の声が、地を這うくらい低い。
 露骨に嫌そうな顔。おれを背中に隠すように、一歩前に出た。

 「おい。ジロジロ見んじゃねーよ」

 「減るもんじゃないし、イケメンは人類の共有財産でしょ! この、独占欲モンスター!」

 「ふざけんな。減るだろ」

 何が減るんだろう。
 家族に写真すら見せてなかったなんて。
 それって、大事なものを宝箱にしまっておくみたいな感じ……?
 想像したら、恥ずかしい。でも、すごくうれしい。

 「りゅうくん、逃げるなら今だぞ。こいつら、中身はただのハンターだから」

 「おれ、全然大丈夫だよ。愛のお姉さんもお母さんも、すごく綺麗だし」

 「え、言うことまでイケメンじゃん。あんたも見習いなさいよ」

 「うるせぇんだよ。黙れ」

 吐き捨てるような声。
 いつもよりトゲのある言い方に、おれは自分に言われたのかと思って、びくんと肩を揺らした。

 「……おれ?」

 「っ、ちがう」

 愛が焦ったように否定する。
 それからおれの頭にポンと手を置いて、おれにだけ聞こえる優しい声で言った。

 「りゅうくんはいい子だから、そのままでいい。……クソ姉は黙ってろ」

 家族に向ける声との温度差がすごすぎて、耳が熱い。
 愛、家だとこんな感じなんだ。年相応の男子っぽいぶっきらぼうな感じ。
 おれの前だけの愛じゃないみたいで、なんだか胸の奥がくすぐったい。

 「なによ、デレデレして! お持ち帰りしてきたくせに!」

 「お持ち帰り言うな! 休憩したらすぐ送るんだよ」

 愛が必死に抵抗してるけど、その言葉は豪華な夕食の匂いにかき消された。
 結局、おれはそのまま食卓へ。

 夕食は、賑やかを通り越して、もはや戦場。
 明宮家の猛攻撃に、おれはただ目を白黒させるしかなかった。

 「りゅうくん、これ食べなさい。愛くんにいじめられたら、すぐお母さんに言うのよ?」

 「お姉ちゃんが守ってあげるからね。いーくんみたいな猛獣は、檻に入れなきゃね」

 「お前ら、りゅうくんの母でも姉でもないだろ……」

 愛が頭を抱えてる。
 愛のお父さんも帰ってきて、家族全員が揃った食卓。
 お父さんも、お母さんも、心さんも。
 ……すごい。明宮家、顔面偏差値がカンストしてる。
 みんな芸能人みたいにキラキラしてて、同じ空気を吸うのが申し訳なくなるレベルだ。
 おれみたいな凡人がここに混じってていいのか?

 「そういえば、鞄の絆創膏と消毒液、役に立った? 減ってるのチェック済みだから。あんた、りゅうくんに使ったんでしょ」

 「は?」

 「あんた、自分に使った形跡ないもの。名探偵こころには、なんでもお見通しよ!」

 「……キショ」

 おれはご飯をもぐもぐしながら、あの日を思い出していた。
 愛を好きになった、きっかけ。
 てっきり、愛の女子力が高いのかと思ってたけど。……まさか、お姉さんの仕込みだったなんて。

 「私のおかげで、こんな可愛い子に合法的に触れてるんだから感謝しなさいよね!」

 「…………死ね」

 愛の声、消えそうなくらい小さい。
 なのに。そのくせ、おれの皿に肉を山盛りにする。
 照れ隠しなのがバレバレで、おれは少し笑ってしまった。

 「あの、心さん、ありがとうございました。絆創膏……入れておいてくれて」

 「おい、いいって……」

 愛が小声で止めてくるけど、ちゃんと言いたかった。
 あの日、おれが自分でも忘れてた怪我に、愛が気づいてくれたこと。
 もし心さんの絆創膏がなかったら、おれは今、ここにいないかもしれない。

 「ねえ! ほんとにいい子じゃん! いーくんにはもったいないわ。あんた、いじめたらマジで鼻へし折るからね」

 ……へし折る?鼻を?
 過激すぎ。明宮家の女性陣、強すぎる。
 ビビッて、箸を落とすところだった。

 「おい、りゅうくん怖がってるからやめろ。……それに」

 愛が少しだけ、視線を泳がせた。
 そのまま、ぼそっと。

 「……こんなに大事なのに、いじめるわけねーだろ」

 ……っ。
 その言葉が耳に届いた瞬間、胸の奥が、ぎゅーって雑巾みたいに絞られた。
 普段は意地悪で、うさぎにすらやきもちを焼く、あの愛が。
 家族の前で、こんなにはっきりと「大事」なんて。

 愛が吐き出した言葉が、おれの心の一番深いところに、すとん、と落ちた。
 愛を見ると、一瞬で目を逸らされた。
 赤くなった耳。それが、愛の本音を全部バラしてる。

 あぁ、もうだめだ。
 おれも、愛のことが「大事」すぎて、心臓が溶けてなくなっちゃいそう。

 「お父さん、お母さん聞いた⁉ いーくんが『大事』だって! 明日は槍が降るわよ!」

 「素敵ねぇ。愛くん、そんなに赤くなって」

 「あの愛がなぁ……」

 「……もういい。食い終わった。りゅうくん、行くぞ。送ってく」

 愛が限界を迎えたみたいに、椅子を蹴って立ち上がる。
 おれも慌てて最後の一口を飲み込んで、ごちそうさまの挨拶をした。

 「何言ってるの。こんな可愛い子をこの時間に帰すなんて、明宮家の名に懸けて許しません!」

 心さんが、おれと愛の前に立ちはだかった。
 美人さんの圧。ドラマのワンシーンみたいだ。

 「今日はお泊まりしていきなさい!」

 「……はぁ!? いや、こいつの親にも連絡しなきゃだし……」

 「お泊まり……。愛と一緒に……?」

 おれの脳内に、とんでもないハッピーな単語が降ってきた。
 お泊まり。愛の部屋。
 え、いいの? 本当に?
 帰り道の「次会えるのは四日後」っていう絶望が、一瞬で溶けて消えていく。

 やった。明日まで、ずっと隣にいられる。

 「……りゅうくん、ダメだって。送ってくから」

 「あんた、そんなに焦って。りゅうくんのこと、食べるつもりでしょ」

 「食わねぇよ!」

 「愛、まだお腹空いてるの?」

 「りゅうくんは黙ってて……」

 愛が真っ赤になって、おれの口を塞ぐみたいに手を当ててきた。
 おれは頭にたくさんのはてなを浮かべたまま、言われたとおり黙る。
 愛、さっきあんなに肉食べてたのに。まだ足りないのかな。

 おれが呆気に取られている間に、事態は音速で進んでいた。
 お母さんが鼻歌交じりに、愛のベッドの横に布団を敷いてる。
 ……早すぎない? 職人技だ。

 「いいか、愛。龍之介くんに手出したり襲ったりしたら、庭に埋めるからな」

 お礼を言っているおれの横で、お父さんが愛の肩をガシッと掴んだ。
 低い声。目が、全然笑ってない。

 「そうよ! 夜中に変な声が聞こえてきたら、お姉ちゃんがお父さんと一緒に部屋に突入して、あんたを庭木の栄養素にしてあげるんだから」

 埋める? 栄養素?
 ……肥料ってこと? 愛を?
 とてつもなく物騒だ。明宮家の教育方針、どうなってるんだろう。

 「埋められるのはお前だバカ姉! あと庭を処刑場にするな!」

 バタン!
 乱暴にドアが閉まって、外の騒がしさが一気に消えた。
 急にシーンとなって。
 時計の音が、やけにデカい。

 カチ、カチ、カチ。

 愛はドアに背を向けたまま、しばらく動かない。
 ……怒ってる? おれ、やっぱり帰ったほうがよかったかな。
 おずおずと顔を覗き込んだら、振り返った愛と目が合った。
 ……うわ。
 なんだ、その顔。困ってるみたいで、でも、なんか安心したような。
 今まで見たこともないくらい、とろとろに、とろけた表情。
 ……今の愛、なんか、反則。

 「……ごめんな。あいつら、ほんと変な奴らばっかだろ」

 「ううん。みんな愛のこと大好きなんだなって分かって、嬉しい。いい家族だね」

 「あんなの、おもちゃにされてるだけだろ……。まさか、こんなに早くお前を部屋に入れることになるとは思わなかったけどな」

 愛がベッドの端に腰を下ろして、おれの顔をじっと見つめる。
 ……あ。そうだ。
 ずっと気になってたこと、聞かなきゃ。

 「ね、愛。さっき心さんが言ってた『食べる』って……愛、夜ご飯足りなかった? おれ、肉食いすぎた?」

 「…………」

 愛が絶句して、顔を覆った。
 ……え、図星? やっぱりお腹空いてるの?
 それは、非常に申しわけない……。

 「……ごめ――」

 「りゅうくん、マジで言ってんの?」

 「? だって、おれのこと食べるって言ってたし……」

 「それは、その……」

 愛が諦めたみたいに、布団の上に座るおれの顔を両手で挟み込んだ。
 大きな、熱い手。
 そのまま、ゆっくり顔が近づいてきて。

 おれの唇を、熱い塊が塞いだ。

 甘くて、いつもより深い。
 喉の奥まで熱くなるような、深い、深い、キス。

 「ん……っ」

 唇が離れる。
 愛の瞳。さっきまでなかった、ドロドロの熱が宿ってる。
 心臓が、耳のすぐ横で鳴っててうるさい。

 「……こういうことの、もっと先のことだよ。……わかったか?」

 至近距離。耳元で囁かれた、低い、低い、声。

 ……え。

 もっと先。食べる、っていうのは、つまり。

 「…………っ‼」

 ようやく意味がつながって、おれの顔は一気に沸騰した。
 愛のバカ。
 そんなこと、こんなに近くで。そんな声で教えなくてもいいのに。

 そのとき。
 ガチャリ、と、ノックもなしにドアが開いた。

 「「っ⁉」」

 飛び退く。
 おれたちの前に立っていたのは、やっぱり、心さん。

 「おい! 来んなって言っただろ! お前、デリカシー死んでんのか」

 「あれ? りゅうくん、顔真っ赤。いーくん、もう手出したの? 庭、掘る?」

 心さんが般若みたいな笑みを浮かべて、おれと愛を交互に見てくる。
 この人、本気でやる気だ。
 い、今のは、その……!

 「おれ、愛とちゅ――」

 「りゅうくんは喋るな!」

 本当のことを言おうとしたら、横から愛の大きな手が伸びてきて、おれの口をむぎゅっと塞いだ。
 もがいても離してくれない。愛、心さんをめちゃくちゃ睨んでる。

 「用が無いなら来るなよ、お前、マジでキモいんだよ。ストーカーかよ」

 「抜き打ちチェックよ、チェック。……ま、いいわ。修学旅行、気をつけて行きなさいね」

 「……たまにはまともなこと言うじゃねーか」

 愛が少しだけ毒気を抜かれた顔をした。
 でも、心さんはその隙を見逃さない、超一級のハンターだった。

 「ま、りゅうくんに構いすぎて、修学旅行中ずっと寝てるんじゃない? お姉さまにお土産忘れるんじゃないわよ」

 「お前に土産なんかねーよ! 二度と部屋に入ってくんな!」

 愛に無理やり押し出され、心さんは「楽しんでねー!」と笑いながら去っていった。
 本当に、嵐みたいな人だ。

 「あいつ、マジでやべぇだろ。……ごめんな、落ち着かなくて」

 「ううん。おもしろい」

 「……お前、本当に大物だな」

 愛は苦笑いしながら、「……俺、ちょっと準備するわ」と言って、広げたままのバッグの前に座った。

 「りゅうくんは自分の家だと思ってくつろいでな」

 漫画も読んでいいし、ゲームもやっていい。
 なんて言われたけど。無理。
 じっとしてなんていられない。
 準備してる愛の背中。それだけを、ずっと眺めてた。
 気づいたら、おれは愛の周りをウロウロ、ウロウロ。

 「愛、これ入れる?」

 「それは明日着るやつ。……おい、畳んだのを崩すな」

 「あ、じゃあこれ。だいずくんの抜け毛、お守りにする?」

 「絶対いらねぇ。今すぐ捨てろ。毛玉の呪いかよ」

 「くらえ、うさ毛アタック!」

 「……っやめろって。お前、ガキかよ」

 邪魔しちゃダメだ。分かってる。
 でも、愛の背中にぴたっと張り付いてみたり、バッグの中に入ろうとしてみたり。
 そのたびに、愛が「邪魔すんなって」「こら、危ないだろ」って笑いながらおれを捕まえる。
 その「捕まえる手」が、すごく優しい。

 「……分かったから。手伝わせてやるから、大人しくしろ」

 結局、そのままおれは愛に後ろから抱え込まれるみたいにして、床に座らされた。
 愛の胸板が背中に当たって、熱い。

 「ほら、しおり。持ち物読み上げて」

 「まかせろ! えーっと。着替え、洗面用具、財布……」

 おれが読み上げる。愛が「ある」「入れた」って確認する。
 チェックは、どんどん進んでいく。
 進めば進むほど、明日から本当に愛がいなくなるんだって。
 その実感が、急に、すごい勢いで喉の奥までせり上がってきた。

 「……愛。本当に忘れ物、ない?」

 顔を上げると、吸い込まれそうな瞳。
 愛がおれをじっと見つめてる。

 「……りゅうくんは、持っていけないからな」

 おれの心、全部見透かされてる。
 優しくて、子供に言い聞かせるみたいな、甘い声。

 「……わかってる。おれ、邪魔だし」

 「そうじゃねーよ。三日だけ……我慢して。いい子で待ってろ」

 その声。ずるい。
 胸の奥がキュッとなって、おれは愛の胸元に顔を埋めた。
 トク、トク、って愛の心臓の音。
 すごく落ち着く。世界で一番安心するリズムだ。

 しがみつくと、愛の手がおれの背中をゆっくり往復した。
 熱くて、大きくて。それだけで泣きたくなる。

 「三日だぞ。四日目の夕方には帰ってくるから。そしたら一緒に帰ろうな」

 「うん。……楽しんできてね、愛」

 「あーあ。そんな顔で言われると、マジで行きたくなくなる……」

 愛が困ったように笑って、おれの額に自分のをこつんとぶつけた。
 近い。愛の体温が全部おれに映る。

 「夜、絶対ビデオ通話かける。寝るまで繋ぎっぱなしにしてやるから。……それで少しは頑張れるか?」

 「ん。……がんばる」

 おれがようやく笑うと、愛は安心したみたいに「よし。いい子」って呟いて、おれの頭をひと撫でした。


 「そろそろ寝るか。明日の朝、早いし」

 愛が壁のスイッチを押して、部屋の電気が消えた。
 一瞬で真っ暗。カーテンの隙間から細く差し込む月光だけが、部屋の形をぼんやり浮かび上がらせる。
 おれは、ふかふかの布団に潜り込んだ。
 ……でも。

 すぐ近く。ベッドから聞こえる、愛が寝返りを打つたびに鳴るシーツの音。
 静かすぎる空気。
 急に、心細さが喉の奥までせり出してきた。
 愛が、遠い。
 数メートルしか離れてないのに、世界で一番遠くに感じる。
 寂しい。無理だ。

 おれは吸い寄せられるように布団を抜け出して、愛のベッドの端を、そっと捲った。
 もぞもぞと、愛の布団の中に潜り込む。

 愛の体が、一瞬だけびくんと跳ねた。
 でも、おれを追い出すことはしなかった。

 狭いシングルベッド。背中を向けてる愛に、おれはぴたっとくっつく。
 パジャマ越しに、熱い体温。
 それだけで、さっきまで浅かった呼吸が、少しだけ楽になった。

 数分後。
 重い沈黙を破って、愛が「……あー、クソ」って吐き出した。

 「……寝れん」

 「なんで? 明日、早いんでしょ?」

 「りゅうくんのせい。……近すぎ」

 「いつも、これくらい近いよ?」

 おれ、変なこと言ったかな。
 昼休みだって、飼育当番の時だって、これくらいの距離にいつも愛がいたはずなのに。

 「……そういう意味じゃねーよ、バカ」

 愛が掠れた声で言って、がばりとこっちを振り向いた。
 月明かりに照らされた愛の顔。
 おれは、向かい合った愛のパジャマの胸元を、ぎゅっと握りしめた。

 三日間、会えない。
 寂しいって言ったら、愛を困らせる。
 楽しんできてほしいのも、本当だ。
 でも、やっぱり。

 「……愛」

 「ん?」

 「好き」

 真っ暗な部屋。おれの心臓の音だけが、やけにうるさく響いてる。

 「……いないの、やだ」

 我慢してた気持ちが、ぽろりと溢れた。
 愛がいない学校。愛がいない帰り道。
 おれ、そんなの、どうやって歩けばいいのか分かんないよ。

 「……っ、」

 愛が、短く息を呑む。
 次の瞬間、回された腕がおれを強く引き寄せた。
 押しつぶされそうなくらい強くて。
 でも、おれを壊さないように大事に包み込む、熱くて、優しいハグ。

 愛の体温に包まれていると、さっきまでの不安が、泥みたいに溶けていく。
 ……安心したら、急に、重たい睡魔がやってきた。

 愛、大好き。
 早く帰ってきてね。

 「ずっと、おれの隣に、いてね……」

 最後まで言い切れたか分からない。
 おれの意識は、深いまどろみの中に落ちていった。

 「あぁ、ずっといるよ。帰ってきたら、もう絶対離さねぇからな」

 愛の、誓うみたいな掠れた声。
 それを遠くに聞きながら、おれは、愛の胸の中で目を閉じた。

 カーテンの隙間から、容赦ない朝日が差し込んできた。
 重い瞼を無理やりこじ開けたら、目の前に、整いすぎた顔があった。

 「……あ、起きた」

 頬杖をついて、愛がおれを見下ろしてる。
 視界が白くて、ふわふわして、まだ現実に戻ってこれない。

 「ぉはよ……」

 喉の奥から、やっと絞り出した。

 「おはよ。お前、すごいマヌケな顔して寝てたぞ。口、ちょっと開いてた」

 「……うそだ」

 「マジ。でも、まぁ。可愛かったから、写真撮っとけばよかった」

 愛が、少し眠そうに目を細めて笑う。
 寝起きなのに、いつも以上に色気が溢れてる。
 少し乱れた髪のせいで、雑誌のモデルみたいだ。
 なんで朝からそんなにかっこいいの。反則だよ。
 朝いちばんに愛がいる幸せが、じわじわとおれの脳を溶かしていく。
 もう無理。起きられない。
 おれはもう一度、愛の胸元に顔を埋めて、ぎゅっと目を閉じた。

 「おい、二度寝すんなって。俺、あと三十分で家出ないと間に合わねーんだよ」

 「……ん。愛、かっこいい」

 「……っ。いいから、早く起きろ」

 「だっこ……」

 腕を伸ばす。
 愛が「はぁ?」って、呆れた声を出す。

 「幼児かよ。お前、家でも毎朝こんななの?」

 呆れてる愛。でも、笑ってる。
 家では、さすがにしないよ。高校生だもん。
 でも。愛の前だと、体が勝手に「甘え」の形になっちゃう。

 「じゃあ、おんぶ……」

 「そういう問題じゃねーだろ。ほら、立てるか?」

 愛が座り直す。おれはなおも、愛の背中に磁石みたいにしがみついた。
 広い背中。熱い。

 「おれ、おもい……?」

 「重いわけないだろ。細すぎんだよ、折れそうで怖えわ。……重いのは、俺の気持ちだけ」

 最後の方。愛が、小さく呟いた。
 ポヤポヤのおれの脳には、それが「いい夢だな……」なんて甘い幻聴みたいに響いて。
 そのままベッドに帰ろうとしたら、大きな手が伸びてきた。

 「あー、ダメだこれ。……よし、捕まえた」

 「わっ、」

 結局、おれは愛に担がれるみたいにして、リビングへ連行された。

 おれは毎朝、脳が立ち上がるまで時間がかかる。
 お母さんの朝食を食べてる間も、意識の半分は夢の中。

 「ほら、りゅうくん。時間ないぞ。制服着ろ」

 愛に急かされて、制服のシャツに袖を通す。
 意識はまだ真っ白。ただ機械的に、ふらふら体を動かす。

 ブレザーを羽織った。
 ……ん?
 なんだかいつもより肩のあたりが大きくて、裾が長い気がする。
 あ。朝は、体が縮んでるのかな。
 寝ぼけた頭は、そんな適当すぎる答えを出して、そのままスルーした。

 愛はテキパキと準備を進めながら、鏡の前で髪を整えてる。
 おれはと言えば、ネクタイと格闘中だ。

 「……できない。こいつ自我ある。絶対おれのこと嫌いなんだ」

 毎朝、最低七回はやり直す、おれの天敵。
 指先が上手く動かなくて、布の塊をぐちゃぐちゃにしてると、愛が背後から歩み寄ってきた。

 「ネクタイに自我があるわけないだろ。ほら、貸せ」

 正面に回り込んで、首元に、大きな手が伸びてくる。
 愛の指先が、おれの喉仏に軽く触れて、くすぐったい。

 「……あ。それ、おれのネクタイ」

 愛が手に持ってるのは、昨日おれが外したやつ。端っこに、美術の時間についた絵の具が少し残ってる。
 じゃあ、今、愛が結んでくれてるこれは……。

 「愛のじゃん!」

 「ようやくお目覚めか? りゅうくんのは、俺が借りてくな」

 愛が少しだけ、意地悪く笑った。
 そのまま、おれのネクタイを自分の首にかける。
 鏡も見ないで、一瞬。完璧な形。
 おれと同じ色のネクタイ。でも、おれのより少しだけ端が擦れた、愛のネクタイ。

 「今日から三日間、交換な」

 「交換……?」

 「そう。交換。……変なやつ寄ってこねーように」

 愛が、おれの鼻先を指でピン、と弾いた。
 自分じゃない、ネクタイを巻かれてる。
 なんだか、特別な「印」をつけられたみたい。
 首元からじわじわと、顔が熱くなっていく。

 愛の胸元で揺れる、おれの絵の具付きのネクタイ。それさえお洒落に見える。
 ずるい。なんでそんなにかっこいいの。

 「よし、行くぞ。遅れる」

 「うん。まって。……あ、靴下左右逆だ」

 結局、最後までバタバタ。
 玄関で心さんが「いーくん、りゅうくんに変なことしなかった!? スコップ買ってくる!?」って騒いでる。
 愛はそれを完全無視して、おれの手を引いて歩き出した。

 学校までの道のり。
 愛はデカいバッグを肩にかけて、もう片方の手でおれの手を、ぎゅっと握ってる。

 愛の匂い。
 愛の熱。
 それから、愛のネクタイ。

 全部、おれの中に溶け込んでくる。
 おれは繋がれた手を、壊さないように、でも必死に握り返した。

 校門近く。集合場所には、もう大きな荷物を抱えた二年生がたくさん集まってる。

 「明宮ー! 遅いぞ! おー、龍之介くんも一緒か」

 山田先輩が、ぶんぶん手を振ってる。
 愛は「悪い」って短く返して、おれの方を向いた。

 「じゃあ。……ちゃんと飯食えよ。野菜も残さず食うこと。あと、毛玉に浮気するなよ」

 「御意!」

 「……っ、りゅうくん『御意』なんて言葉、どこで覚えたんだよ」

 「おれ、何でも知ってるから」

 本当は漫画の読みすぎ。
 えっへん、て胸を張ったら、愛が「ほんとかよ」って変な笑い方をした。
 これはちょっと疑われてるやつだ。

 その時、バスの方から「明宮ー! 俺が窓側座っていい?」って山田先輩の声。

 「窓側座んなかったら、最後までりゅうくん見れねーだろ」

 ……え?
 おれの心臓、バカになった。
 変な音がして、胸の奥が熱い。
 おれを見たいから、窓側。
 みんなの前で、そんな、心臓に悪いこと。普通に、言っちゃうんだ。

 呼吸の仕方を、一瞬で忘れる。
 置いてけぼりになったおれの頭を、愛が、くしゃりと撫でた。
 大きな手のひら。
 その熱が、脳天からつま先まで痺れるように広がっていく。
 バスのエンジン音が、重く、お腹の底まで響いて。もう、時間なんだ。

 「い、いってらっしゃい……。気を付けてね、愛」

 震える声でやっと絞り出すと、愛が、周りの目を盗んでおれの耳元で囁いた。

 「龍之介、大好き。……また、夜な」

 不意打ちの「大好き」と、「龍之介」呼び。
 無理。トドメ。もう死んじゃう。

 「ひゅっ……」

 聞いたこともない変な声が漏れた。
 供給過多。無理。
 心臓が口から飛び出しそうで、頭の中が真っ白に弾けた。
 顔中が沸騰して、固まるおれを見て、愛は「してやったり」って顔で、ひらりと手を振ってバスに乗り込んでいった。

 動き出した、大きなバス。
 窓際に座った愛が、小さく手を振ってる。
 頬がずっと熱いまま、バスが点になるまで、おれは手を振り続けた。

 角を曲がって、愛が見えなくなった。
 その瞬間、おれの体から一気に力が抜けて、その場にへたり込みそうになる。
 ……教室、行かなきゃ。
 足が重い。階段を上るたび、なんだか体が重い。
 っていうか、やっぱり肩のあたりが、ずっとスースーする。
 まあ、いいか。
 愛、行っちゃったな……。

 胸の中にぽっかり穴が開いて、そこを冷たい風が吹き抜けていくみたい。
 ぼんやり席に着いたら、後ろの平野が目を丸くした。

 「おはよ、早川。……って、え、何その格好」

 「何?」

 「何ってお前、ブレザーのサイズ、爆発した? 誰の借りてきたんだよ」

 平野が指さす。
 そういえば入学前、母さんに「大きくなるから」って少し大きめを買ってもらった気がする。
 あー、わかった。やっぱりまだ朝だから、おれの体が縮んだままなんだ。

 へっぽこなこと考えてたら、隣の女子までクスクス笑ってきた。

 「それ、お兄ちゃんの? なんか今日、いつもの三割増しで赤ちゃんじゃん」

 二歳上の兄ちゃんはいるけど、学校違うし、制服は別だ。
 それに、いつもより赤ちゃんに見えるのだけは避けたい。
 自分の袖口を見る。
 指先が少し隠れる、ぶかぶかの袖。
 顔を伏せると、そこからふわりと、今朝まで隣にいた愛の匂いがした。

 あ。

 「……愛のだ」

 今朝、バタバタして、寝ぼけたまま手に取ったあれは。おれのじゃなくて、愛のだったんだ。
 どおりでデカいわけだ。

 「は? 愛って、あの二年の明宮先輩? なんでお前、それ着てんの。……あ、もしかして、わざと?」

 「ちがう! 間違えただけ!」

 慌てて否定しながら、机の下でこっそりスマホを取り出した。

 『ごめん。ブレザー、愛のだ』

 バスの中ならまだ見れるかな、なんて思っていたら、すぐに既読がついた。

 『は? なんで着てんの』

 『間違えた』

 『別にいいけど。魔除けになるから、そのまま着とけ』

 ……魔除け?
 すごい。愛のブレザーって、そんな高性能なんだ。
 今日からおれも陰陽師か。
 悪霊退散!
 なんて考えてたら、すぐに追撃。

 『霊能力とかじゃねーから。悪霊退散とか言うなよ』

 思わずスマホを落としそうになった。

 『愛って、エスパー?』

 『りゅうくんに関しては、な。変なやつに声かけられないようにって意味。隙だらけなんだよ、お前』

 呆れ顔。ドヤ顔。手に取るように分かる。
 勝手にご機嫌になっちゃう頬を、愛のブレザーの襟にぐいっと埋めた。

 そのままポケットに手を突っ込む。
 そこには、ミンティアの空き殻。愛がいつも食べてるやつ。
 指先に触れるプラスチックの感触が、愛がすぐ隣にいるみたいで、でも、やっぱりいなくて。
 変な心地がして、胸の奥がまた、ひたひたと浸されていく。
 でも、愛のブレザーなら、いつもより「赤ちゃん」に見えるのも、そんなに悪くないな。


 「早川ー、ここ読んでみろ」
 授業中もずっと、どこか遠くにいた。
 先生の声が、銀河の果てで鳴ってる子守唄みたいに聞こえる。

 「あいはぶあどりーむ」

 「今英語の時間じゃねえぞ! 夢を抱くな! 寝言は寝て言え!あと、その発音もどうにかしろ!!」

 ツッコミのフルコースをいただいて、クラス中が爆笑に包まれる。
 「あ、間違えた」
 それだけ言って、また静かに座り込む。
 笑い声も、何もかも、おれの鼓膜には届かない。

 「早川、今日ヤバくない? もはや浮いてるぞ」

 「……愛が、足りない」

 「は?」

 「……なんでもない」

 昼休み。いつもの癖で、二年生のフロアに向かってた。
 踊り場で、立ち止まる。
 ……あ。愛、いないんだ。
 ポツンと一人、冷たくなった空気の中を引き返す。
 一日の授業が、一生分より長く感じた。

 放課後。水曜日。飼育当番の日。
 一人で小屋の鍵を開けて、だいずくんの前に座り込む。

 「だいずくん。愛、三日間もいないんだって」

 「……」

 「愛がいないと、つまんないね」

 だいずくんは、無心にキャベツを齧ってる。
 いつもなら背後から飛んでくる、「いつまで毛玉と話してんだよ」って、不機嫌そうな声がするのに。
 それが、聞こえない。

 スマホの画面は、真っ暗なまま。
 愛が楽しんでるなら、それでいいって思いたいのに。
 時間は、砂時計の砂が一粒ずつ、ゆっくり、ゆっくり落ちるのを眺めてるみたい。
 もどかしくて、胸が苦しい。

 「暇だなぁ」

 愛がいれば、一瞬で溶けてしまうはずの時間が。
 今は、粘りつくみたいに重たい。

 「愛、今、何してるかな」

 だいずくんの背中を撫でながら。
 まだ、外は明るいのに。
 夜。画面の中でいいから、愛に触れたい。
 待ち遠しくて、泣きそうだった。



 学校からどうやって帰ってきたのかも、晩ごはんに何を食べたのかも、思い出せない。
 家の中の匂いも、家族の喋り声も、全部どこか遠い国のことみたいだ。

 気づけば、夜の九時。
 ベッドの上で、スマホを握りしめたまま、ただの抜け殻になってた。
 ――手のひらで、不意に端末が震える。

 画面に浮かぶ『愛』の文字。
 慌てて通話ボタンを押すと、ホテルの部屋にいる愛の顔が映し出した。

 『……よぉ。起きてたか』

 「愛!」

 スピーカー越しに聞こえる低い声。
 それだけで、胸の奥がぎゅうっと、痛いくらいに締め付けられる。
 たった半日。それだけなのに、数年ぶりに再会したみたいな気分だ。

 『……お前、なんでまだ制服着てんだよ。もう九時だぞ。ずっとその格好だったのか?』

 「だって……これ、愛が結んでくれたから。解いたら、愛がいなくなっちゃう気がして」

 正直に言うと、愛は一瞬絶句して、それから乱暴に前髪をかき上げた。

 『……っ、バカか。また帰ったら、いくらでも結んでやるから。早く着替えろ』

 「ん。じゃあ、今着替える」

 スマホを枕元に立てかけたまま、シャツのボタンに指をかけた。

 『おいっ! 待て、カメラ切るか伏せ……っ』

 『お、龍之介くんサービスショット!?』

 『龍之介くんえっちだねぇ!』

 画面の向こうから、聞き慣れた先輩たちの声。
 次の瞬間、画面がぐわんって大きく揺れた。

 『お前ら、見んな! 殺すぞ!!』

 画面の向こうが、急に騒がしくなる。

 『……っ、りゅうくん、お願いだから、俺以外にそんなの見せるな。無防備すぎる』

 「え? おれ男だよ? 体育の時間とか、みんな普通に脱いでるし」

 『……男とか女とかじゃねーんだよ。俺が嫌なんだよ……。わかったか?』

 愛の切実すぎる声に押されて、おれはすごすごと画面の死角に移動した。
 さっき、おれのこと隠そうとしてたんだ。今度から気をつけなきゃな。

 ようやくパジャマに着替えて、再び画面に戻る。
 愛はようやく一人になったのか、壁に背を預けて、少し疲れたような顔をしていた。

 画面越しの愛は、どこか遠くにいるはずなのに。
 その瞳だけはおれを、逃がさないようにじっと見つめてくる。

 「愛、楽しんでる?」

 『まあ、それなりにな。……で、そっちは? 今日、どうだった』

 「だいずくんたちに、愛がいなくてつまんないねって言った。キャベツいっぱい食べてたよ」

 報告すると、愛は「また毛玉の話かよ」って、唇を尖らせた。

 『帰ったら、あの毛玉丸刈りにしてやろうかな。俺がいない間に、りゅうくんのこと独占しやがって』

 「だめだよ。だいずくん、クリーチャーになっちゃう」

 『あんなの、クリーチャーでもクラムチャウダーでも何でもなれよ』

 愛の、いつものめちゃくちゃな理屈。
 おかしくて、でも、愛の声があんまり心地よくて。
 画面の中の、少し乱れた髪を指でなぞる。

 「愛」

 『ん?』

 「……すき」