愛って呼んでいい?

 期待なんて一ミリもしていなかった。

 高二の春。
 中身も知らないくせに「好きです」だの「付き合ってください」だの。俺の外見っていう薄っぺらな皮一枚だけを見て、みんな同じようなセリフを吐く。正直、いい加減辟易していた。

 よく顔だけでそこまで言えるな、って毎回思う。
 俺はそんな浅い言葉をぶつけられて、ノリで付き合えるほど器用じゃない。それに、好きでもないやつに自分の時間を割いてやるほど、優しい心も持ち合わせていなかった。

 告白なんて迷惑の極致だ。
 山田や里中に「相変わらずの塩対応」って揶揄されるたび、自分にはどこか欠陥があるんじゃないかと思い始めていた。
 「人の心」っていう、実体のないやつが。

 だから、飼育委員を選んだのは単なる消去法だった。
 うさぎなら俺の顔を見て頬を赤らめることもない。クソつまらない話を振ってくることもない。人としての優しさが欠けている俺でも、人間を相手にするよりはマシだろ。

 ペアを組む一年の名前は「早川龍之介」。
 文豪か、さもなくば若頭か。
 厳めしい名前を見て、俺は「無口な大男」を想像した。無駄に関わらなくて済む。そう思って、少しだけ胸をなでおろした。

 けれど。多目的室の隣に座っていたのは、名前の重厚感とは一億光年も離れた、中性的でどこか危うい「塊」だった。

 女子と見間違えるほど整った、それでいて幼い顔。
 ……こいつが、早川龍之介?

 隣に座った俺を見て、そいつは手元のプリントと俺を交互に見た。
 まあ、いつもの反応だ。俺はそのままスルーするつもりだった。

 なのに。そいつが、初対面でいきなり、俺の初見殺しの名前を呟いたんだ。

 「……あきみや、いとし?」

 胸の中にあった防波堤に、無視できない亀裂が入る音がした。
 他人が必ず「あい」と間違える俺の名前を言い当てたのは、後にも先にもこいつだけだった。

 『いとし先輩って感じがしたから』

 真顔でそんなことを抜かしたかと思えば、説明会の最中も窓の外を流れる雲でも数えてるのか、魂をどこかに飛ばしてる。

 なんだ、こいつ。
 こんなやつと当番一緒で、本当に大丈夫か?

 そう呆れていた矢先、そいつの白い手の甲に血が滲んでいるのが目に入った。
 当の本人は痛みすら感じていないかのように、ぽけーっと座ったままだ。

 「……おい」

 気づけば、自分からその手首を掴んでいた。
 普段なら「勝手に死ねば」で済ませるか、そもそも気づきもしない、他人の怪我。

 なのに、なぜかこの時は――。
 放っておいたらこいつがこのまま透明になって、消えてしまうような。そんな変な錯覚に襲われた。

 姉貴が鞄に突っ込んだ、消毒液と絆創膏。
 「お姉様のおかげね」なんてドヤ顔をされるのは癪だけど、この時ばかりは感謝した。

 手当を終えた瞬間、そいつが吐いた『好きです』という言葉。

 ――ああ、こいつもか。
 そう切り捨てようとしたのに。

 真っ直ぐすぎる瞳に見つめられた瞬間、俺の心臓は、生まれて初めて聞くような不規則な音を立てた。

 「……それ多分、違う好きだよ」

 あいつに向けて言ったはずの言葉は。
 本当は、自分自身への必死の言い訳だった。


 たまたま名前を当てただけの、人懐っこい一年生。
 そう自分に言い聞かせていたのに、翌日からそいつは、俺の教室に毎日顔を出すようになった。

 山田や里中みたいに、喋りたいだけ喋って消える奴はまだいい。
 でも、群れるのが趣味の連中に絡まれるのは、正直ヘドが出るほどダルい。

 なのに。廊下に立っている龍之介を見つけると、俺の唇は勝手に、あいつを呼ぶための形を作ってしまう。

 飼育当番の最中、隣でしゃがみ込む距離。
 うさぎと戯れる、あの無防備な横顔。

 「なんでお前ばっか好かれるんだよ……」

 ポツリと独り言が溢れた。
 気のせいだ。うさぎが龍之介のところにばかり集まって、俺のところに一匹も来ないから、ガキみたいにいじけてるだけ。

 ……そう思いたいのに。
 俺の中には「うさぎを触りたい」なんて可愛げのある感情は一ミリも湧いてこなくて。
 ただ、うさぎ相手に本気で嫉妬している自分に気づいて、目眩がした。

 龍之介が他の奴と話していれば、肺の奥が焼けるように熱くなる。
 笑ってる顔が、俺に向けてる時と同じなのが、どうしようもなく気に食わない。

 「面倒を見てるだけ」
 「相手は男だ」
 そんな誤魔化しは、もう限界だった。

 それでも、俺の中の黒い感情で、龍之介を壊したくなかった。
 だから、わざと冷たくあしらってみたこともあった。

 けれど。昼休みに、龍之介がパタリと来なくなったとき。
 ……一瞬で、限界が来た。

 「俺の負けだ」って、笑うしかなかった。

 里中が龍之介と肩を組んでいた時、その腕を根元からへし折ってやろうかと思った。
 認めざるを得なかった。
 俺は、早川龍之介のことが、どうしようもなく「好き」なんだと。

 晴れて付き合うことになって、あいつを「俺の」にできたはずなのに。
 余裕ができるどころか、むしろ俺の方がどんどん追い詰められていく。

 ……龍之介。お前、ほんとどうしてくれんだよ。

 普段は「りゅうくん」なんて甘い呼び方で自分を制御している。
 けど、心の中で「龍之介」と呼び捨てるだけで、独占欲がはち切れそうになって、自分が自分じゃなくなるみたいだ。


 ――なのに。
 最近の龍之介は、どこかおかしい。

 俺が伸ばした手をさりげなく避ける。俺がかけた言葉に、反応が明らかに遅れる。
 昨日は特にひどかった。

 「りゅうくん、今日、アイス食べに行こっか」

 「……ああ、うん。ラクダよりシマウマのほうが好きだけど」

 「…………会話のドッジボールどころか、球拾いすらさせてくんねーのな、お前」

 普段から天然の範疇を超えた返答をすることはあった。けど、今はもう、俺と向き合ってないのが丸わかりだ。

 いつものように「好きだよ、愛」と笑う。
 でも、その瞳のピントは俺を通り越して、どこか別の、虚空を見つめているような気がして。

 手を繋いでいても、繋いだ手のひらは冷たい。
 指を絡めても、砂みたいにすり抜けてしまいそうな感覚。

 俺が、何かしたか。

 余裕のある彼氏面なんて、もう維持できそうにない。
 焦りと、得体の知れない不安。それが俺の胸を、じわじわと侵食していく。


 そして、その日は来た。

 廊下の角を曲がろうとしたとき、聞き慣れた名前が耳に飛び込んできて、足が止まる。

 「……早川くん」

 龍之介が、女子に呼び止められている。

 「あの……良かったら、私と付き合ってください!」

 その言葉を聞いた瞬間。俺の頭の中で、何かがパチンと弾ける音がした。

 三年の、おしとやかで通ってる女子。山田が「狙っちゃおうかな」なんて言ってた奴だ。
 そんなことはどうでもいい。
 問題は、告白されてる当の本人の、あの気の抜けた顔だ。

 「…………付き合う、ですか?」

 龍之介は、きょとんとした顔で首を傾げた。

 「うん。早川くん、いつもふわふわしてて、見てるだけで癒やされるなって。……ずっと、気になってて」

 龍之介は無言で考え込む。
 普通、ここで「付き合ってる人いるんで」とか「すみません」とか、何かしらの拒絶が出るはずだ。

 なのに。龍之介はあろうことか、自分の制服のポケットをガサゴソと探り始めた。
 ……おい、何してんだ。

 「どこにですか?」

 「……え?」

 「おれ、これから愛と駅まで行かないといけないので。その後でもいいなら、付き合えますけど」

 ……出た。
 こいつ、またやってる。
 「付き合う(交際)」を「付き合う(同行)」と勘違いしてやがる。

 三年の女子が、フリーズした。無理もない。
 俺も物陰でこめかみを押さえた。

 龍之介は、自分が一年のみならず上級生の女子、なんなら一部の男子からも「メロい」だの「可愛すぎ」だの言われてる自覚が、微塵もない。
 俺がどれだけ他人の口からあいつの名前を聞かされて、それをどんな気持ちで耐えてるか。
 自分が放ってる無自覚な引力が、どれだけ周囲を狂わせてるか。
 あいつ、一ミリも理解してない。

 あいつは、「かっこいいのは、愛。おれは、だだの名前負けした童顔」だと思い込んでる。
 ってか前にそう言ってた。
 だから、まさか自分が告白されるなんて、選択肢にすら入ってない。

 これ以上、被害者を増やすわけにもいかない。
 何より、俺の心臓がこれ以上持たない。

 「りゅうくん」

 わざとらしく靴音を立てて、二人の間に割って入った。

 「あ、愛」

 「……明宮くん」

 龍之介と三年の女子が同時に俺の名を呼んだことにすら、無性に腹が立った。

 固まる女子を置き去りにして、龍之介を引きずるように歩き出す。

 龍之介は「あ、さよなら」なんて能天気に手を振ってる。
 ……本当、お前っていうやつは。

 校門を出て、人通りの少ない裏道まで来たところで、掴んでいた腕を放した。
 正直、強く掴みすぎた自覚はある。そこは後で反省する。

 「お前さ、自分が何したか分かってんのか?」

 「え?相談されたから。でも、どこに行くのか教えてくれなくて……」

 「相談なわけねーだろ。告白だよ、告白。付き合ってくださいって言われただろ」

 俺が問い詰めているのに、龍之介は「告白……」と、異国の言語を聞いたみたいに呟いて、自分の指先をぼんやり見つめている。

 「そうだよ。好きだから付き合えって、あの人、勇気振り絞って言ったんだよ」

 「……おれに?」

 「他に誰がいんだよ」

 「へぇ……」

 ……全然分かってない。こいつ、マジで。

 「へぇ、じゃない。お前、どこまで無防備なんだよ。あんなの、どう見たってそういう空気だっただろ」

 「空気……? 廊下、ちょっと埃っぽかったかも」

 ……絶句。
 ふざけんな。いい加減にしろよ。

 「お前がそんなに隙だらけだから、変なやつが寄ってくるんだ。あいつらがお前をどういう目で見ているか、考えたことないのか?」

 「そんなこと言われても……。おれ、愛のことしか考えてないから。他は、よく分かんない」

 いつもなら、絆されて甘やかすその言葉。
 けど、最近の龍之介の「心ここに在らず」な態度が、俺の不安にガソリンを注いでいた。
 もう俺の中に、余裕なんて一かけらも残っていない。

 「嘘つけ。最近のお前、俺といても全然楽しくなさそうじゃん」

 「……そんなこと、」

 「手繋いでも上の空だし、返事はズレてる。外では他の奴にヘラヘラして、告白されてることにも気づかない。……お前、俺のこと、本当はどう思ってんの?」

 龍之介はぴたりと口を閉ざした。
 いつもなら「好きだよ」って、溶けるような顔で言うはずなのに。

 沈黙。
 裏道の湿った空気が、じりじりと肌を焼く。

 「なんか言えよ」

 龍之介は、俯いたまま動かない。
 龍之介を理解したい。言葉を重ねれば、この状況から抜け出せるはずだ。そう思っているのに。

 「黙ってたら分かんないだろ。言いたいことあるなら言え」

 この沈黙が一番の拒絶に感じて、語気が強くなる。
 自分でも最低だと思う。
 でも、離れていきそうな龍之介を繋ぎ止める術を、俺はこれしか知らなかった。

 龍之介の肩が、微かに震える。
 何か言おうと口を開きかけて、やめる。
 長い睫毛が影を落として、その奥の感情が読めない。

 長い、長い沈黙の後。龍之介が震える声で、ぽつりと呟いた。

 「……言ったら、嫌われるから」

 嫌われる?
 俺が? 龍之介を?

 「嫌うわけないだろ」

 どれだけ俺がお前に骨抜きにされてると思ってる。

 「愛が、嫌な顔するの、分かってるから」

 「……そんなの、言わなきゃ分かんないだろ」

 「愛は、……愛は、おれだけじゃないから」

 「は?」

 「あの子にも、……廊下で告白してた子も、愛の優しいとこ好きって言った。……おれと同じだった」

 何でそんな苦しそうな顔してんの。お前と同じってなんだよ。

 「おれの代わり……たくさんいるから」

 嫌われるの次は、代わりがいる?
 ……ふざけるな。

 「いるわけないだろ! そんなの言ってくれれば――」

 「……ぃ」

 俺が最後まで言い終わる前に、龍之介が消え入りそうな声で「何か」言った。

 「今……なんて言った」

 本能が「聞くな」と警鐘を鳴らす言葉。

 一歩詰め寄ると、龍之介は、潤んだ瞳で、悲しそうに俺を見上げた。

 「……愛先輩、きらい」

 心臓が、一瞬止まった気がした。
 耳元で、血の気が引く音がする。

 「愛」じゃなくて、「愛先輩」。
 そして、「きらい」という、何よりも重い拒絶。

 「……待て、龍之介!」

 いつもの「りゅうくん」なんて自制は、もう効かなかった。
 喉の奥から絞り出した、本当の意味で呼び止めるための名前。

 けれど、俺が伸ばした手は、空を斬った。

 「おい……!」

 龍之介は、逃げるように背中を向けて走り出した。
 追いかけようとした足が、地面に張り付いたみたいに動かない。

 『きらい』

 その三文字が、脳内でリピート再生され続ける。
 夕暮れの裏道。俺は一人、冷え切った手のひらを見つめて立ち尽くしていた。



 「……はぁ」

 部屋の明かりをつける気力もない。
 手元のスマホ画面だけが、暗闇の中で虚しく光ってる。

 龍之介とのトーク画面の最後には、『気を付けて帰れよ』という既読済みのメッセージ。

 ――愛先輩、きらい。

 脳内で再生されるその声が、ナイフみたいに心臓を削る。

 やらかした。
 喧嘩……だよな。そんな可愛いもんで済まされるのか、これ。

 大人げなかった。言い過ぎたのは分かってる。
 そもそもあいつが黙り込むから。

 ……いや、違う。
 あいつがあんな顔をしたのは、全部、俺のせいだ。

 打っては消し、打っては消し。
 液晶の光が目に刺さって痛い。
 『ごめん』。たった三文字が、エベレストより高く感じた。

 そのとき。

 「ねーえ、いーくん! 聞いてよ、私の推しがさあ、今回のイベントで――」

 なんの前触れもなく、ガチャリとドアが開いた。
 ノックという然るべきマナーを知らない生物――姉の(こころ)が、土足同然の勢いで部屋に踏み込んでくる。

 「うわ、暗っ! 何、寝てんの? 」

 こいつに絡まれるのだけは、本気でダルい。特に今は、一分一秒でも無理だ。
 スマホを伏せ、枕に顔を埋めてやり過ごそうとする。

 「ついに闇の力に目覚めた? 厨二病?っていうか、スマホ見てたよね? 起きてんじゃん」

 「……出てけ。あと、その呼び方やめろって言ってるだろ」

 「何よその態度。自分のこと『いーくん』って言ってきゅるきゅる可愛かったボクちゃんは、どこ行ったのよ」

 勝手に壁のスイッチを叩かれた。
 パッと部屋が明るくなって、眩しさに呻いて、目を細める。

 「あのね、私の推しが尊すぎて呼吸困難なんだけど、共感の嵐を巻き起こしたくて」

 早く出て行ってほしいのに、こいつは一方的に喋り続ける。
 遠慮っていう二文字、こいつの辞書には載ってないらしい。

 「知らねーよ。呼吸止めてそのまま永眠しろ」

 「ひどっ! 高二にもなって反抗期? それとも何、好きな子にフラれたとか?」

 「…………うるせえ。死ね」

 「え、何その沈黙。図星? あー、りゅうくんだっけ?」

 「……っ、なんでお前が名前知ってんだよ」

 「あんたがニヤニヤしながらスマホ見てたの、こないだ後ろから盗み見たからに決まってるじゃん」

 姉はベッドの端に腰掛け、面白がるように俺の顔を覗き込んできた。

 「あーあ、いーくん。顔死んでるよ。フラれたの? ねえフラれたの?」

 普段なら「消えろ」の一言で追い出すところだけど、今の俺にはそんな気力すら残ってなかった。

 「フラれてねーよ」

 「でも喧嘩したんでしょ。あんた、実は独占欲モンスターだし。どうせ、嫉妬に狂って暴走したんでしょーね」

 「……黙れ」

 「はいはい。やっといーくんに春が来たんだから、お母さんに報告しよ~っと 」

 「……ふざけんな」

 最悪だ。そんな恰好のエンタメにされてたまるか。

 「大丈夫!フラれたら慰めてあげるから! あ! でも、仲直りしたら、ちゃんとお姉ちゃんに紹介しなさいよ!」

 「マジで出てけって」

 姉は嵐のように喋るだけ喋ると、満足したのか「頑張れ、思春期!」とだけ残して部屋を出て行った。

 再び訪れた静寂。
 明るくなった部屋で、天井を見つめながら、さっきの心の言葉を反芻する。

 ――独占欲モンスター。

 「…………分かってるよ、そんなこと」

 龍之介が俺だけを見ていないことに腹を立てて、あいつを追い詰めた。暴走した自覚も、ある。
 それに。

 『おれの代わり、たくさんいるから』

 告白は断った。他に好きなやつなんていない。
 龍之介のことが、自分でも引くくらい好きだ。
 なのに、なんであいつはあんな顔した?

 廊下でのあれを、あいつは見てたのか。
 でも、だからって――。

 そこまで考えて、思考が止まる。
 違う。たぶん、そこじゃない。

 「……じゃあ、なんだよ」

 答えは出ない。
 ただ、胸の奥に、嫌な予感だけが残る。

 結局、何も送れないまま。
 俺はスマホをベッドに投げ出した。


 寝不足で朝を迎えた。

 リビングへ降りれば、ニヤニヤとこっちを見てくる母と姉。
 全てを察して「勝手に喋んな。死ね」と吐き捨てたら、暴力口軽女――姉の蹴りが脛にクリーンヒットした。

 「っ……!」

 地味に痛い。普通に痛い。
 最悪の気分のまま、家を出た。

 HR前、まだ数人しかいない教室。

 「おーい、明宮。うーわ……お前、顔死んでるぞ?」

 里中が呑気に声をかけてくる。

 「朝からうるせえ」

 脛はじんじん痛むし、胃も重い。
 何より――頭が最悪だ。
 昨日の自分の醜態が、泥みたいにこびりついて離れない。

 完全にどうかしてた。
 腕をあんなに強く掴んで。追い詰めて、一番言わせたくない言葉を吐かせた。
 大好きで、大切で、世界で一番守りたいはずなのに。俺は自分の汚い独占欲で傷つけた。

 ……最低だ。俺、あいつに何て謝ればいい?
 拒絶されたら? 本当に「きらい」だと思われていたら?
 そしたら、今度こそ終わりだ。立ち直れない。

 そのとき、ガラッと教室のドアが開いた。

 「……愛」

 龍之介が立っていた。
 髪はあちこち跳ねて、肩で息をしてる。必死で走ってきたのが一目でわかった。
 手には、パンパンに膨らんだコンビニの袋。

 気づいたら、椅子を蹴るように立ち上がっていた。

 「……りゅうくん」

 近くで見ると、龍之介の目が少し赤く腫れている。
 ……こいつ、泣いたのか。一晩中、俺のあんな言葉を思い出して?

 「これ……愛にあげる」

 「え?」

 「……ごめん」

 机に置かれた袋の中を覗いて、息が止まった。
 ビターチョコ。ブラックコーヒー。
 前に一度だけ「うまい」って言ったグミや、よく買ってるスナック菓子。

 ――これ、全部

 「俺の好きなやつじゃん……」

 そんなの、覚えてたのかよ。
 俺が何気なく口にした一言とか、無意識に選んでるもの。
 こいつは、そういうのを。俺が気づかないような小さな欠片を、全部拾い集めてくれてたのか。

 「昨日……きらいって言って、ごめん」

 「きらい」なんて言っておきながら。
 朝からコンビニを回って、俺のためにこれを揃えたのか。
 ……いや、違う。
 あんなの、龍之介が本気で言うわけないってことくらい、分かってたはずだ。
 分かってたのに、俺は余裕をなくして暴走した。
 あの一言で、俺がどれだけ絶望して、どれだけぐちゃぐちゃになったか。……たぶん龍之介は分かってない。

 「……こんなに食べきれないよ」

 自分でも驚くほど声が震えた。
 情けねえ。格好悪い。でも、もうどうでもよかった。

 「俺も、暴走した。ごめん。……りゅうくん」

 手を伸ばしかけて、指先が躊躇う。
 また、怖がらせるんじゃないか。
 昨日、あんなに強く掴んでしまった場所に、痣が残ってたらどうする。
 そう思うと喉が詰まる。
 それでも、ここで逃げる方が、もっと無理だった。

 ゆっくり手を伸ばして、白いもちもちとした頬に触れる。
 龍之介は少しだけ肩を震わせたけど――逃げなかった。

 「愛……」

 「もういい。仲直り、な。お前、ほんと……」

 バカ。って言おうとしてやめた。バカは俺の方だ。

 ぐいっと抱き寄せると、龍之介の体温が胸に伝わってきた。
 それでやっと、酸素が肺に入ってきた気がした。龍之介がいなきゃ、俺は呼吸も碌にできない。

 「うわっ、朝からイチャイチャすんなや!」

 「龍之介くん、また明宮に餌付けされてんの? ん!? 逆か!?」

 里中と、いつの間にか登校してきてた山田の声を冷やかしを「うるせえ」って追い払いながら、龍之介の耳元に口を寄せる。

 「でも、次からはちゃんと話してほしい。黙り込まれたら、俺……本当にお前に捨てられたかと思って、死ぬかと思った」

 「ぅん……」

 チャイムの音にかき消されそうな、小さな、けれど確かな返事。
 とりあえず、最悪の事態――破局だけは免れた。

 けど。
 龍之介の中で何かが引っかかってるのは、消えてない。
 何を怖がって、何を飲み込んだのか。
 その「核心」に手を突っ込まない限り、ちゃんとした仲直りにはならない。

 ……昼休みだな。

 決着は、そこでつける。

 昼休み。
 俺は初めて、自分から一年三組の教室へ足を向けた。

 一年生のフロアは、二年のそれよりもどこか浮ついていて、騒がしい。
 階段を上る足取りが、自分でも驚くほど重い。
 たかだか、後輩の教室に行くだけだろ。なのに、なんでこんなに緊張してんだよ。

 一年三組。

 入り口のドアを開けた瞬間、教室中の視線が俺に突き刺さった。
 ……正直、少し心が折れそうだ。
 あいつも、初めて俺の教室に来たときはこんな気持ちだったんだろうか。

 「あ、明宮先輩……」
 「マジ? 本物?」
 「うっわ、レベチじゃん」

 飛び交うヒソヒソ声を無視して、「塊」を探す。

 いた。

 一番後ろの席で、机に突っ伏してる。

 「お客様、お時間ですよー」

 椅子を軽く揺すると、龍之介がびくりとして顔を上げた。
 寝ぼけてるのか、頬に少しだけ袖の跡がついてる。
 ……可愛すぎんだろ。
 一瞬、本気で抱きしめかけて、寸前で思いとどまる。

 「愛? なんでここに」

 いつもの犬みたいな元気がない。それは、ここ最近ずっとか。

 「なんでって……。飯。行くぞ」

 「……ん」

 拒絶されなかったことに安堵して、龍之介を連れ出す。
 人気のない校舎の隅の階段。そこに並んで座った。

 「朝、ありがとな。これだけじゃお礼になんねーけど」

 「おれ、これ好き。ありがと。愛、怒ってなくて……よかった」

 そんな姿すら、たまらなく可愛い。それに、いつもちゃんとお礼が言えて偉いな。
 なんて、つい、『龍之介愛でタイム』に入りかけたけど、今はダメだ。それは、後。

 ここからが本番。一度だけ、深く息を吐き出す。

 「……なぁ。お前、最近ずっと様子変だったろ。目合わせようとしないし、会話にならなかったり」

 「…………」

 「昨日、お前『おれの代わり、たくさんいるから』って言ったよな」

 龍之介がいちごミルクを飲む手が止まった。
 視線は落ちたまま。

 「……わかんない」

 ぽつりと、掠れた声が漏れた。

 「なんか、変で……」

 俯いたまま、表情は見えない。
 けど、一生懸命言葉を探してるのは、分かる。

 「おれの好き……ちゃんとしたやつじゃない気がして」

 やっぱり、そうだ。
 思い返せば、龍之介の様子がおかしくなったのも、あの日からだ。

 「俺が告られてたとこ、見たんだろ」

 龍之介の肩が、びくりと跳ねた。

 「……ん」

 「で、あいつも言ってたからだろ。俺の『優しいとこが好き』って。だから、お前のと一緒だと思ったんだろ」

 龍之介は否定しなかった。
 指先に力が入ったのか、膝に置かれたいちごミルクの紙パックが少し潰れている。

 バカか、こいつは。
 ありふれた好き? 代わりがきく?
 そんなわけねーだろ。

 ……いや、違うな。
 龍之介の不安は、そんな軽いもんじゃない。
 こいつは――。
 俺を好きになった理由が、他の奴と被っていることに怯えてるんだ。

 俺の中身を見て好きになったのは自分だけだと思ってたのに。
 同じ「好き」を口にするやつを見て、自分のそれが特別じゃないんじゃないかって。
 代わりがきく、どこにでもある感情なんじゃないかって。

 だから、あんな顔をしたのか。
 ……ほんと、バカ。

 「一緒にすんな」

 断定した。
 龍之介が、弾かれたように顔を上げる。

 「お前が俺に向けてるそれと、あいつらが勝手に言ってくる『好き』。そんなもん、同じに見えるわけねーだろ」

 「でも、同じ理由で……」

 「理由なんて後付けだ。中身見ろよ」

 困惑と、自分を責めるような、今にも泣き出しそうな瞳。
 ……分かってないな、本当に。

 龍之介が朝届けてくれたコンビニの袋を思い出しながら、指を折って一つずつ数え上げる。
 言葉にできないって言うなら、俺がお前の行動を全部拾い集めて証明してやる。

 「りゅうくんさ」

 「うん」

 「俺の教室、毎日来てたよな。俺が呼んだわけでもなくても。当たり前みたいに隣座って、弁当のおかず交換しようとかさ」

 「…………」

 「あれ、誰にでもやってんの?」

 問いかけると、龍之介は小さく首を振った。

 「……やってない」

 「今朝だってそうだろ。俺の好きなもん、あんなに覚えてて、袋いっぱい買い込んで。……あんなこと、誰にでもする?」

 今度は、もっとはっきりと、俺の目を見て答える。

 「しない。愛にしか、したくない」

 そこだ。逃がさないように、その瞳をまっすぐ見つめた。

 「それを……誰と一緒だと思ってんの」

 龍之介が、息を呑むのが分かった。

 「お前の『好き』が、そんな安いもんだったら。俺がこんなに振り回されて、余裕なくしてねーよ」

 独占欲モンスター。
 姉の言葉が脳裏をかすめるが、今は否定する気も起きない。
 余裕のない、格好悪い、自分でも引くくらいの底なしの執着。
 それを引き出したのは、他でもないお前なんだよ。

 「でも、おれ、分かんない。言葉にしようとすると、逃げてっちゃうから」

 俺は、龍之介のふわふわした髪に手を置いて、くしゃくしゃに撫でた。

 「分かんなくても、俺はちゃんと分かってるから。代わりがきくなんて二度と言うな。お前の行動も、視線も。……全部俺にしか向いてねーの、俺が一番知ってる」

 言葉なんて不完全でいい。
 龍之介が説明できないなら、俺が一生かけて、その「好き」の意味を当て続けてやる。

 ……それなのに、納得のいかない不安そうな顔をしている。
 まだ足りないか。だったら仕方ない。俺の汚い部分、全部くれてやる。

 「あいつらは、俺の外面とか、たまたま見た『優しさ』っていう一部のパーツを切り取って好きだのなんだの言ってるだけだ」

 でも、龍之介は違うだろ。

 「お前は、俺のどうしようもなく汚い独占欲とか。余裕なくてダサいとこまで全部見て、それでも変わらず『好き』って言っただろ」

 自分でも恥ずかしいこと言ってる自覚はある。でも、言わなきゃ龍之介に伝わらない。

 「そんな重くて、不器用で、めちゃくちゃな『好き』をくれる奴、お前以外にどこにいんだよ」

 龍之介を構成する細胞一つ一つに俺が刻み込んでやりたいくらいだ。

 「俺にとっての特別は、理由が被ってるかどうかじゃない。……『龍之介』だから特別なんだよ。だから、お前はただ、俺の隣にいろ」

 一気にまくし立てておいて、猛烈に後悔する。
 たぶん人生でこんなに喋ったのは初めてだ。自分でもキモいと思う。
 だけど、それ以上に――龍之介を手放したくなかった。

 そのとき、龍之介の大きな瞳から、じわっと涙が滲んだ。
 ……しまった泣かせた。

 「おれ、ほんとに、代わりじゃない?」

 「ああ。世界中探しても、りゅうくん以上のバカで可愛い塊はいないよ」

 「塊……?っていうかおれ、バカじゃないもん……」

 ぐずぐずの鼻声で、でも、やっとピントの合った瞳で俺を見るから。
 俺の表情筋は、勝手に緩んでしまう。

 視界の端で、階段を通りかかったやつらが「うわ、明宮先輩が笑ってる……」とか聞こえたけど、知るか。
 今は、この腕の中にある「特別」だけで、俺はいっぱいだ。

 「……ずるい」

 溢れた涙を拭いもせず、ご不満そうに唇を尖らせる。

 「なにが?」

 「愛、ずるい。そんなの、かっこよすぎる。……おれ、愛のことしか考えられなくなるじゃん」

 真っ赤な顔で、真剣に訴えてくる。
 ……はぁ、心臓に悪い。どの口が言ってんだ。

 「今更かよ。今までだって、りゅうくん、俺のことしか考えてなかっただろ」

 余裕あるフリして、いつもの「明宮愛」を演じてみせた。なのに――

 「……うざい」

 「…………は?」

 一瞬、耳を疑った。
 固まる俺をよそに、龍之介はぷいっと顔を背ける。

 「待て、うざい!? お前、昨日『きらい』って言った次は『うざい』かよ。今度こそ俺、死ぬから。マジでやめて。心臓止まる」

 一瞬で余裕が崩壊して、素で焦る。
 そんな俺を見て、龍之介が「ふふっ」と悪戯っぽく笑った。

 「うそだよ。愛、大好き」

 確信犯だろ、こいつ。
 天然なのは知ってる。自分の顔面がどれだけ周囲に、特に俺に効くか分かってないのも知ってる。
 なのに、このタイミングでその笑顔、その発言。

 小悪魔のフルコンボかよ。

 「…………生意気」

 俺の中でいろんな感情が混ざり合って、気づけばそのもちもちとした頬を両手で挟んでいた。
 そのまま、引き寄せて唇を重ねる。
 口の中に、いちごミルクの甘い香りが溶け出すように広がった。

 「ん……っ」

 不意に漏れた龍之介の吐息が、俺の喉奥まで届きそうな気がして。
 逃がさないように、少しだけ深く、確かめるみたいに食んだ。
 服の生地をぎゅっと掴む、龍之介の指先の震え。
 その無自覚な甘え方が、俺の独占欲をどれだけ煽るか、こいつは一生気づかないんだろう。

 昨日までの冷え切った焦燥感が、重なる体温一つで嘘みたいに溶けていく。
 結局、俺はこいつにしか救われないし、こいつにしか狂わされないんだ。

 生意気な口をきくようになったなと思う反面、そんな一言に一喜一憂している自分が、相当重症な自覚はある。
 ……まあ、いい。自覚がある分、まだ救いがあると思いたい。

 唇を離すと、龍之介がとろんとした目で俺を見た。

 「久しぶりに、ちゅーしたね」

 「っ、お前……! いちいち言うな、恥ずいだろ」

 破壊力が違う。少しは俺の心臓を労わっていただきたい。
 俺は熱くなった顔を隠すように、龍之介の腕を引いて立ち上がらせた。

 「ほら、戻るぞ。朝の菓子、放課後二人で食おうな」

 「やった。お菓子パーティーだ」

 階段を降りる途中、ふと気になっていた『あれら』の行方を聞いてみた。

 「そういや。お前、俺のクラスのやつらからよく菓子貰ってるよな。……あれ、どうしてんの」

 「あー……。あれ、いつも食べるの忘れちゃう」

 「は?」

 「いつも鞄とか机の中でぐちゃぐちゃになってんの。この前、グミがスライムになってたんだよね」

 「……は?スライム?」

 「うん。なんかさ、袋の中でドロドロになって一つの集合体になってた。青かったからソーダ味だと思う。愛に見せてあげるね」

 「見せなくていいよ……」

 一瞬呆れたけど、すぐに胸の奥がじんわりと温かくなった。
 ――なんだ、答えは最初から出てたんじゃないか。

 他のやつから貰ったものは、存在すら忘れて放置。
 なのに、俺の好きなものは完璧に覚えていて、朝からコンビニをはしごする。
 これ以上ないくらい、きっちり線引きしてやがる。

 「りゅうくん、そのスライム、絶対に食うなよ。捨てるか俺に渡すこと。いい?」

 「えー。愛、やっぱスライム見たいんじゃん。食べるの?」

 「食わねーよ。お前が腹壊すのが嫌なだけだ」

 隣で笑う龍之介。
 その横顔を見ながら、俺は心の中で姉に独占欲モンスターで結構、と中指を立てた。

 「今日、当番サボるか」

 「え、ダメだよ。うさぎお腹空いちゃうもん」

 「…………だよな」

 やっぱり、うさぎにはまだ勝てそうにない。
 放課後は、またうさぎに嫉妬するんだろう。けど、そのあとの「お菓子パーティー」で、こいつをたっぷり独り占めさせてもらうとしよう。