愛って呼んでいい?

 おれの中には、愛のことだけが詰まってる特別な場所がある。

 みんなが見てるのは、クールな「明宮愛」。
 でも、おれが知ってるのは違う。
 絆創膏を貼ってくれた時の指先の熱とか。「放っておけない」って言いながら、困り果てたように、でも世界で一番優しく笑ってくれたあの顔とか。

 それを思い出すと、なんだか安心する。
 ちゃんと、ここにあるって、確かめられるから。
 だから、それはずっと――おれだけのものだと思ってた。

 ……思ってたのに。

 その確信は、ほんの数分で、あっけなく揺らいだ。


 移動教室の途中。人影がまばらな渡り廊下の陰に、見覚えのある背中を見つけた。
 愛だ。
 いつもなら迷わず「愛!」って駆け寄るのに。

 「……明宮先輩、ずっと前から、好きでした」

 おれの足は、氷でも流し込まれたみたいに動かなかった。

 女の子の声は震えてたけど、真っ直ぐだった。
 愛はいつものようにポケットに手を突っ込んだまま、それを聞いてる。

 告白される愛を見るのは、初めてじゃない。
 今までの人たちはみんな、「顔がかっこいい」とか「雰囲気が好き」とか、そんなのばっかり。
 そのたびに愛が「迷惑」って冷たく切り捨てるのを、おれは何度も見てきた。

 みんな、愛の綺麗な顔が好きなだけ。
 だからおれも、どこか他人事みたいに聞き流せていたんだ。

 けど。次に、その子が言った言葉で、胸の奥が、ざらっとした。

 「先輩、すごくクールに見えるけど、本当は誰よりも優しくて……。実はすごく面倒見が良いところ、私、知っています。そんな先輩が、大好きなんです」

 女の子の声が、静かな廊下に響く。
 おれは、呼吸するのを忘れた。

 ――それ、おれと同じだ。

 おれが愛を好きになったのも、あの日、おれの怪我を見つけて手当てしてくれた、あの優しさに触れたから。
 顔がかっこいいからじゃない。
 おれだけが知ってると思ってた、あの内側の柔らかいところに惹かれたから。

 それを、あの女の子も同じように見つけて、同じように「好きだ」って言ってる。

 じゃあ。おれの『好き』も、あの子と一緒なの?

 愛は「無理」ときっぱり断ってた。でも、その声はうまく頭に入ってこない。
 おれの中にあるこの熱は、世界にたった一つしかない特別なものだって信じてたのに。

 もしこれが、誰にでも抱けるような、ありふれた好きと同じなんだとしたら。
 この気持ち、実は軽くて、代わりがきくものなのかもしれない。

 独占したいわけじゃない。愛を困らせたいわけでもない。
 愛は告白を断ったし、今だっておれの恋人なのに。

 ……なのに。

 なんで、こんなに。

 だめだ。
 それ以上考えようとすると、頭の奥に砂嵐が広がって、思考がプツリ途切れる。

 愛がこっちを振り返る前に、おれはその場をそっと離れた。
 胸の奥が、なんだか苦しい。
 空気を吸い込もうとしても、喉の奥で何かがつっかえて、うまく呼吸ができない。

 その日の放課後、昇降口に現れた愛は、おれの顔を見つけるなり、いつものように柔らかく微笑んだ。

 「ごめん、待たせた?」

 「おれも今来た」

 おれの手を握ろうと、伸びてきた愛の大きな手をおれは反射で握り返した。
 けど、繋がれた手の温もりが、すごく遠い気がした。
 前は、触れられるだけで息が止まりそうだったのに。
 今は、そこにあるはずの温度に、自分の感覚が追いつかない。

 「今日、どっか寄る?」

 並んで歩く帰り道。いつもなら、コンビニとか、たまに寄り道とか。
 そういう、なんでもない提案。

 「……なんでもいい」

 この前も誰かに言った気がするその言葉。
 自分でも、その言葉が変だって分かってる。
 でも、他に何を言えばいいのか、思いつかなかった。

 「……そっか」

 愛が、小さくそう返した。

 そのあとの会話は、たぶん普通に続いてた。

 「今日、里中がさ」なんて話す愛の声に、おれはいつも通り微笑んで頷いている……つもりだった。
 でも、言葉が喉の奥で渋滞して、うまく出口が見つからない。

 『本当は誰よりも優しい』
 『面倒見が良い』

 あの女の子の声が、頭の中で繰り返される。

 ……知ってる。

 おれも、同じ、だったら。
 じゃあもう、おれじゃなくても、いいんじゃないか。

 「りゅうくん」

 不意に距離が近くなる。

 「今日、おかしいぞ」

 気づいたら、愛が立ち止まってた。

 「体調悪い?それとも、またどっか怪我した?」

 「大丈夫」

 その優しい声に、おれはいつも通り、笑えていただろうか。

 「愛のこと……見てただけ」

 嘘じゃない。でも、全部でもない。

 「お前さ、……俺のこと、好きか?」

 その言葉にハッとして、顔を上げた。
 知らないうちに視線が地面に落ちていたらしい。
 愛の目が、まっすぐこっちを見てる。逃がさないみたいに。
 でも――怖がってるみたいに。

 「……うん。好きだよ、愛」

 迷わず言った「正解」の言葉。
 でも、自分でも驚くほど、その声はやけに軽く聞こえる。輪郭が、ぼやけてる。

 ……これ、おれの好きじゃない。

 ただ、言葉をなぞってるだけだ。
 愛が欲しそうな答えを、選んで、さっきの女の子が言ってた「好き」をコピーして吐き出しただけ。

 ……気持ち悪い。

 愛の目が、少しだけ細くなる。
 鋭くて。同時に寂しそうで。

 気づけば、さっきまで繋いでた手が、いつの間にか離れている。
 どっちから離したのか、わからない。

 何か言わなきゃいけないのに。ちゃんとおれの言葉で。
 なのに、頭の中は砂嵐に覆われたまま。
 さっきと同じ。何も掴めない。

 おれは、愛のことが好きなはずなのに。
 その「好き」が、どこにあるのか、どういう形なのか、今は全然わからない。