愛って呼んでいい?

 おれは今、ピンク色の霞の中にいる。

 愛と付き合い始めてから、足元がずっとふわふわしてるんだ。
 「愛と一緒にいたい」とか「愛が好き」とか。
 そういうバカみたいに単純で、どうしようもない熱がおれの真ん中にどっしり居座ってる。
 言葉にしようとすると指の間からこぼれちゃうから、もう、この熱に身を任せるしかない。

 「愛!」

 昼休みの二年三組の教室。
 友達と喋ってた愛が、おれの声で肩をビクッと揺らした。
 それから、柔らかく笑って、隣の椅子が引かれる。

 「りゅうくん、いらっしゃい」

 今の声のトーン、甘すぎる。
 「いらっしゃい」でそんな顔する?
 おれを溶かすつもり?

 気づけば、吸い寄せられるように愛の隣に座っていた。

 「ね、愛。今日のこれ、あげる」

 お弁当の具材を一つ摘んで、愛の口元へ。
 さあ、どうぞ!

 「……おい。ここ、教室だぞ。みんな見てる」

 「一個だけ。だめ?」

 首を傾げて、じーっと見つめる。
 愛は眉間にシワを寄せて葛藤してるけど、結局は折れる。おれ、知ってる。
 ほら、観念したみたいに口を開けた。

 ぱくり、と。

 指先が愛の唇を掠める。
 その瞬間、心臓がギュムッて変な音を立てた。
 このまま一生、昼休みが続けばいい。この教室ごと止まればいいのに。


 隣でパンを食べる愛の横顔。
 造形が綺麗すぎて、見てるだけでお腹いっぱいになる。
 ……いや、ならない。むしろ足りない。

 たまらず、愛の背中にぺたっとくっついた。
 座ってる愛の肩に顎を乗せて、首筋に顔を埋めさせていただく。
 愛の匂い。
 これが一番落ち着く。

 「……近い。離れろ」

 愛が手のひらで、おれの顔をぐいぐい押し返してくる。
 でも、力が全然入ってない。
 クールな「明宮先輩」を演じてるつもりだろうけど、耳の先、リンゴどころか茹で上がったタコみたいに赤い。

 余裕、なくなってる。
 おれのせいで愛がバグってる。それが最高に嬉しい。

 「やだ。今、充電中だから」

 「充電ってなんだよ。電池か」

 でも、腰を支える愛の手は、おれが後ろにひっくり返らないようにそっと添えられたまま。

 言葉は冷たいのに、おれに触れてる手のひらだけ、めちゃくちゃ優しい。
 本当に反則だと思う。

 「おーおー、今日もアツいねぇ。龍之介くん、本当に明宮にベッタリじゃん」

 ニヤニヤしながら近づいてきたのは、里中先輩と山田先輩。

 「距離感どうなってんの?それ合法?」

 「むしろ明宮が許してんのが一番意味わからん」

 この前、愛に「殺すぞ」なんて言われてたのに、今じゃ完全に特等席の観客だ。
 陽キャのメンタル強すぎる。

 「先輩、こんにちは。暑いですか? 今日、昨日より寒いって天気予報で――」

 「ちがうちがう!そういう意味じゃねぇ!」

 里中先輩が一瞬ポカンとした後、爆笑し始めた。

 「あはは! 龍之介くん天然記念物じゃん。明宮、お前よく耐えられるな」

 「天然っていうか超次元だろこれ」

 山田先輩も大爆笑。
 超次元ってなんだ。超次元サッカーでもしろってことか?

 「お前らには関係ねぇよ。さっさと散れ」

 愛が追い払おうとするのを完全無視して、里中先輩がポケットからチョコを取り出した。
 「おにーさんからの差し入れ」だそうだ。

 「ありがとうございます」

 手を伸ばした瞬間。
 愛の手が横から伸びてきて、おれの前に壁を作った。

 「こいつ、甘いもん食いすぎると昼飯残すから。やるな」

 「えー、ケチだな明宮。保護者かよ」

 「いいから、行け」

 愛の声が、一段低くなる。
 ちょっとだけ独占欲入ってるやつ。
 ……ダメだ。たまらなく、嬉しい。

 里中先輩たちが「はいはい、パパ宮サマ~」なんて言いながら離れていく。
 周りのクラスメイトも「またやってるよ」「明宮、あの子には甘いよな」って笑ってる。

 みんな、おれたちを「仲良しな先輩後輩」だと思ってるみたい。
 ……たぶん。
 「付き合ってんの?」ってからかわれることはあっても、本気にしてる人は一人もいないんだろうな。
 内緒みたいで、ちょっといいかも。

 「なに、にやにやしてんの」

 愛が、おれの頬を指先でぷにっとつついた。

 え、おれ、にやけてた?
 全然気づかなかった。

 でも、「おれ、本当に愛と付き合ってるんだ」って事実が胸の奥で暴れるたびに、顔の筋肉が勝手に仕事をやめる。
 脳みそが幸せでふやけて、表情筋が完全にバカになってるんだ。

 「……してないもん」

 慌てて口を真一文字に結ぶ。
 けど、目の前の愛が余裕たっぷりに「ふーん?」なんて微笑むから。
 その顔が、あまりにかっこよくて甘いから。

 おれの制御機能は、即死。

 これ以上にやけないように、勢いよくお弁当をかき込む。
 でも、愛が食べてるパンを見てると、不思議とそっちが食べたくなってくる。
 母さんの自信作も美味いんだけど、愛が持ってるものは、全部おれのものよりキラキラして見えるんだ。

 あ、あれだ。「隣の芝生はもこもこ」みたいなやつ。
 ……いや、違う。ただ愛のパンだから食べたいだけだ。

 おれは箸を置いて、愛の手元をロックオンした。

 「愛のコロッケパン、一口ちょうだい」

 「あー、ほら。……って、あーじゃねえよ! 自分で食え」

 口元までパンを運ぼうとした愛が、慌てて手を引っ込めた。
 それでもおれの「パンくれビーム」に負けて、結局パンを小さくちぎって口に押し込んでくれる。

 「ありがと。おいしい」

 「よかったな。あ、待って、りゅうくん付いてる」

 おれの口元についたソースを、指先で、優しく拭って、目を細めて笑った。

 ……今の笑い方、ずるい。反則。
 おれの心臓、そろそろ口から飛び出してきそう。

 なんて思ってたら、チャイムが鳴って、昼休みが終わる。
 手を振って帰ろうとした時、愛が何か言いたげに口を動かした。
 でも、すぐにまた口を閉じてしまう。

 「……りゅうくん」

 「ん?」

 「さっき……里中が触ろうとした時……」

 おれの顔をじっと見たまま、何かを必死に堪えてるみたいだ。
 それから、逃げるみたいに視線を逸らした。

 「……なんで避けなかったんだよ。あいつ、お前のこと可愛いとか言ってただろ」

 「なんでって……」

 理由なんてない。里中先輩はただの先輩だ。
 おれがどう答えていいか分からなくて固まってると、愛の目が、急に冷たくなった。
 今の愛、すごく怖い。

 「……俺以外のやつ、あんなに近くに寄らせんな」

 これ、うさぎの時と同じだ。

 「おれは、愛がいればそれでいいよ」

 おれにとっては愛以外の人なんて、ただの背景みたいなもの。誰が近くにいようが、興味ないのに。

 「……そう。そうだよな」

 でも、愛は違うみたいだ。

 おれの言葉に、愛が笑った。
 でもそれは、さっきまでの甘い笑い方とは違う。
 納得したような、それでいて、ひどく遠いものを見るような、寂しげな笑み。

 「愛?」

 「お前は、そういう奴だよな」

 その笑みの意味が、おれには全然わからなかった。
 なんで愛に、そんな今にも消えちゃいそうな顔をさせてしまったんだろう。

 「じゃあ、また放課後」

 愛が背中を向ける。
 席に戻っていく歩き方が、いつもより少しだけ速い。

 おれは立ち止まったまま、ただその背中を見送ることしかできなかった。
 さっきまであんなに熱かったおれの真ん中の「好き」が、今はなんだか、嫌な感じにスースーする。

 ――おれ、今のままで大丈夫なのかな。