「早川くん、また怪我してる。はい、絆創膏」
隣の席の女子に言われて、初めて自分の手の甲を見た。
赤い。血がにじんでる。
「あー、ほんとだ。サンキュ」
「気を付けなよ、もう……」
「はーい」って返事をして、貰った絆創膏を引き出しに突っ込む。
貼るのはめんどくさい。
そんなことより、「うさぎ触りたい」なんて考えてる。
おれが高校で選んだ委員会は、飼育委員。
理由は単純、うさぎが可愛いから。
ポケットから、くしゃくしゃになったプリントを引っ張り出す。
今日、さっそく飼育委員会があるらしい。
うちの学校の委員会はちょっと変わってて、同じクラス番号同士でペアを組むことになってる。
一年三組なら、二年三組、みたいな。
『二年三組:明宮 愛』
おれと一緒に水曜日を担当する、二年の先輩。
あきみや……あい、さん?
文字だけ見たら、すごく可愛い。
きっと、可憐な美少女先輩なんだろうな。
だとしたら、ちょっと、緊張するかも。
おれは内心ドキドキしながら、放課後の多目的室へ向かった。
多目的室に入ると、もう何人か集まってた。
プリントの番号を確認して、席に座る。
おれの隣は、まだ空席。
どんな先輩が来るんだろう。おれ、ちゃんと喋れるかな。
そんなことを考えてたら、隣に誰かが座った。
視界に入ってきたのは、スカートじゃなくて、スラックス。
しかも、めちゃくちゃ足が長い。
たぶん、めちゃくちゃ背が高い。
チラリと横を見て、おれは固まった。
……は?
モデル?それとも、どっかのアイドルがロケに来た?
シュッとした顔立ち。さらさらの髪。切れ長で、ちょっと色気のある目。
制服の着こなしまで、なんか、もう、ずるい。
一目でわかる。この人、学校の頂点にいるタイプだ。
おれは手元のプリントと、隣のイケメンを三度見くらいした。
……嘘だろ。
「可憐な美少女」の欠片もない。
この「歩くイケメン図鑑」みたいな高身長男子が、あの可愛い名前の主?
「……あきみや、いとし?」
ぽそり、と口から漏れてた。無意識だった。
すると、隣のイケメン……明宮先輩が、少し驚いたようにこっちを見た。
「……それで合ってるけど」
声まで、かっこいい。反則だ。
「みんな、『あい』って間違えるんだけど。よくわかったな」
「なんか、違う気がしたんで」
「……え?」
「『あい』じゃなくて、……『いとし』先輩って感じがしたから」
愛(いとし)。
これまた名前負けしてないイケメンっぷりだ。
おれの名前とギャップ対決でもするつもりか、なんて、場違いなことを思う。
「へぇ……お前、おもしろいね」
先輩がぐっと顔を寄せてくる。
近い。なんか、めちゃくちゃいい匂いする。
「早川龍之介くん?名前、すごいな。文豪かよ」
「よく言われます。先輩は、名前、かわいいですね」
「……嫌味?」
「いえ、本心です」
真顔で返したら、先輩がふっと笑った。
――あ、やば。
さっきまでのクールな感じ、全部ぶっ壊すくらい、めちゃくちゃかっこいい。
委員会の説明が始まった。
顧問の先生が、うさぎの餌やりや掃除の仕方を淡々と話してる。
だめだ、普通に眠い。
おれは机に頬杖をつきながら、ぼーっと話を聞き流していた。
うさぎって、食べすぎるとお腹壊すんだ。
じゃあ、あの食欲どうなってんの。バグ?
てか、寂しいと死ぬってやつ、あれマジなのかな。
だとしたら人間の方が先に死ぬだろ。
そんなことを考えながら、窓の外の雲を眺める。
――そのとき。
突然、横からぐいっと手首を掴まれた。
「……っ!?」
びっくりして視線を戻すと、先輩がおれの手首を掴んでた。
大きい手。指、長い。てか、熱い。
「おい。これ、ちゃんと消毒した?」
先輩の声が、さっきより低い。
視線の先は、おれの手の甲。さっきの、赤い傷。
「あー……してない、です」
「は?」
「すぐ治るし。めんどくさいんで」
「すぐ治るって、結構ガッツリいってるぞ。どこでやったんだよ、これ」
「どこだったかな……」
階段でつまずいた気もするし、自転車で電柱に挨拶した気もする。
あんまり覚えてない。
おれが答えたら、先輩が深いため息をついた。
「お前……名前はいかついくせに、中身は相当いい加減だな」
「よく言われます」
「褒めてねーよ」
言いながら、先輩は鞄をごそっと漁る。
で、普通に出てくる絆創膏と消毒液。
なんで持ってんの、この人。女子力どうなってんの。
「別にいいです。男だし」
「俺が良くないの。いいからじっとしてろ」
有無を言わせない声。
そのまま、ぐいっと手首を引き寄せられた。
先輩の長い指が、おれの傷に触れる。
――っ、痛。
思わず肩がびくっと跳ねた。
「痛いか?」
「……ちょっとだけ」
「我慢しろ。すぐ終わるから」
手首を包む手のひらが、思ってたよりずっと優しかった。
自然と視線が、先輩の横顔に引っ張られる。
まつ毛、長。
鼻、きれい。
集中してるからかな?ちょっとだけ寄ってる眉間の皺も、なんか――
……きれいだ。
やばい。心臓が、うるさい。
「お前さ……」
「はい」
「これ、どう見ても今日だけの傷じゃないだろ。こっちも、あっちも」
先輩が、おれの腕にある古い痣とか、小さな擦り傷を指さす。
「自分でも気づいてないわけ? こんなに怪我だらけなの」
「まあ、大体は。おれ、治り早いんで」
「……なんでその顔で、そんなに危なっかしいわけ」
先輩は手元を見たまま、低い声で言った。
「名前はいかついくせに、顔、子供ってか、赤ちゃんみたいじゃん。お前」
「……よく言われます。ベビーフェイスだって」
「だろうな。……っつーか、ちゃんと手当しろよ。バイ菌入るだろ」
ぶっきらぼうに吐き捨てたのに、丁寧に絆創膏を貼ってくれた。
仕上げに、その上からトントン、と指先で叩かれる。
先輩がふっと視線を上げた。
……あ。
じっと見てたの、バレた。思いっきり目が合った。
その瞬間、先輩の瞳が、ほんの一瞬だけ揺れた気がした。
「終わったぞ」
素っ気ない声。おれの手の甲には、やけに綺麗に貼られた絆創膏。
ぱっと手が離れた。
急にそこだけ冷えて、変な感じがする。
さっきまでの手の温度とか、匂いとか。
まだそこに先輩がいた感覚が、残ってる。
こんなふうに誰かに手当てされたこと、あったっけ。
いや、あったかもしれないけど。
……なんだこれ。ふわふわする。
落ち着かないのに、なんか、嫌じゃない。こんなの、たぶん初めてだ。
「……愛先輩」
初めて呼ぶ名前。
気づいたら、口が勝手に動いてた。
「んー?」
荷物をまとめながら、生返事が返ってくる。
「好きです」
カチ、と時計の針が鳴った気がした。
…………おれ、今、なんて言った?
初対面で。いきなり。
でも、さっき、あの手で触られたとき。
おれの中の「好き」っていう直感がフルスロットルで反応してしちゃったんだ。
先輩が止まる。完全に固まってる。
数秒の沈黙。
先輩は心底わけがわからないものを見るような目をしてから、おれの額を指でパチンと弾いた。
「……それ、多分違う好きだよ」
余裕ある声。でも、さっきより少しだけ早口。
「そうなんですか?」
「そうだよ。普通、会ってすぐの相手に言うか?」
「でも、好きだと思ったから」
「……お前、誰にでもそんなこと言ってんの?」
「言わないです」
ぶんぶん首を振った。
そんなこと言う相手、今までいなかった。
先輩は小さくため息をついて、立ち上がる。
違う、のかな。
おれも先輩も男だし。こういうの、「好き」って言わないのかも。
でも。
このまま終わるの、嫌だ。
胸の奥がずっとあったかいままなのに。
「でもおれ、愛先輩がいいです!」
気づいたら、先輩の背中に向かって言い切っていた。
ぴくん、と先輩の背中が跳ねる。
「……まあいいや。とりあえず、水曜日の当番、遅れんなよ?龍之介」
先輩は一瞬だけ振り返った。
「いや、りゅうくん」
それから悪戯っぽく笑って、ぽん、と頭に手を乗せた。
そのまま、先輩は手をひらひら振って、廊下の角に消えていく。
初めて呼ばれた、名前。
……りゅうくん。
そんなの、今まで誰かに呼ばれたことあるのに。
先輩の声で聞くと、世界でいちばん特別に聞こえた。
おれは、自分の手の甲を見る。
貼られたばかりの絆創膏。その上を、指でなぞる。
あきみや、いとし。
名前、頭から離れない。
なんだか絆創膏の下が、さっきより、ちょっとだけ熱い気がする。
先輩は違うって言ったけど。
それでも。
やっぱり、おれは――
帰り道。
おれはずっと、左手の甲を眺めてた。
自分ですら忘れてたような小さな傷を、あの人は見つけてくれた。
あの熱い手で、おれの手を包んでくれた。
明宮、愛。
あきみや……。
あ。
入学してすぐ、女子たちが騒いでた名前だ。
二年に「アキミヤ」っていう異次元のイケメンがいる。
クールで、別格で、色気がやばい。
一軍の男子まで「あの人は別格」なんて言ってた気がする。
「……あの人が、そうだったのか」
確かに、異次元だった。
吸い込まれそうな目。耳に残る声。
それに、すごくいい匂いがした。何の匂いだろう。
今度会ったときに聞いてみようかな。
「愛先輩、なんの香水使ってますか?」って。
……いや、さすがにキモいか。
でも気になるしな。
てか、問題はそこじゃない。
今日は、月曜日。
飼育委員の当番は、水曜日。
「……明後日まで、会えないじゃん」
たった二日。
それだけのはずなのに、なんか急に世界の彩度が落ちた気がする。
一回「好き」って思ったら、もうダメだ。止まらない。
おれの脳みそ、基本ポンコツなのに、こういう時だけ無駄に性能がいい。
一点集中型。悪く言えばバグ。
今、おれの脳内は『明宮 愛』で満タンだ。空き容量、ゼロ。
「……待てない」
無理。おれには絶対無理。
うさぎは寂しいと死ぬ(たぶん)。おれも愛先輩に会わないと、干からびて死ぬ。
明日、行こう。
二年生の教室は、一階下。
なんて言う?
「会いたかったので来ました」
シンプル。完璧。
いや、完璧か?
もしドン引きされたら?
まあ、その時はその時でいい。
大丈夫。なんとかなる。なんとか、する。してみせる。
おれはスキップしそうになる足を無理やり抑えて、家まで走った。
胸の奥がずっとうるさい。
明日、早く来い。今すぐ来い。
高校生活、思っていたよりずっと、ヤバいことになりそうだ。
隣の席の女子に言われて、初めて自分の手の甲を見た。
赤い。血がにじんでる。
「あー、ほんとだ。サンキュ」
「気を付けなよ、もう……」
「はーい」って返事をして、貰った絆創膏を引き出しに突っ込む。
貼るのはめんどくさい。
そんなことより、「うさぎ触りたい」なんて考えてる。
おれが高校で選んだ委員会は、飼育委員。
理由は単純、うさぎが可愛いから。
ポケットから、くしゃくしゃになったプリントを引っ張り出す。
今日、さっそく飼育委員会があるらしい。
うちの学校の委員会はちょっと変わってて、同じクラス番号同士でペアを組むことになってる。
一年三組なら、二年三組、みたいな。
『二年三組:明宮 愛』
おれと一緒に水曜日を担当する、二年の先輩。
あきみや……あい、さん?
文字だけ見たら、すごく可愛い。
きっと、可憐な美少女先輩なんだろうな。
だとしたら、ちょっと、緊張するかも。
おれは内心ドキドキしながら、放課後の多目的室へ向かった。
多目的室に入ると、もう何人か集まってた。
プリントの番号を確認して、席に座る。
おれの隣は、まだ空席。
どんな先輩が来るんだろう。おれ、ちゃんと喋れるかな。
そんなことを考えてたら、隣に誰かが座った。
視界に入ってきたのは、スカートじゃなくて、スラックス。
しかも、めちゃくちゃ足が長い。
たぶん、めちゃくちゃ背が高い。
チラリと横を見て、おれは固まった。
……は?
モデル?それとも、どっかのアイドルがロケに来た?
シュッとした顔立ち。さらさらの髪。切れ長で、ちょっと色気のある目。
制服の着こなしまで、なんか、もう、ずるい。
一目でわかる。この人、学校の頂点にいるタイプだ。
おれは手元のプリントと、隣のイケメンを三度見くらいした。
……嘘だろ。
「可憐な美少女」の欠片もない。
この「歩くイケメン図鑑」みたいな高身長男子が、あの可愛い名前の主?
「……あきみや、いとし?」
ぽそり、と口から漏れてた。無意識だった。
すると、隣のイケメン……明宮先輩が、少し驚いたようにこっちを見た。
「……それで合ってるけど」
声まで、かっこいい。反則だ。
「みんな、『あい』って間違えるんだけど。よくわかったな」
「なんか、違う気がしたんで」
「……え?」
「『あい』じゃなくて、……『いとし』先輩って感じがしたから」
愛(いとし)。
これまた名前負けしてないイケメンっぷりだ。
おれの名前とギャップ対決でもするつもりか、なんて、場違いなことを思う。
「へぇ……お前、おもしろいね」
先輩がぐっと顔を寄せてくる。
近い。なんか、めちゃくちゃいい匂いする。
「早川龍之介くん?名前、すごいな。文豪かよ」
「よく言われます。先輩は、名前、かわいいですね」
「……嫌味?」
「いえ、本心です」
真顔で返したら、先輩がふっと笑った。
――あ、やば。
さっきまでのクールな感じ、全部ぶっ壊すくらい、めちゃくちゃかっこいい。
委員会の説明が始まった。
顧問の先生が、うさぎの餌やりや掃除の仕方を淡々と話してる。
だめだ、普通に眠い。
おれは机に頬杖をつきながら、ぼーっと話を聞き流していた。
うさぎって、食べすぎるとお腹壊すんだ。
じゃあ、あの食欲どうなってんの。バグ?
てか、寂しいと死ぬってやつ、あれマジなのかな。
だとしたら人間の方が先に死ぬだろ。
そんなことを考えながら、窓の外の雲を眺める。
――そのとき。
突然、横からぐいっと手首を掴まれた。
「……っ!?」
びっくりして視線を戻すと、先輩がおれの手首を掴んでた。
大きい手。指、長い。てか、熱い。
「おい。これ、ちゃんと消毒した?」
先輩の声が、さっきより低い。
視線の先は、おれの手の甲。さっきの、赤い傷。
「あー……してない、です」
「は?」
「すぐ治るし。めんどくさいんで」
「すぐ治るって、結構ガッツリいってるぞ。どこでやったんだよ、これ」
「どこだったかな……」
階段でつまずいた気もするし、自転車で電柱に挨拶した気もする。
あんまり覚えてない。
おれが答えたら、先輩が深いため息をついた。
「お前……名前はいかついくせに、中身は相当いい加減だな」
「よく言われます」
「褒めてねーよ」
言いながら、先輩は鞄をごそっと漁る。
で、普通に出てくる絆創膏と消毒液。
なんで持ってんの、この人。女子力どうなってんの。
「別にいいです。男だし」
「俺が良くないの。いいからじっとしてろ」
有無を言わせない声。
そのまま、ぐいっと手首を引き寄せられた。
先輩の長い指が、おれの傷に触れる。
――っ、痛。
思わず肩がびくっと跳ねた。
「痛いか?」
「……ちょっとだけ」
「我慢しろ。すぐ終わるから」
手首を包む手のひらが、思ってたよりずっと優しかった。
自然と視線が、先輩の横顔に引っ張られる。
まつ毛、長。
鼻、きれい。
集中してるからかな?ちょっとだけ寄ってる眉間の皺も、なんか――
……きれいだ。
やばい。心臓が、うるさい。
「お前さ……」
「はい」
「これ、どう見ても今日だけの傷じゃないだろ。こっちも、あっちも」
先輩が、おれの腕にある古い痣とか、小さな擦り傷を指さす。
「自分でも気づいてないわけ? こんなに怪我だらけなの」
「まあ、大体は。おれ、治り早いんで」
「……なんでその顔で、そんなに危なっかしいわけ」
先輩は手元を見たまま、低い声で言った。
「名前はいかついくせに、顔、子供ってか、赤ちゃんみたいじゃん。お前」
「……よく言われます。ベビーフェイスだって」
「だろうな。……っつーか、ちゃんと手当しろよ。バイ菌入るだろ」
ぶっきらぼうに吐き捨てたのに、丁寧に絆創膏を貼ってくれた。
仕上げに、その上からトントン、と指先で叩かれる。
先輩がふっと視線を上げた。
……あ。
じっと見てたの、バレた。思いっきり目が合った。
その瞬間、先輩の瞳が、ほんの一瞬だけ揺れた気がした。
「終わったぞ」
素っ気ない声。おれの手の甲には、やけに綺麗に貼られた絆創膏。
ぱっと手が離れた。
急にそこだけ冷えて、変な感じがする。
さっきまでの手の温度とか、匂いとか。
まだそこに先輩がいた感覚が、残ってる。
こんなふうに誰かに手当てされたこと、あったっけ。
いや、あったかもしれないけど。
……なんだこれ。ふわふわする。
落ち着かないのに、なんか、嫌じゃない。こんなの、たぶん初めてだ。
「……愛先輩」
初めて呼ぶ名前。
気づいたら、口が勝手に動いてた。
「んー?」
荷物をまとめながら、生返事が返ってくる。
「好きです」
カチ、と時計の針が鳴った気がした。
…………おれ、今、なんて言った?
初対面で。いきなり。
でも、さっき、あの手で触られたとき。
おれの中の「好き」っていう直感がフルスロットルで反応してしちゃったんだ。
先輩が止まる。完全に固まってる。
数秒の沈黙。
先輩は心底わけがわからないものを見るような目をしてから、おれの額を指でパチンと弾いた。
「……それ、多分違う好きだよ」
余裕ある声。でも、さっきより少しだけ早口。
「そうなんですか?」
「そうだよ。普通、会ってすぐの相手に言うか?」
「でも、好きだと思ったから」
「……お前、誰にでもそんなこと言ってんの?」
「言わないです」
ぶんぶん首を振った。
そんなこと言う相手、今までいなかった。
先輩は小さくため息をついて、立ち上がる。
違う、のかな。
おれも先輩も男だし。こういうの、「好き」って言わないのかも。
でも。
このまま終わるの、嫌だ。
胸の奥がずっとあったかいままなのに。
「でもおれ、愛先輩がいいです!」
気づいたら、先輩の背中に向かって言い切っていた。
ぴくん、と先輩の背中が跳ねる。
「……まあいいや。とりあえず、水曜日の当番、遅れんなよ?龍之介」
先輩は一瞬だけ振り返った。
「いや、りゅうくん」
それから悪戯っぽく笑って、ぽん、と頭に手を乗せた。
そのまま、先輩は手をひらひら振って、廊下の角に消えていく。
初めて呼ばれた、名前。
……りゅうくん。
そんなの、今まで誰かに呼ばれたことあるのに。
先輩の声で聞くと、世界でいちばん特別に聞こえた。
おれは、自分の手の甲を見る。
貼られたばかりの絆創膏。その上を、指でなぞる。
あきみや、いとし。
名前、頭から離れない。
なんだか絆創膏の下が、さっきより、ちょっとだけ熱い気がする。
先輩は違うって言ったけど。
それでも。
やっぱり、おれは――
帰り道。
おれはずっと、左手の甲を眺めてた。
自分ですら忘れてたような小さな傷を、あの人は見つけてくれた。
あの熱い手で、おれの手を包んでくれた。
明宮、愛。
あきみや……。
あ。
入学してすぐ、女子たちが騒いでた名前だ。
二年に「アキミヤ」っていう異次元のイケメンがいる。
クールで、別格で、色気がやばい。
一軍の男子まで「あの人は別格」なんて言ってた気がする。
「……あの人が、そうだったのか」
確かに、異次元だった。
吸い込まれそうな目。耳に残る声。
それに、すごくいい匂いがした。何の匂いだろう。
今度会ったときに聞いてみようかな。
「愛先輩、なんの香水使ってますか?」って。
……いや、さすがにキモいか。
でも気になるしな。
てか、問題はそこじゃない。
今日は、月曜日。
飼育委員の当番は、水曜日。
「……明後日まで、会えないじゃん」
たった二日。
それだけのはずなのに、なんか急に世界の彩度が落ちた気がする。
一回「好き」って思ったら、もうダメだ。止まらない。
おれの脳みそ、基本ポンコツなのに、こういう時だけ無駄に性能がいい。
一点集中型。悪く言えばバグ。
今、おれの脳内は『明宮 愛』で満タンだ。空き容量、ゼロ。
「……待てない」
無理。おれには絶対無理。
うさぎは寂しいと死ぬ(たぶん)。おれも愛先輩に会わないと、干からびて死ぬ。
明日、行こう。
二年生の教室は、一階下。
なんて言う?
「会いたかったので来ました」
シンプル。完璧。
いや、完璧か?
もしドン引きされたら?
まあ、その時はその時でいい。
大丈夫。なんとかなる。なんとか、する。してみせる。
おれはスキップしそうになる足を無理やり抑えて、家まで走った。
胸の奥がずっとうるさい。
明日、早く来い。今すぐ来い。
高校生活、思っていたよりずっと、ヤバいことになりそうだ。

