愛って呼んでいい?

おれは、たぶん、普通より少しだけ「ぼーっとしている」ほうなんだと思う。
自覚はないけれど、周りからはよくそう言われる。
自分ではちゃんと地面を踏み締めて歩いているつもりなのに、気づくと膝を擦りむいていたり、見知らぬ痣ができている。

「早川くん、また怪我してる。はい、絆創膏。……っていうか、ほんと赤ちゃんみたいな顔してどこでそんな傷作ってくるの?」

休み時間、隣の席の女子に呆れ顔で絆創膏を差し出された。  
言われて気づく。手の甲に、赤く滲んだ擦り傷。

「……あ、ほんとだ。サンキュ。どっかぶつけたかな」

「自分のことでしょ。自覚持ちなよ、もう……」

おれは「はーい」と気の抜けた返事をして、もらった絆創膏を机の引き出しに突っ込んだ。貼るのはめんどくさい。どうせすぐ治るし、そもそもどこで怪我をしたのかも覚えていない。

階段で躓いた気もするし、
自転車で電柱に挨拶した気もする。

痛みには疎くないはずだけど、いつ、どこで、何にぶつかったのかを記憶しておくほど、おれの脳内メモリは高性能じゃないみたいだ。


早川龍之介(はやかわりゅうのすけ)

それがおれの名前。

文豪と一文字違いのいかつい名前のせいで、会う前の人からは大抵「厳格そうなやつ」だと思われる。
けれど実際に会うと、みんな一様に「……え?」という顔をする。

おれの顔は、名前の響きに反して、やたらと丸っこくて幼いらしい。
そのくせ、身長は一七八センチあるから、座っているときと立ったときのギャップでまた驚かれる。

そんな面倒なギャップを抱えたおれが、高校で選んだ委員会は「飼育委員」だった。

理由は単純。うさぎが可愛いから。

他の委員会はどれも面倒そうだった。

学級委員なんて柄じゃないし、図書委員は静かにしてなきゃいけない。
その点、飼育委員はうさぎを見ているだけだろうから、おれのメモリでも処理できそうだと思った。うさぎは可愛いし、もふもふしてるし、あんまり動かなくて良さそうだ。

そんな不純な動機を抱えながら、おれは今朝、飼育委員長を名乗る人から渡されたプリントを見た。

今日の放課後、さっそく飼育委員会が行われるらしい。

集合場所を確認するために、プリントをポケットから引っ張り出す。

そこには、ペアを組む相手の名前が記されていた。

うちの学校の委員会は少し変わっていて、一年三組なら二年三組といった具合に、同じ組の学年違いでペアを組んで当番を行うことになっている。


『二年三組:明宮 愛』


おれと一緒に水曜日を担当する、二年生の先輩の名前。


あきみや……あい、さん?


文字だけ見れば、すごく可愛い。おれがいかつい名前のベビーフェイスなら、この先輩は可愛い名前の可憐な美少女先輩だったりするんだろうか。


……だとしたら、ちょっと、緊張するかもしれない。


おれは内心ドキドキしながら放課後の多目的教室へ向かった。

多目的室に入ると、そこにはすでに数人の生徒が集まっていた。窓から差し込む西日が、埃をキラキラと反射させている。

配布されたプリントの通りに席に座る。

おれの隣の椅子は、まだ空いている。

すると、少し遅れて隣に誰かが座った。

そこには「可憐な美少女」の欠片もない、背の高い男が腰を下ろした。
たぶん、おれより、さらに背が高い。

チラリと横を見ると、そこにはモデルかと思うような、シュッとした顔立ちの超絶イケメンが座っていた。

さらりとした髪。
すっと通った鼻筋。
切れ長だけど、どこか色気のある瞳。
制服の着こなしもどこか余裕がある。

一目で「あ、この人一軍だ」とわかるオーラ。

おれは思わず、手元のプリントと隣の男を交互に見た。

……嘘だろ。この「いかにもモテます」って顔した高身長男子が、あの可愛い名前の主?

「……あきみや、いとし?」

ぽそり、とおれの口から、無意識にその名前がこぼれていた。

すると、

隣のイケメン……明宮(あきみや)先輩が、少し驚いたようにこちらを振り向いた。

「……それで合ってるけど」

低くて、心地いい声。

「みんな、『あい』って間違えるけど」

明宮先輩は、少しだけ不思議そうにおれを見つめてくる。

おれはぼんやりと、その整った顔を見返した。


明宮愛。

字面だけ見れば、女の子みたいに可愛らしい名前。

でも、実物を見た瞬間に、おれの頭には「あい」ではなく「いとし」という響きが真っ先に浮かんだ。

「なんか、違う気がしたんで」

「……え?」

「『あい』じゃなくて、……『いとし』先輩って感じがしたから」

おれがそう言うと、先輩は少しだけ目を見開いておれを見た。
綺麗な二重のラインが、微かに揺れる。

(いとし)」なんて、これまた名前負けしてないイケメンっぷりだ。おれの名前とギャップ対決でもするつもりだろうか。

「へぇ……お前、おもしろいね」

先輩はそう言って、おれの顔を覗き込んできた。

距離が、近い。

先輩からは、清潔感のある、いい匂いがした。

「早川龍之介くん? ……名前、すごいね。文豪かよ」

「よく言われます。……先輩も、名前、可愛いです」

「嫌味?」

「いえ、本心です」

おれが真顔で答えると、先輩はふっと吹き出した。

その顔が、さっきまでのクールな印象を壊すくらいに綺麗で、おれは不覚にも「あ、かっこいい」と思ってしまった。


委員会の説明が始まった。

顧問の先生が、うさぎの餌の量とか、掃除の仕方を淡々と話している。三組は毎週水曜日が当番らしい。
おれはそれをぼーっと聞いていた。

うさぎ、食べ過ぎるとお腹壊すんだな……とか、寂しくて死んじゃうって本当かな……。

はやく、うさぎ触りたいな……。

そんなことを考えながら、窓の外の雲を眺める。

すると突然、横からぐいっと手首を掴まれた。

「……っ?」

驚いて視線を戻すと、明宮先輩がおれの手を掴んでいた。

大きな手。指が長くて、なんだか熱い。

「おい。これ、ちゃんと消毒した?」

先輩の声はさっきより少し鋭かった。
先輩の視線は、おれの手の甲にある擦り傷に向けられている。自分ではもう忘れていた。

「あー……してないです」

「は?」

明宮先輩が呆れたような声を出す。

「すぐ治るし。めんどくさいんで」

おれが当たり前のように答えると、先輩は今日一番の深い溜息をついた。

「お前、……名前のわりに、中身が幼すぎんだろ」

「名前は関係ないと思います」

「口ごたえすんな。バイ菌入るだろ」

そのまま、先輩は自分の鞄から手際よく絆創膏と消毒綿を取り出す。

……なんでそんな女子力高いもん持ち歩いてんだ、この人。

「……別に、いいです。男だし」

「俺が良くないの。……じっとしてろ」

おれは言われた通り、じっと動かずにいた。

先輩の指先が、おれの傷口に触れる。

少しだけしみて、おれは無意識に肩を揺らした。

「……痛い?」

「……ちょっとだけ」

「我慢しろ。すぐ終わるから」

おれの手首を包むその掌は、さっきまでのクールな印象とは裏腹に、驚くほど優しくて丁寧だった。
そして、「面倒見の良さ」を感じた。

自然と、視線が先輩の横顔に吸い寄せられる。
長い睫毛。通った鼻筋。集中しているせいか、少しだけ寄った眉間の皺。

……きれいだ
手、離さないでほしいと思った。

おれがじーっと見つめていることに気づいたのか、先輩がふっと視線をこちらに向けた。

至近距離で、視線がぶつかる。

先輩の瞳の奥が、一瞬だけ揺れた。

「……終わったぞ」

少しだけ早口にそう言って、先輩はおれの手を離した。

手の甲には、大きめの絆創膏がシワひとつなく丁寧に貼られている。

離れていった手の温もりが、なんだかひどく名残惜しかった。

おれのメモリが、急激に熱を持ち始める。

この温度。
この匂い。
この優しい手つき。

今まで誰かに手当をしてもらったことなんて、あったっけ。
あったとしても、こんなに胸の奥がふわふわすることは、一度もなかった気がする。

「……愛先輩」

初めて呼ぶ、その名前。
多分、この人は普段「明宮」とか「明宮先輩」と呼ばれ慣れていて、下の名前で呼ばれることはあまりないんだろうな、とぼんやり思った。
でも、おれはこっちの方が呼びたかった。

気づいたら、そう呼んでいた。

「ん?」

荷物を片付けようとしていた先輩が、生返事でおれを見た。

「好きです」

多目的教室の時計が、カチッと音を立てる。

自分でも何を言っているのかわかっていない。

でも、この温かくて大きな手で手当をされた瞬間、おれの中の「好き」という直感がフルスロットルで反応してしまったのだ。

先輩は石のように固まった。

数秒の後、彼は呆れたように顔を歪めて、おれの額を指で軽く弾いた。

「……それ、多分違う好きだよ」

諭すような、余裕のある口調。

「そうなんですか?」

おれが首を傾げると、先輩はさらに深く溜息をついた。

「そうだよ。……普通、会ってすぐの相手に言うか?」

「でも、好きだと思ったから」

「お前、誰にでもそんなこと言ってんの?」

「言わないです」

おれは首を振った。
手当てをしてもらったのが、初めてだったからかもしれない。でも、この人の手の温かさが、すごく心地よかったから。

先輩はまた小さくため息をついて、おれに背を向けて教室を出て行こうとした。

おれは絆創膏が貼られた自分の手を見つめる。


違う、のかな。


でも、おれはこの温度を「好き」だと思った。こんな気持ちになったのは、初めてだ。

おれは先輩の背中に向かって、おれはもう一度声をかけた。

「でもおれ、愛先輩がいいです!」

先輩の背中が、ぴくんと跳ねた。

「……まあいいや。とりあえず、水曜日の当番、遅れんなよ?龍之介」

先輩は一瞬だけ振り返った。

「いや、りゅうくん」

それから悪戯っぽい笑みを浮かべて、おれの頭をぽん、と軽く叩いた。

初めて呼ばれた、名前。

「りゅうくん」なんて今までに誰かに呼ばれたことがあった気がするのに、
先輩の声で呼ばれると、なんだかすごく、特別な響きに聞こえた。

それから先輩は、片手をひらひらと振ってそのまま廊下の角に消えていった。

おれは貼られたばかりの絆創膏をそっとなぞる。

あきみや、いとし。

その響きを心の中で繰り返すと、なんだか絆創膏の下が、さっきよりずっと熱くなった気がした。

先輩は、おれの言った「好き」は違うって言った。
でも、おれはこの「愛先輩」のことが、今日から明確に「好き」になった。



帰り道、おれはずっと自分の左手の甲を見つめていた。

丁寧に貼られた絆創膏。自分ですら忘れていた傷を、あの人は見つけて、熱い手で包んでくれた。


明宮先輩……愛先輩、か。


そういえば、入学してすぐの頃、女子たちが騒いでいたのを思い出した。

「二年に明宮先輩っていう、とんでもないイケメンがいるらしいよ」

「クールだけど、めちゃくちゃモテるんだって」

女子だけじゃない。
一軍の男子連中も「あの人は別格」なんて噂をしていた気がする。

あの時は「へぇ、そうなんだ」くらいにしか思っていなかったけれど、まさかあの人がその噂の主だったなんて。

確かに、とんでもないイケメンだった。

おれを覗き込んできたときの、あの綺麗な二重のラインとか、少し低くて耳に残る声とか。

それに、すごくいい匂いがした。
あれは香水だろうか。それとも柔軟剤?

今度会った時に聞いてみようかな。「先輩、なんの匂いですか」って。

……いや、さすがにキモいって思われるだろうか。

だけど、
問題はそこじゃない。おれはふと大事なことに気づいた。

今日は月曜日。
飼育委員の当番は、水曜日。

「……あさってまで、会えないじゃん」

たった二日。

それだけのことなのに、急に世界から色が消えたみたいな気分になった。

一度「好き」だと思ったら、もう止められない。

おれの脳内メモリは、同時にたくさんのことを処理できない代わりに、ひとつのことへの集中力だけは異常に高いらしい。
今や「明宮愛」というデータでパンパンに埋め尽くされていた。

一度触れてもらったあの手の温かさを思い出すと、なんだかもう、明後日まで待つなんて無理な気がしてきた。

一秒でも早く、またあの顔が見たい。

あの低い声で、おれの名前を呼んでほしい。

「待てないな……」

明後日まで待つなんて、おれには無理だ。

うさぎだって、寂しいと死んじゃう(かもしれない)んだから、おれだって毎日先輩に会わないと、たぶん干からびてしまう。

先輩は「当番遅れるなよ」としか言ってなかったけど。
いきなり告白してきたおれのことを「変なやつ」だと思って警戒しているかもしれないけれど。

明日。
明日の昼休みに、行ってみよう。

二年生の教室は、一階下のフロアだ。

昼休みにでも行けば、きっといるはず。

おれは絆創膏の上からそっと指先で触れて、明日の昼休みのシミュレーションを始めた。

何を話そう。
とりあえず、「会いたかったので来ました」って言えばいいかな。

……うん、そうしよう。

もし迷惑そうな顔をされたら

……その時は、またその時考えればいい。

おれはスキップしそうになる足を必死に抑えて、家路を急いだ。

胸の奥が、ずっとうずうずしている。

明日が来るのが、こんなに待ち遠しいなんて。

高校生活、なんだか思っていたよりずっと楽しくなりそうな予感がした。