ずっと繋いでいて


目を開けた瞬間、視界がぼやけていた。
昨日たくさん泣いたから、頭がガンガンと痛くて、目が腫れぼったい。
なんだか天井がいつもより遠い。
世界が薄い膜の向こう側にあるみたい。
横を見ると、母が椅子に座っていた。
目を閉じている。
寝ているのかな、横になって寝てよかったんだよ。
ごめんね、心配かけちゃって。
居てくれてありがとうね。

「…起きた?」
母が静かに言った。
「……うん」
「おはよう、朝ごはんは食べれそう?」
「...食べれない...」
食欲がない。
起き上がる気力もない。
時が進んでいくのが、どうしようもなく怖い。

布団から手を出す。
光に透かす。
指先の輪郭が、昨日よりさらに薄くなっていた。
皮膚の色が消えかけて、影がない。
触ってみる。
触れているはずなのに、触られている感覚がない。
でも、触っている側の指には確かにそこに何かある感触がある。
自分の身体なのに、自分のものじゃない。
世界が遠い。
自分の声が自分のものじゃない。
母の声も、膜越しに聞こえる。
離れていく。
自分が、自分から。

「今日は…学校、休もうね」
母の声は、いつもより少しだけ柔らかかった。
「……病院、行こっか」
胸がぎゅっと縮む。
怖い、動きたくない、認めたくない。
「…行きたくない」
「...そうだよね...大丈夫だよ、涼子。きっと大丈夫」
その声が震えていた。
私は、その震えに気付いてしまった。
「...お母さん、ごめんね...」
「ううん、謝らないで。あなたは悪くないもの。お母さんはずっとそばに居るよ、大丈夫」
母の目が充血していることに、今気付いた。
寝てなかったんだね。
たくさん泣かせちゃったのかな。
ごめんね、お母さん。
「…行く...病院、行く…」
砕けてしまいそうな心を無理やり奮い立たせて、なんとかベッドから起き上がった。

病院へ向かう道は、世界が薄い膜の向こう側にあるみたいだった。
車の音が遠い。
人の声がこもって聞こえる。
自分の足音が、自分のものじゃない。
自分の意思で歩いているのか分からなくなってくる。
まるで夢の中にいるみたいだった。
母は何も言わない。
ただ、歩幅を私に合わせてくれる。

診察室の空気が、少しだけ冷たく感じた。
医者はカルテをめくりながら、静かに私の方へ視線を向けた。
「涼子さん、少し質問しますね」
声は落ち着いているのに、その落ち着きが逆に怖かった。
「指先の違和感は、いつ頃からですか?」
「…三日くらい前…です」
自分の声が、自分のものじゃないみたいだった。
「痛みはありますか?」
「…ないです」
「触られた感覚は?」
「…薄い…です。触ってるのに…触られてる感じが…ない…」
医者は小さく頷いた。
「物を落としやすくなったり、掴みにくくなったりは?」
「…はい…ペンも…箸も…」
言葉にすると、それが“現実”になっていく気がして怖かった。
「足の方はどうですか?歩きにくさや、違和感は?」
「…あります…地面を踏んでる感じが…薄い…」
医者は変わらず優しい表情で続けた。
「世界が、遠くに感じることはありますか?」
その質問に、胸の奥がぎゅっと縮んだ。
どうして分かるの。
「…あります…声も…音も…全部…遠いです…自分が…自分じゃないみたいで…」
言った瞬間、涙が滲んだ。
「ありがとう。よく話してくれたね」
医者は、ひと呼吸おいてから続けた。
私が聞きたくなかった言葉。
「…透明病の初期症状と一致しています」
世界が遠ざかる。
視界が遠くなっていく。
私を包む膜が分厚くなったみたいに、外の世界から引き離される感覚があった。
「進行性です」
「治療法はまだありません」
母の息が止まる音がした。
私は何も言えなかった。
声が出ない。
呼吸が浅い。
世界が揺れる。
「追加の検査をしましょう。涼子さん、看護師さんと一緒に別室へ」
頷いたのかどうかも分からない。
ただ、看護師さんに手を引かれて歩いた。

静かな部屋。
白い壁。
薄い光。
看護師さんが椅子を引いてくれた。
「ここに座ってね」
私は言われるまま座る。
「…怖いよね」
看護師さんの声が優しい。
「…はい…」
涙が滲む。
「大丈夫。ここにいるからね」
その言葉が、胸にじんわり染みた。
「指…見てもいいかな?」
私は震える手で絆創膏を剥がした。
上手にできなくて、看護師さんに剥がしてもらった。
透過し始めている指を見た看護師さんは、ずっと優しい表情だった。
「痛くない?」
「…うん…」
「そっか…怖かったね」
私は堪えきれず、ぽろぽろ涙をこぼした。
「よく頑張ったね」
看護師さんは、そっと背中を撫でてくれた。
「大丈夫。あなたはひとりじゃないよ」


――
涼子が看護師に連れられて行き、私は診察室に残された。
医者の表情は、静かで、重い。
「…透明病で間違いないでしょう」
胸が締め付けられる。
涼子が泣き疲れて眠ってから、その病気について沢山調べた。
調べて、理解していたつもりだった。
医者に言われてこれが現実なんだと、現実逃避をしていたのは私だったのだと、理解した。

「そして…精神面の影響が出ています」
私は顔を上げた。
「精神……?」
「はい。抑うつ、乖離症状など、強いストレス反応が出ています。このままでは、心が壊れてしまう恐れがある」
息が止まった。
上手く、吸えない。
「…そんな…」
なんであの子なの。
医者は続けた。
「そして…これは涼子さんだけの問題ではありません」
「え...?」
「お母さんも、精神疾患を発症しかねない状態です。支える側が壊れるケースは珍しくありません。カサンドラ症候群といいます」
胸が痛い。
痛くて、苦しくて、息ができない。
「お母さん、自分を責めてはいけません。これは涼子さんのためです。涼子さんのために、あなたは強くいなければいけない。...酷なことを言っているのは理解しています」
自分を責めてはいけません、なんて。
そんなこと出来るはずがない。
「…あの子に“大丈夫”って言ってしまったんです。治らない病気だとわかって...きっと私の“大丈夫”が傷付けてしまっている。もう…大丈夫って言えない。あの子に言ってあげられない。でも…でもその代わりに、なんて声をかけたらいいのか、わかりません…」
涙がこぼれた。
あの子は、私の言葉を信じてくれる子だった。
「大丈夫」と言えば、安心した顔をしてくれた。
でも今は違う。
“治らない病気”に向かって、私は何を言えばいいのか分からない。
私は母親なのに。
母親なのに、何もできない。
あの子は診断を聞いた時、どんな気持ちだったんだろう。
軽率に「大丈夫」と口にしてしまった私を、どう思っていたのだろう。
あの子は「ごめんね」と、いちばん辛いはずなのに。

医者は静かに、ゆっくりと話し始めた。
「私も時々思うんです。患者さんはもう治らない。それを伝えなければならない時、無責任に“大丈夫”なんて言っていいのだろうか、と。」
医者は、優しい目をして微笑み、続けた。
「でもね、お母さん。言ってあげてください。“大丈夫”と。きっとそれは辛い。とても辛いことです。根拠もなく無責任に感じてしまうこともあるでしょう。涼子さんから傷付けられることもあるかもしれません。でも、言うんです。“大丈夫”と。」
それはあの子を傷付ける言葉じゃないの...?
だってあの子はもう、大丈夫じゃないことを知っているのだから。

「その“大丈夫”は、病気が治るよ、という嘘ではありません。病気に全てを支配されないで、あなたの人生は病気だけじゃない、まだ立てる、まだ歩ける、まだ話せる、勉強も、遊びも、恋だってできる。その希望を見失わせないために、私たちは“大丈夫”と言うんです。」

そうか。
諦めてしまっていたんだ、私が先に。
あの子の人生が大丈夫ではないと、私が先に決めつけてしまっていた。
「...ダメな母親ですね、私は」
「そんなことはありませんよ、お母さん。子の痛みを考えてあげられる貴方は、ちゃんと素晴らしい母親です。ただ何度も言うようですが、無理をしては行けませんよ」
「...はい」
私は静かに息を吸った。
涼子のところへ戻らなきゃ。
――

扉が開いて、母が入ってきた。
目が赤い。
でも、優しい顔をしていた。
「帰ろっか」
私は頷いた。

病院を出ると、夕暮れの風が頬に触れた。
空は茜色で、街全体がゆっくりと夜に沈んでいく。
「…大丈夫だよ、涼子。大丈夫」
手を繋いでいるわけじゃないのに、母が隣にいてくれる事だけはわかる。
遠い世界の中で、それだけは近く、ハッキリとわかった。

しばらく歩くと、遠くに私の通う学校が見えてきた。
病院に行く時もこの道を通ったはずなのに、学校のことは視界に入らなかったんだなぁ、と思った。
夕方の学校は、昼間とは違う匂いがする。
部活の声、ボールの音、帰り支度をする生徒たちのざわめき。
全部、遠い。
全部、膜の向こう側。

校舎の影が長く伸びていて、その先に校門が見える。
家に帰る人、誰かを待っている人、お喋りしている人が、とても遠く感じた。
私もそこに居たはずなのに。
校門でお喋りしてる人の中には、高橋くんもいた。
友達と話している。
羨ましい、私もそこに居たい。
そう思って眺めていたら、高橋くんと目が合ってしまった。
驚きと心配が混ざった顔をしている。
高橋くんは友達と話すのをやめて、私たちの方に近付いてきた。
私は反射的に母の腕を掴んだ。
俯いたまま、歩く速度を少しだけ速める。
高橋くんは、追ってこなかった。
ただ、夕暮れの光の中で静かにこちらを見送っていた。

その視線が、胸の奥にしばらく残った。