ずっと繋いでいて



朝、目が覚めた瞬間、胸の奥がずしりと重かった。
ほとんど眠れなかった。
天井を見つめているうちに夜が終わって、気付いたら朝になっていた。
「……起きなきゃ」
布団から手を出す。
右手を持ち上げて、光に透かす。
昨日より指先の色が、明らかに薄い。
輪郭がぼやけて、皮膚の下の影が見えない。
左手も同じだった。
触ってみる。
指先に触れているはずなのに、触られている感覚がない。
でも、触っている側の指には確かにそこに何かある感触があった。
自分の身体なのに、自分のものじゃないみたいだった。
「……やだ……」
手を握りしめる。
掌に、硬いものが当たった。
透明な爪。
見えないのに、確かにそこにある。
透けている。
そのとき、キッチンから母の声がした。
「涼子ー? 起きてる?」
「…うん、今行くね」
声が少し震えた。
とりあえず指先に絆創膏を巻き付けて、靴下を履いて部屋を出た。

リビングに行くと、母が味噌汁をよそいながらちらりとこちらを見た。
「…顔色、悪いよ。寝れなかった?」
「ちょっと…」
「...そっか」
母はそれ以上聞かなかった。
「無理して学校行かなくても大丈夫だからね、辛かったら休んでもいいんだから」
その言い方が、いつもより少しだけ柔らかくて、胸が痛くなった。

学校に向かう道もいつもと違う気がした。
光が眩しい。
風が冷たい。
人の声が遠い。
全部、薄い膜の向こう側にあるみたいだった。
教室に入ると、真央が手を振ってきた。
「涼子、おはよ!……って、え、大丈夫?」
「うん…ちょっと寝不足で」
笑おうとしたけれど、うまく笑えなかった。
席に着いて、ペンを持つ。
…持てない。
指先の感覚が薄くて、どこでペンを支えているのか分からない。
「……っ」
ペンが滑って落ちる。
拾っても、また落とす。
ノートには、意図しない線が何本も走った。
「...涼子…ねぇ、ほんとに大丈夫?」
真央の声が震えていた。
「うん、大丈夫、大丈夫だよ…」
言いながら、胸の奥が痛くなった。
苦しい。
言えない。
言葉にしてしまえば、たぶんもう、止められない。

昼休み、箸を持つと、また落とした。
もう何回目かもわからない。
「涼子…」
真央が箸を拾ってくれる。
その優しさが、胸に刺さった。
「ほんとに…なんでも言って?何も出来ないかもしれないけど...」
「…うん」
ごめんね、ごめんなさい。
私にも何が何だか分からないの。

放課後、帰り支度をしていると急に視界が揺れた。
「……っ」
吐き気がこみ上げてくる。
胸が苦しい。
呼吸が浅い。
頭がぐらぐらする。
「…だめ、もうむり…」
トイレに駆け込んで、胃の中のものを吐いた。
涙が滲んできてしまう。
「なんで……なんで……」
鏡に映る自分の顔は、ひどく青ざめていた。
震える足で保健室へ向かった。
誰か、助けて
その声は誰もいないトイレに掠れて消えた。

「あら、どうしたの?具合悪い?」
保健室の先生が驚いた顔で近づいてくる。
「…吐いちゃって…寝不足で…テストで…」
言い訳が口から勝手に出た。
本当のことは言えなかった。
言ったら、全部が現実になってしまう気がした。
このよく分からない非現実を、こちらに持ってきてしまうような気がした。
先生は私の顔色を見て、意味の分からない言い訳を聞いて、微笑んで手を引いてくれた。
追及はしないでくれた。
「無理しないでね。少しここで休んでいきなさい」
「……はい」
ベッドに横になると、涙がこぼれそうになった。
先生は絆創膏にも触れなかった。
ただ、そっと毛布をかけてくれた。
その優しさが、余計に苦しかった。

少し休んで、帰ることにした。
「家、近いので……歩いて帰れます」
「気をつけてね。ほんとに、なんでも言っていいし、なんにも言わなくてもいいからね。辛くなったらまた休みにおいで」
「…はい」
保健室を出る。
目が赤い。
呼吸も浅い。
でも、平気なふりをした。
たぶん全然できてない。
「…佐倉さん?」
保健室を出て扉を閉めた瞬間、名前を呼ばれた。
心臓が跳ねた。
そこには同じクラスの男の子、高橋颯太が立っていた。
手には健康観察簿を持っている。
そうだ、高橋くんは保健委員だった。
「顔色、悪いよ。大丈夫?」
「っ……だ、大丈夫……」
反射的に手を隠す。
高橋くんが一歩近づく。
指のことがバレるかもと思いビクッと肩が震えた。
高橋くんはその反応に気付いて、そっと距離を取った。
「…無理、しないでね」
それだけ言って、深追いしなかった。
私は逃げるようにその場を離れた。
胸が苦しくて、息がうまく吸えなかった。
吐き気が込み上げて何度もえずくけど、胃が空っぽでなにも出なかった。

家に帰ると、玄関で母が待っていた。
「涼子……学校から連絡があったの。具合悪くて保健室で休んでたって……」
その声は、驚きと心配と、そして追い詰めないようにという優しさで満ちていた。
私はその顔を見た瞬間、涙が溢れた。
抑えていた恐怖や不安が心の中で決壊して溢れて、止まらなくなってしまった。
「……お母さん……」
声が震えた。
「私、わたしっ…ゆびが、ゆびがへんで…」
私は泣きながら、初めて現状を母に吐き出した。
たぶんちゃんと説明できてない。
言葉として発声出来ていたのかも怪しい。
そんな私を母は抱きしめて、ただ聞いてくれていた。
「大丈夫。大丈夫だからね」
その声が胸の奥に染み込んで、私を抱きしめる腕から優しさが流れ込んでくるようだった。