ずっと繋いでいて


左腕がヒリヒリする感覚で目が覚めた。
「……ん」
布団から起きて左腕を見てみると、軽い引っ掻き跡が残っていた。
寝てる間に引っ掻いちゃったのかな。
特に気にすることもなく、洗面所に向かう。
鏡の前に立って、蛇口をひねる。
冷たい水で顔を濡らし、いつものように両手で包み込む。
その瞬間。
「いっ……!」
右の頬に、鋭い痛みが走った。
思わず手を離して、鏡を覗き込む。
頬には、うっすらと赤い線が一本。
血が出るほどではないけれど、確かに引っ掻いた跡だった。
「え……?」
右手を見下ろす。
爪は、短い。
「……寝ぼけて力入っちゃったのかな」
そういうことにして、もう一度そっと顔を洗う。
今度は痛くない。
タオルで水気を拭き取りながら、頬の赤い線を指先でなぞった。
「……なんか、変」

朝ごはんの席に着くと、テーブルにはいつもの光景が並んでいた。
焼き鮭、味噌汁、卵焼き、白ごはん。
母の作る朝ごはんは、派手さはないけれど、ちゃんと朝だなぁって思わせてくれる。
「おはよう」
「おはよう、涼子。今日はちょっと早いじゃない」
「うん、なんか目が覚めちゃって」
箸を取る。
右手で持って、いつものように構える。
……少し、持ちにくい。
「……?」
指先に力が入らないわけじゃない。
ちゃんと動くし、落としそうな感じでもない。
ただ、しっくりこない。
箸の位置を何度か持ち替える。
親指と人差し指の間に、何か余計なものが挟まっているような、そんな妙な違和感。
「いただきます」
とりあえず口に運ぶ。
食べること自体には支障はない。
ただ、いつもより少しだけ、箸の先が思ったところに行かない。
「最近、ちょっと元気ないんじゃない?」
味噌汁を飲んでいると、母がふとそんなことを言った。
「え、そうかな?」
「なんとなくね。顔色は悪くないけど……疲れてる?」
「大丈夫だよ。新学期だからちょっと、バタバタしてるだけ」
笑ってごまかす。
母は「そう」とだけ言って、それ以上は何も聞かなかった。
その優しさが、少しだけ胸に引っかかった。

学校に着く頃には、頬の痛みはほとんど気にならなくなっていた。
教室に入ると、いつものように真央が手を振ってくる。
「涼子ー!おはよー!」
「おはよう、真央」
席に着いて、ノートとペンを取り出す。
一時間目は現代文。
黒板の文字を写すだけの、頭を使わなくていい時間。
ペンを握る。
右手の指先に、またあのしっくりこない感覚がよみがえる。
「……?」
書き始めると、字が少しだけふらついた。
ペン先が紙の上を滑る感覚はある。
でも、指先のどこで支えているのか、自分でよくわからない。
たまに、ペンが指の間でカクッとずれる。
「やだなぁ、今日なんか変」
小さくため息をついて、それでもノートを埋めていく。
授業が終わる頃には、右手の違和感は気になるけど我慢できる程度に落ち着いていた。

昼休み、真央が机にお弁当を置きながら言った。
「ねぇ涼子、今日さ、なんかぼーっとしてない?」
「え、そう?」
「うん。授業中もさ、たまにペン止まってたし。悩み事?」
「悩み事っていうほどじゃないけど……なんか、変なんだよね」
「なにが?」
「うーん……うまく言えないんだけど」
右手を見下ろす。
見た目は、普通だ。
爪も短いし、指もちゃんとある。
血の気もある。
「ちょっと、物が持ちにくいっていうか……」
「腱鞘炎とか?」
「そんなに酷使してないよ、私の手」
「たしかに」
真央は笑った。
私もつられて笑う。

放課後、家に帰って制服を脱ぐ。
靴下を脱ごうとして、つま先に指をかけたとき。
「……また?」
右足の靴下の先に、小さな穴が開いていた。
親指のところ。
最近、やたらとここが破れる。
「この前買い替えたばっかりなのに……」
ため息をつきながら、靴下を脱ぐ。
足の爪はやっぱり、短い。
「……おかしいよね」
爪切りをした覚えはない。
でも、短い。
それなのに、靴下には穴が開く。
爪が伸びているならまだわかる。
でも、伸びていない。
少なくとも、目に見える範囲では。
「よくわからないこと、増えてきたなぁ」
独り言のように呟いて、制服をハンガーにかける。

夜、机に向かって宿題をしているときだった。
シャーペンを握る右手に、ふと違和感が走った。
「……?」
ペンを持ち直す。
親指と人差し指の間に、何か硬いものが当たる感覚。
でも、見ても何もない。
爪は短い。
指も普通。
それなのに、ペンを握り込もうとすると、何かが邪魔をする。
「……」
何度か持ち直してみる。
書けないわけじゃない。
でも、いつもより少しだけ、力の入れ方を意識しないといけない。
「疲れてるだけ。きっとそう」
そう言い聞かせて、宿題を終わらせる。
ベッドに潜り込んだときには、右手の違和感も、靴下の穴も、頬の赤い線も、全部まとめて今日の変なこととして
頭の隅に追いやられていた。

翌朝。
目を覚ますと、カーテンの隙間から差し込む光が部屋の中を薄く照らしていた。
布団の中から右手を出す。
なんとなく昨日のことが気になっていた。
「……」
手を持ち上げて、顔の前にかざす。
爪はやっぱり、短い。
そして、指先の色が少しだけ、薄い気がした。
血の気がない、というのとも違う。
白くなっているわけでもない。
ただ、光に透かすと、輪郭がほんの少しだけ、ぼやけて見えた。
「……なに、これ」
指を曲げる。
動く。
痛みはない。
感覚も、ある。
でも、見えているものと感じているものが、ほんの少しだけズレているような気がした。
胸の奥に、小さな不安が沈殿する。
まだ、この時の私は知らない。

このよくわからないことがこれからどんどん増えていって、やがて私の世界を塗り替えていくことを。