オカルト研究部の部室近辺は、相変わらず人の気配がない。初回来訪時の記憶を辿り、多分こっちだったよな…と廊下を曲がったり曲がらなかったりしていると、ちょうど部室から出てきた教師と目が合う。チェックのシャツ、くちゃくちゃのズボン、腕まくりをしているから、膝の部分だけシワだらけの白衣。上谷のクラスの授業を担当してくれている人ではないから名前は朧げだが、確か生物の……
「…山中先生!」
「いま名前を思い出しましたって顔だな、二年B組の上谷朝陽くん」
教師だから当然なのかもしれないけれど、相手が受け持ちでもない自分のクラスと名前をきちんと覚えていたことに少しだけ驚いた。気だるげな視線が、目をまるくする上谷を観察するように動く。
「もしかして、オカ研入部希望? 入部届持ってるなら、いま預かるけど」 「あー、いえ。そういうわけでは。ていうか、オカ研の顧問って山中先生だったんですね」
「まあ、成り行きでな。入部希望じゃないなら、もしかしてあき…深水に用事?」
深水の名前を呼びかけた。気がついたけれど、上谷は追求しなかった。言葉を受けて素直に頷くと、山中は少しだけ口角を上げる。
「そうか…深水にもやっと岩見以外の友達ができたか…」
「…岩見?」
「二人とも中にいるよ。早く会いにいってやってくれ。深水なんか特に、可哀想なくらいソワソワしてるから」
そう言って、山中はひらひらと手を振る。すれ違いざま、コーヒーの匂いが少しだけ香った。岩見…。岩見って、誰だ? 聞きなれない名前を脳内で反芻しながら、上谷はオカルト研究部の扉をノックする。はじめましての時みたいに、中から返事があって、名前を言うと内側からがらりと扉が開いた。
「おつかれさまです、上谷先輩」
相変わらずでかい。昼休みぶりに会った感想がそれだった。いつも通りに無表情な深水の顔を見上げ、これは確かに、自分がバスケ部だったらスカウトしちゃうかもな…。思いながら、招かれるままに室内へ入る。そこで初めて、深水以外の生徒の存在に気がついた。その男子生徒は、机に頬杖をつきながらスマートフォンをいじっていたが、上谷に気づくと、ぴたりと動きを止める。
「おお……? その顔、もしや上谷朝陽氏!」
氏…? 今までに呼ばれたことのない呼び方に戸惑っていると、男子生徒はがたりと椅子から立ち上がり、その勢いのまま言葉を続ける。
「失礼、挨拶が遅れましたな。わたしの名前は岩見将臣。僭越ながら君の後ろにいる深水氏と同じオカルト研究部の会員をやらせてもらっており、クラスは二年F組。上谷氏とは一応同学年でござる」
「え、そうなんだ! ごめん俺ぜんぜん気がつかなくって…」
「いやいやお気になさらず。文系と理系で分かれている上に九クラスもある環境下で、一度も同じクラスになったことのない人間の名前を覚えているなど、それこそ上谷氏のような有名人相手でなければ無理な話であるからして」
言いながら、ぺこりと頭を下げられる。初対面だが、悪い人ではなさそうだ。というか、上谷が早々にリタイアした理系科目の数々と日々向き合っていると言うだけで尊敬しかない。銀フレームの眼鏡がきらりとひかり、近づいてきた岩見が、右手を差し出してくる。
「オカ研に出入りする限りはわたしとも接点が生まれるでしょうからな。以後お見知り置きを」
「こちらこそよろしく、岩見くん。……俺って有名人なんだ?」
「それはもう、わたしのクラスにも轟くくらいには。上谷氏本人の話はもちろん、特にご兄妹が」
「岩見さん」
岩見の握手に応えようとした時。それまで黙っていた深水が、岩見と上谷の間に体を割り込ませてくる。見上げる背中は、やはり大きい。学校指定のベスト。艶やかな黒髪。……平静なようで、少しだけ感情の滲む声色。
「頼んでいたお話は、どうなりましたか」
突然の闖入者に驚いていた岩見も、その言葉を受けて我に返った様子だった。「ああ!」と短く声を上げると、深水と上谷へ椅子へ座るよう促し、自身はその近くにあるホワイトボードの前に立つ。体を動かしながら、ちら、と深水を見ると、もう何もかもがいつも通りだった。波の一つも連想させない、涼しい顔をしている。
「そうだったそうだった、ついつい忘れておりました。失敬、深水氏」
「いいえ。お願いをしているのは、俺の方ですから」
「…深水、岩見くんに何か頼んでたの?」
「はい。上谷先輩にも関係することを、少し」
「俺…?」
ということは…。頭の中にこれまでの色々を思い浮かべた上谷が顔を上げた時、ホワイトボードには案の定、岩見の手によって、件の廃屋の写真が貼り出されている。
「深水氏に頼まれた通り、こちらの家屋についてヒトコワ的観点から調査を行った結果――」 「ヒトコワ?」 「結局のところ人間が一番怖い、という怪談のジャンルのことでござるよ上谷氏。殺人事件とか、強盗とか、誘拐とか…」
「岩見さんは、いるかどうかもわからない幽霊より、確かに存在する現実の方がよほど恐ろしい、という立場の人なんですよ」
「左様! 故に幽霊の類は一切信じていないので、それ系の話は振らないでね。オタクのわたしが君と喧嘩しちゃう」
なるほど、オカルト研究部に籍を置いているからといって、誰もが無条件に幽霊を信じているというわけではないらしい。上谷も数日前までは岩見のスタンスに近かったので、共感ができる。
「まー結論から申し上げると、あの家はいわゆる事故物件ではありませんな。もちろん間取りも普通。変な家ならぬ普通の家。フフ」
淡々と続けながら、岩見は写真の横にマジックで文字を並べていく。
「もともとは高齢の女性が一人で住んでいたようですが、数年前に体調を崩し、現在は東北に住む息子夫婦のもとへ転居。家自体はどこぞの不動産が管理を委託されているようですが、見た目通りそれほど力を入れられているわけではないようですな」
「ありがとうございます。そうなると…」
「図書館やインターネッツで調べましたが、少なくとも記録に残る範囲では、死亡事故も事件性のある出来事も確認できずでして。恨みを残して地縛するようなタイプの案件ではない、とわたしは結論づけました」
つまり、と岩見は肩をすくめる。
「“出る理由がない家”」
言葉を受けて、深水が黙り込む。上谷は昨日の放課後、深水に言われた言葉を思い返していた。
──あの廃屋自体に曰くがある場合を除いて、いま先輩に取り憑いているモノは別に、先輩を恨んでいるわけじゃない。それでもわざわざ纏わりついているということは、何か先輩に関連した目的があるはずです。
「…原因、俺かあ…」
「上谷氏?」
「ありがとう岩見くん。その廃屋ってちょっと、なんていうかその…俺に関係してる、っていうか」
「ほう…? というと?」
岩見が片眉を持ち上げる。自分で切り出しておいて、迂闊だった。いやあ、実は俺今、取り憑かれててさあ。家が問題ないなら多分原因俺だわ。なんてことをいうわけにはいかない。さっき幽霊の話はしないでと本人に言われたばかりだ。
「…その家が全く関係ない、とは言い切れません」
じ、と見つめながら、答えを言うまで逃さないと言う雰囲気を出す岩見を前に、上谷がほとんど降参していると、深水が助け舟を出してくれた。
「憑かれやすい人、というのはいます。精神的に不安定だったり、生きる力が弱まっていたり…そういう状態の人が、あの廃屋のように人気がなく、程よく荒れ果てた、干渉されやすい場所へ行くと、今回のようなことが起こったりする」
「あっ、もしかして幽霊の話してます?」
露骨に嫌そうな顔をする岩見を脇に、深水は一瞬黙り込む。言うか、言わないでおくか。迷っていたのは僅かで、深水は顔を上げると、上谷をまっすぐに見つめる。
「先輩、何か悩みはありますか?」
「…俺?」
「はい。日常の何気ない、心に引っかかっていること、とか」
「いや……」
否定を口にして、言葉が続かない。幽霊関係を除いて、現状上谷に大きな悩みはない。ないと思う。少なくとも、自覚できる範囲では。それでも何か、心に引っ掛かるものがあるとしたら…考えながら、視線をぐるぐる泳がせていると、岩見が吹き出した。
「オホホホ! クラスの人気者にして陽キャの上谷氏に悩みなど! ましてや希死念慮の類など! 草超えて林超えてアマゾン大樹林でござる」
「いやさすがにそれは言い過ぎだろ! あるかもしれないじゃん、俺にだって悩みが!」
「あるかもしれない、と言っている時点でないも同然。上谷氏の抱えている悩みなど、わたしが日々感じている抑圧に比べたら些細。どうせ夕飯のメニューの心配とか、その程度でしょうに」
「夕飯の心配だって立派な悩みだろ!」
「反発するところそこなんですか?」
「あー、深水氏。本題を終えたわたしはこれからカラオケにて友人と”劇場版:中部地方のある変な家についての報告書”大上映会という用事があるので、ここいらで失礼いたしますぞ」
「はい、ありがとうございました」
上谷の抗議を無視して、岩見は荷物をまとめるとさっさと部屋を出ていってしまう。もともと、廃屋の話をするためだけに立ち寄っていたのだろう。ぴしゃり、と扉が閉められると、後に残るのは沈黙だった。どうやら深水はまだ、上谷の答えを待っている。…不誠実かもしれない。思いながらも、上谷が選んだのは軽口だった。
「まったく失礼しちゃうな岩見のやつ…深水も俺のこと、悩みなんかひとつもないお気楽お天気お祭り野郎だと思ってる?」
「思ってませんし、岩見さんもそこまでは言ってませんでしたよ」
上谷がそんな調子なので、深水もここは一度引くことにしたのだろう。ひとつ息を吐くと立ち上がり、部室の窓を開ける。心地のよい風が、室内の籠った空気を浄化した。
「俺はね、上谷先輩。悩みのない人間なんて、いないと思いますよ。程度は人それぞれでも、みんな何かしら心に抱えているものがある。だから先輩も」
薄暗い室内に、外の日差しは逆光で、深水の顔はよく見えない。それでも、心地の良い低音だけは、確かに聞こえてくる。
「はなしてやってもいいかな、と思った時に、聞かせてください。全容が見えなくても、些細なことでも大丈夫です。脳みそが二つあれば、考え方も解決策も二倍になります。だから……とりあえずいまは保留にして、次の”除霊”についての話をしましょう」
