おばけなんてうそさ



 次の日。上谷は感動していた。なんと今日は家を出てから教室へ至るまで、もちろんそれ以降も、一度だって転んでいない。靴紐も解ける気配がないし、切れるなんてもってのほかだ。本来はそれが普通なのだけど、不運を数週間も繰り返すうち、どちらが正常であるのかの判別もつかなくなっていた。足回りの不運は、一気に取り払われたようだ。深水に会ったら、改めて感謝を伝えよう。
 昼休みの食堂は賑わっている。普段はコンビニか購買で買ってきたものを教室で食べるから、この喧騒は少し落ち着かない。思いながら、上谷は進んでいく。

「お、上谷だ。珍し」
「おまえ昨日の体育サボってただろ」

「こっち座んなよ、一個席空いてるし」

 あちこちから声が飛んでくる。食堂のメニューで一番安い定食が乗ったトレーを持ったまま、上谷は適当に相槌を打ったり、笑って返したりしながら、目的の席へ辿り着くと、そのまま腰を下ろした。窓際。この部屋の一番隅にある正方形の机と、四つの椅子。すでに席へついていた深水が、隣で不思議そうに瞬きをする。

「おつかれー。深水、昨日はマジでありがとう。朝からもう快適で快適で、小学生ぶりにスキップで登校しちゃった。これなら転びまくるから自主的に見学してた体育の授業にも復帰できそうだわ。本当にありがとう」
「いえ……大したことはしていないのに、お昼までご馳走になっちゃって申し訳ないです」
「いやいや十分大したことしてるよ! ほんと、一食分じゃ足りないくらい。明日も食べる? 今度はちょっと場所を変えて」
「それは嬉……いや、あの」
「はい、なんでしょう」
「なんで隣に座るんですか?」

「なんでって?」

「こういう、学食で誰かとご飯食べるときって、向かい合うのが普通なんじゃないですか」

 やったことないからわからないけど。付け加えて、深水が居心地が悪そうに視線を落とす。とにかく話が聞きたくて、昨夜の別れ際に何も考えずここへくるように言ってしまったけれど、失敗だったかもしれない。もし次に深水とお昼を食べることがあれば、もっと人目が少ないところにしよう。思いながら、上谷は肩をすくめる。

「いやなら離れるけど」
「いやじゃないです」
「ならいいじゃん。それに、向かい合ってたら内緒話ができないだろ」

「内緒話って」
「たとえば昨日、深水が俺のために、鯉の幽霊をバットでしばいてくれたこととかさ」

「…厳密には、鯉をしばいたわけではないですよ」

 ため息混じりに言って、深水は箸を持つ。いただきます、と手をあわせる所作は綺麗だった。上谷が席へ来るまで、食事を待っていてくれていたらしい。

「じゃあ何をしばいてたの?」
「あの鯉にまとわりついていた、よくないものです」
「よくないもの」
「どんな生き物でも、身体を離れたばかりの魂は純粋です。基本的には無害で、生きているものに干渉しない。でも、現世に留まってある程度の時間が経つと、地上にある雑念に触れ、侵食されて、最終的にはああいう形に歪み、こちらへ影響を与えてくるようになるんです」

「…なるほど?」

「……飴を思い浮かべてみてください」
「味は?」
「なんでもいいです」
「じゃあいちごかな。好きだし」
「じゃあいちごで」

 納得の言葉を口にしつつ、実はぜんぜんわかってません、という本心が、顔にでも書いてあったのだろうか。おそらくは上谷のために用意された例え話が、心地の良い低音を伴って始まる。

「包装紙に包まれている間は綺麗ですが、間違えて砂場に落としたりしたら、当たり前ですが表面に砂がつきますよね。そのまま放っておいたら、虫も寄ってくるかもしれない」

「うん」

「昨日の鯉はその状態でした。だからまず砂を落として、群がっていた虫…さっき言ったよくないものを追い払ってやって、本来の状態に近づけてから、ゆっくりとお話を聞いてあげた。その末に満足して本体は退散、本体が退散したのでよくないものたちも自然消滅、という流れです」

「……深水」
「はい」
「お前すごいよ! 今の話、めちゃくちゃわかりやすい! 説明と例え話が上手!」
「こんな話を一撃で信じる先輩の方がすごいと思いますけどね」
「信じる信じないはもう解決したろ。忘れちゃったなら何度でも言うけど、俺は幽霊じゃなくてお前を信じてんの」
「……昨日のを見ていたから気がついたと思うんですけど、最初に言った除霊ができない、っていうのは、少しだけ嘘です」

 露骨に話を逸らされた気配がしたが、上谷は気にしなかった。

「俺は、幽霊に物理攻撃を与えることができます」

「……物理?」
「はい、物理です。上谷先輩が想像するような除霊って、塩をまいたり、結界を張ったり、呪文を唱えたりするような形だと思うんですけど、実際はもっと単純で……わかりやすく言うと、ターン制コマンドバトルなんです」

「ターン制コマンドバトル…」

 あまりにも理解が追いつかないので、深水の言葉を繰り返す機械になってしまう。……まあでも、物理、というのは昨日のバットみたいなことだろう。確かにあれで一撃を与えて、そのあと素手で色々追撃したら、なんかこう、いい感じになっていた。根本をはっきりと理解ができていないので、整理した概要もふわふわとしてしまう。ていうか、ターン制コマンドバトルってなに? ゲームとかでよくある、戦うとか、逃げるとかのコマンドを選んで、敵と交互に繰り返すアレ? そのままの意味? 一生懸命頭を働かせる上谷の横で、深水は続ける。

「向こうは、自分に有利な条件を揃えて攻撃してきます。昨日で言うと扉の鍵を閉めたり、電気を消したり……本当に許せない行為ですが直接触れたりして、先輩の恐怖を煽り、精神が不安定になるよう仕向けました」

「あれは攻撃だったのか…」

「それに対してこちらは、お守りや縁起のいいもの、あるいは“生の力”を使って対抗します。先輩に渡したお守りや、俺が持っていたバットなんかがそうです」
「…あ、そういえばお守り返してない」
「そのまま持っていてください。これからも必要になる場面があるでしょうから」
「深水って本当いいやつだよね…ありがとう」
「いいやつ、ではないかと……まあ、とにかく。昨日、俺が持っていたバットは、清潔な布に市販のお清めスプレーを染み込ませて巻いたものです。素手より威力が上がりますし、何よりそういった道具を持つことで、“抵抗する意思がある”と示すことが大事なんです。そうやってお互いに攻撃を繰りかえして、先に限界が来た方の負けです」
「…負け、っていうのは」
「幽霊の場合は昨日みたいにどこかへ消えていきますが、人間の場合は正直、何が起こるのか」

 …考えたくもない、ていうか、市販のお清めスプレーっていうのがあるんだ。店ではみたことがないけど、通販とかで買えるのかな。今度探してみよ。新たな知識を得て、上谷は頷く。

「俺もおんなじようにバット振り回したら、追い払えたりする?」
「できますよ。当たれば」
「あー…そこで見える見えないが絡んでくるのか…」

 上谷には相変わらず、幽霊の類は見えない。昨日の放課後、絶体絶命の状況になってからようやく、それっぽいものとぼんやり目だけは合ったが、本当に戦おうと思うのであれば、それじゃあたぶん遅いのだろう。当たれーっと思いながら振り回すより、深水のように、常に見えている方が、この場合においては有利だ。
 今まで現実的ではないと思っていた概念が、現実的な単語を伴って説明される。ターン制コマンドバトル。物理攻撃。縁起がいいもの。………………。

「深水くん、質問です」
「なんですか」
「生の力とは?」

 上谷が首を傾げると、深水は露骨に視線を逸らした。

「……言いたくないです」
「えっ! ここまでいろいろ話しておいて!」
「言いたくないこともあります。」
「教えてよ! 昨日教室で色々しちゃった仲じゃん!」
「誤解を招く言い方はやめてください。俺はまだ何もしていません」
「まだ?」
「……」
「まだ、の部分について追及されたくなかったら、本当のことを話した方がいいぞ、深水くん」
「生きたいと強く思うことです」
「嘘じゃん」
「嘘じゃないです」
「先輩命令です。教えてください」
「性行為です」

 上谷は椅子から転げ落ちそうになった。ちょっと攻め込んでみた冗談かしら、と思ったが、深水はそういうやつではない。口を開いたまま固まってしまった上谷を前に「だから言いたくなかったんです」深水が頭を抱える。

「除霊しながら、その…するってこと?」
「しているときは寄りつかない、が正しいです。つまり、払い除ける力があるというか……誓って、ふざけてるわけじゃないですよ。生きたいと強く思うこと、生きるということに関連する行為は、それだけであいつらに対抗する“力”になるんです。先輩が見たりするホラー映画でも、最中に襲われる展開とかって、あまり見たことないでしょう」

「……言われてみれば?」


 首を傾げながらも頷く。まあ、確かに。肉体を失って…つまりは、もう死んでいる存在に対して、生きている力で対抗する、というのは、筋が通っているように見える。でも映画はただ単にレーティングが違うとか、そういう話なのでは?

「もちろん、必ずしもそれが必要ってわけじゃないです。大抵はあのバットで解決するので安心してください」

「あ、そうなんだ。よかった…」

 …よかった? 自分で言っておいて首を傾げる。今のは少しおかしかった。だってそんな、ちょっとでも可能性があるみたいな。今のは、当たり前だろ、と反応をするところでは? 上谷は考える。考えて、そういえばと、幽霊と同じくらい気になっていたことを思い出す。

「そういえばさ、深水くん」

「はい」

「昨日、バットでよくないものをしばくとき、なんか言ってなかった?」
「……」
「あんまり聞き取れなかったんだけど、純潔とか、数年越しに、とか」

「…………」

 深水と出会ってまだ数日だが、彼のことが少しずつわかってきた気がする。たとえば、都合悪いと黙り込む癖がある、とか。思いながら、上谷は深水の横顔をじっと見る。整った鼻筋の下、唇は横一文字に結ばれたままだった。そのまま、永遠にも思える数秒の沈黙。そして。

「そろそろ、教室に戻りますね」

 深水が選択したのは、その場からの逃走だった。「ごちそうさまでした」と、食べものと上谷の二つに向けてお礼を言うと、トレーを両手でしっかりと持ち、立ち上がる。えっ、と思ってみると、深水の前にあったはずの定食は、いつの間にか綺麗に平らげられている。あ、あれだけ話しながら、いつの間に…。上谷は自分自身の、全く量が減っていない定食を見ながら愕然とする。

「上谷先輩」
「は、はい?」

「時間があれば放課後、また部室に来てください。そこで今後のことを話しましょう」

「…今後?」
「最初に言いましたよね」

 涼しい顔をしながら、深水は何でもないことのように言う。本当に、明日の天気でも話している時のようなテンションだった。

「大きいのが三体憑いてるって」

 昨日の鯉が一体目。つまり、同じようなことを、あと。
 それでは、と挨拶をして遠ざかる後ろ姿を呆然と見つめ、上谷は頭を抱える。抱えつつも、不思議と不安はなかった。