おばけなんてうそさ


「じゅん、けつ…?」
「目が合うなんて…頬を触るなんて! それ以外も色々…!」

 深水がバットを構え、思い切り振りかぶる。

「俺ですらようやく、今日! 五年越しに名前を呼んでもらって! 目が合ったばっかりなのに!」

 プラスチック製の、おそらくは上谷の手首から肩ほどまでの長さしかないバッドが、輪郭の曖昧な異形の核を真っ向から打ち抜いた。衝撃を受けたそれは、ボールのように教室の後方へと吹き飛んでいく。目に見えないはずの軌道は、薙ぎ倒される机と椅子によって鮮明に描かれた。
 …何が起こっている?
 わからない。先ほどよりももっと。整理すると、深水が怒って、目だけのやつ…幽霊? 幽霊なのかな? をバッドで殴って、教室の後方まで吹き飛ばした。以上。いや以上じゃないが。
 パチリ、と教室の電気が復旧する。吹き飛ばされた異形からは煙が上がっていて、深水は無表情のままそれに近づく。獲物を追い詰める捕食者のような足取りだった。

「俺がこれから更に数年をかけてなんとか実行しようと考えていたことをお前は…! 出会ってからたった数分でたやすく…!」
「お前なんかさっきまでと性格ちがくない…?」

 あまりの形相と発言に、上谷の恐怖はほとんど消えていた。助けてもらっておいて申し訳ないが、今この状況で怖いものといえば、煙を上げている異形よりも、出会った当初とは性格が違いすぎる後輩しかない。床に膝をつき、深水は何かを掻き分けるように、煙の元を探っている。その途中で不要になったのか、武器であるバットをその辺に放った。よく考えず視線でそれを追って、上谷はぎょっとする。バット自体には何も変化がないが、巻きつけた包帯は焼け焦げたように、ところどころ穴が空いていた。

「先輩」

 名前を呼ばれ、上谷は弾かれたように顔を上げる。いつの間にか平静を取り戻したらしい深水が両手で腕を作り、何かを掬うような仕草をした後、上谷に差し出した。

「あの時はご飯をくれてありがとう、って言ってます」
「……えっと…誰が?」
「こいつが。なんか、鯉っぽい形してますけど」
「鯉……ご飯………」

 上谷には何も見えないが、きっと深水の手の中には、その鯉っぽい奴がいるのだろう。単語を口にしながら、心当たりを探る。鯉。ご飯。鯉。……あ。

「……子供の頃、ばあちゃん家の近くの池で、よく鯉とか亀に餌をあげてたけど…それかなあ。……あ、思い出した。お気に入りの鯉がいたんだよ。他のやつより体が小さくて、金色の。池の淵に立つと、俺を見上げてくるのがなんか可愛かったから、贔屓してその子ばっかり構ってたな」
「思い出してもらえて喜んでいます。本当はお礼を言うだけのつもりが、先輩がなんか取り憑きやすい状態になっていたので、ついやっちゃったそうです」
「ついで取り憑かれても困るけどな…まあ、でも」

 上谷は少しだけ表情を和らげ、相変わらず、自分には何も見えない空間に向かって手を振る。無害で悪意がないとわかれば、実体がないのは大した問題じゃない。

「幽霊相手にこんなこと言うのもなんか変だけど、元気でな。次はたくましくて大きい、ムキムキの鯉になれよ」

 上谷の言葉の後、静まり返った教室に、ぱしゃりと水の跳ねる音が聞こえた。不思議と、怖い気持ちにはならない。気がつけば、教室を満たしていた冷気もどこかへ消えていた。深水が両手を下ろし、大きく息を吐く。

「……いなくなりました。本当に、お礼が言いたかっただけみたいですね」

 取り急ぎ、休憩。そんな空気が流れたが、残された二人の前には散らかった教室と──それ以外にもまだ、解決すべき課題が山積されている。

「深水」
「はい」
「……その、いろいろと聞きたいことがあるんだけど」
「はい。…とりあえずこれをどうにかしないとですね」
「……そうだな」

 本心では、深水に今すぐあれやこれやを聞き出したい気持ちの方が強かった。具体的には、できないって言いつつ除霊できてるじゃんとか、バットで幽霊って殴れるんだとか、純潔って何? っとか。しかし深水の言う通り、今は教室のこの事態を一刻もはやくなんとかして、忘れ物を取りにきたにしては時間がかかりすぎていることを訝しんだ守衛に、ことの次第が露呈しないことを優先しなくてはならない。

「…ああ、でも。これだけは今言っておくな、深水」
「はい。なんでしょう」
「マジでありがとう。あの時すぐにきてくれて大変助かりました」
「…どういたしまして」

 ふ、と深水が息を漏らす。わずかに上がった口角を見て、上谷は少し意外だった。そういえば、笑っているところは初めて見たかもしれない。…激昂しているところは、さっき見たけど。
 結局、その後数十分かけて教室を片付けて、守衛に大いに怪しまれながら、その日は解散した。