おばけなんてうそさ

「ちょっと見てきます」

 あっさりと言われすぎて、一瞬理解が追いつかなかった。

「み、みてくるって…?」
「言葉の通りですが」
「ってことはやっぱり、今の音ってアレなの? 幽霊的な…?」
「それがわからないので確認をして、後顧の憂いを断ちます」

 ただでさえ混乱しかけている時に難しい言葉を使わないでほしい。何故ならもっとわかんなくなっちゃうから。
 そういえば最初に、少しだけ怖い思いをしても大丈夫なら、と言われたっけ。了承の上でついてきたはずなのに、実際そういうことが起きそうになると、当たり前のように身体が震えた。正直言って泣いちゃいそうだ。思いながらも、先輩の意地というものがあるのもまた事実で、上谷はしっかりと背筋を伸ばした。

「ひ、一人で怖くない? 俺も一緒に行こうか?」
「…怖いのはあなたの方でしょう。俺は大丈夫なので、上谷先輩は教室にいてください。扉は両方閉めて、俺が戻るまで誰も入れないで。わかりましたか?」

 一生懸命頷いていると、深水がバッグの中から何かを取り出し、上谷に預けてくれる。神社で売られているような、よく見るタイプのお守りだった。

「これは…?」
「何もないよりは、拠り所があったほうがいいかと思って」

 それ以上の説明はなく、深水は上谷が教室へ入ったのを見ると、ひとり廊下の奥へと歩いていった。確かに、音の元凶を見に行くよりはここに残るほうが比較的、あくまでも若干、心理的負荷は少ないかもしれないが、怖いもんは怖い。残される形になった上谷は、言われた通りに扉を閉める。一応、両方の扉には鍵がついているが、深水が戻ってくるんだし、閉める必要はないだろう。
 守衛の計らいで、教室の電気は点いている。廊下だってそう。だから、窓の外に暗闇が広がっている、ということ以外は、いつも通りだ。上谷は自分の席へ行き、机に寄りかかる。
 ……静かだ。
 昼間なら、誰かの笑い声や椅子を引く音が必ず混じっているはずの場所に、ただ一人。それが妙に落ち着かない。気を紛らわせるためにスマホでゲームでもしようか。…いや、自分がちょっと怖い思いして帰ってきた時、安全地帯にいたやつが呑気にゲームしてたら、深水だって良い気はしないだろう。それじゃあ大人しく脳内で一人じゃんけんかしりとりを……。それも呑気すぎるのか? ああもうわからん。とにかく早く帰ってきてほしい。


 ──、─。

 教室で一人になってから数分、上谷が自分とのしりとりで二度目の敗北を期し、ぼんやりと先程託されたお守りを見つめていた頃。廊下から足音のようなものが聞こえた。
 規則的で、ゆっくりとした歩幅だ。深水が戻ってきたのだろう、と上谷は思う。それかきっと、校内にたまたま残っていた他の生徒だ。そうであってほしいし、それ以外の可能性はあまり考えたくない。

 足音は順調にこちらへと近づき、やがて上谷がいる教室の扉の前で止まる。

 ……。

 ……入ってこない。
 扉の向こうにいるのが深水であれば……あるいはそうでなくても、この教室に用があるなら扉を開け、入ってくるはずだ。上谷はしばらく扉を見つめ、それからゆっくりと近づいた。俺が戻るまで誰も入れないで。深水の声が思い起こされて、片手に持ったお守りをぎゅ、と握る。

「…深水?」

 一応、呼びかけてみる。教室の扉は引き戸になっていて、上部には正方形の曇りガラスがはめ込まれている。だから、向こうに人が立っていれば、影くらいは映るはずだった。

 だが──何もない。

 扉の向こうには誰もいない。それなのに、気配だけがある。
 違和感を認識した瞬間、教室の電気が落ちた。廊下も同様で、暗闇に慣れない視界が一気に奪われる。条件反射のように、上谷は扉から距離を取った。
 何かが起きている。理由は分からないが、そうとしか言いようがない。
 後退りをした背中に、硬いものが当たる。誰かの机かと思ったが、感触が違う。もっと高くて、位置もおかしい。

 教卓。

 いや、教卓はもっと奥にあるはずだ。ではこれは何か。心臓が、耳元にあるんじゃないかというくらいにうるさい。吐いた息が白く濁って、空気中に溶けていく。ごぽり。水中で気泡が弾けるようなした。そのあとで、つんとした刺激臭が鼻腔を刺す。
 考える余裕がなく、上谷は両手で目を覆った。何かもう色々と限界だったからだ。

「ふ、深水! ふかみーーーッ!」

 声が思ったより大きく出る。身体が震えているのが、恐怖からくるものなのか、急激に下がった周囲の温度からくるものなのか、上谷にはわからなかった。

「ごめんなるべく急いで戻ってきて! やばい! なんか変なこと起きてる!」
「先輩!」

 幸いも、返事はすぐに聞こえた。おそらく電気が消えた時点で、異変を察して引き返してくれていたのだろう。廊下の向こうから慌ただしい足音と、今度は確かに深水の声がする。

「先輩大丈夫ですか!」
「大丈夫じゃないかも…!」
「…っ、先輩! 鍵を開けてください!」
「鍵!? 鍵なんてしてないけど!」

 叫び返すが、どうやら扉は開かないらしい。何かが引っかかっているのか、あるいは別の理由なのか。目を塞いだままでは状況が進展しないと分かっていながら、手を離すのが怖い。
 …それでも、このままでは埒があかない。それに、助けに来てくれた深水にも申し訳が立たない。先程託されたお守りが、なんかこう、いい感じに守ってくれますように。都合の良い神頼みをしながら、ゆっくりと指を開く。

 目だ、と思った。

 宙に浮かぶ黒くて丸いだけのそれを、どうして即座にそう認識できたのかはわからない。ただ、目が浮いている。そして、それがこちらを観ている、ということだけがわかった。確実に人間のものではない、濡れた気配。言葉を失う上谷のそばで、何かが動く。瞳だけがはっきりとして、輪郭も曖昧なその物体から、腕のようなものが伸びてきて、上谷の頬に触れた。

「ふ、深水」

 一周回って冷静になったのかもしれない。引き攣った喉から出した声は、笑ってしまうくらいに落ち着いていた。

「……先輩?」
「な……何かが、俺の目を見て、て」
「え?」
「頬を撫で…っ、ひ」

 氷のように冷たい感触が、慈しむように自分の肌を這っていることだけが、吐き気がするほどリアルに伝わってくる。恐怖で息がうまく続かず、声が途切れ途切れになる。状況を説明しているのか、助けを求めているのか、上谷自身にも分からなかった。

「ふ、深水ぃ…! なんかこいつ、服の中に入って」
「………服の中?」
「っ…あ、そ、そんな、さわ、ったらだめ、だって…!」
「………………………」

 未知の感覚に、上谷が悲鳴を上げた、その瞬間。
 前方から、凄まじい破裂音がした。例えるなら、水風船を思い切り床に叩きつけた時のようだ。遅れて爆風にも似た風が吹き、上谷の前髪を持ち上げる。目だけがはっきりしている存在が、ごぽごぽと呼吸音のような物を漏らしながら、ゆっくりと視線を背後へ向けた。つられるように、上谷も顔を上げる。
 修羅だ。
 教室の入り口、開け放たれた扉の前に、鬼が立っている。最初はそう思ったが、よく見たらきちんと深水だった。先ほどの音は、深水が扉をこじ開けた時のものだろう。いつの間にか回復したらしい廊下の照明を背負い、表情は逆光であまり見えない。それでも、纏う空気だけで、いつもとは違う異様さが伝わってくる。一緒にいた時は気が付かなかったけれど、最初に持っていたバッグの中に入っていたのだろうか。片手にはプラスチック製の小さなバットを、もう片方には手のひらサイズのアルコールスプレーと包帯のようなものを持っていた。

「…よくも」

 引く、唸るような声だった。遠目からでもわかるほどの怒気を纏いながら、一歩ずつ深水が歩み寄る。合わせて一歩ずつ、目だけの存在も興味深そうに、深水へ近寄った。視線を逸らさず、距離を詰めながらも、深水は包帯にスプレーで何かを噴霧して、バットに巻きつけていく。そして、持ち手までがすべて覆われたら、それ以外は床に放った。ずいぶん慣れた手つきだった。──戦闘準備だ。そんな言葉が上谷の頭に浮かぶ。
 深水と謎の存在が向かい合う。上谷は立ち尽くしたまま何もできない。ごぽり。また、気泡の浮かび上がる音がする。
 片手にバットを握りしめ、真っ向から異形と対峙する深水が口をひらく。

「よくも、先輩の純潔を…!」