放課後と呼べる時間も過ぎた夜間。校舎は、昼間と同じ建物であるはずなのに、何もかもが違う場所のように思えた。部活動中の生徒たちも、体育館や部室にはまだわずかに残っているのかもしれないが、教室の集まる棟には、おおよそ生き物の気配というものが感じられない。人気がないというだけで、空気はここまで変わるものなのか。上谷はぼんやり考える。
約束通りの時間に制服のまま現れた上谷を見て、同じく制服のまま、片手に黒いトートバッグを持った深水は、少しだけ驚いているようだった。しかしそれも一瞬で「行きましょうか」とすぐに態度を切り替える。普段、生徒が利用している入口は二十時くらいまでなら開いているはずだが、深水はわざわざ教職員や来客用の入り口に回って、出迎えた守衛に「忘れ物をとりに来たので中に入れてください」と頼んでいた。何でそんなことを、と一瞬思ったが、言葉を受けた守衛が「それなら、廊下の電気をつけておいてあげるよ」と言ったのを聞いて納得した。確かに、今から行われる……除霊? の最中に突然共用部の電気を消されたり、見回りに来た守衛に邪魔をされるようなことがあるよりは、最初からこうして話を通しておいた方が良いだろう。だから制服のままで、とも言ったのか。守衛が上谷と深水の顔を知らなくても、この学校の生徒であることが一発で証明できるし。細かい気配りができる奴だなあと、上谷は一人で感心する。
心なしか、空気が冷たい。隣を歩く深水は、特に気にした様子もなく前を向いている。
「もしかしたら、来ないかと思いました」
ふいに、廊下に響かない程度の声で、深水が口を開いた。
「…俺が?」
「はい。そんな人じゃないだろうな、とは思いつつ、すこしだけ」
心外だ。あまりにも現実と離れた憶測に、上谷は少しだけ笑ってしまう。
「もともとは俺が深水にお願いしてやってもらってることなのに、その俺が約束すっぽかすってやばすぎるでしょ」
「だって、馬鹿みたいじゃないですか。俺だったらおかしな人だなあと思いますよ。幽霊がいるとか見えるとか言い出す人が身近にいたら」
「…お前がそれを言うんだ?」
「俺はまあ…どうしたって見えちゃうから、信じる信じないが最初から意識の外にありましたけど。先輩はもともと信じてたんですか? そういうの」
「……いや、まったく」
「やっぱり」
だから、時間を空けて放課後になったら、馬鹿みたいって思い直すかなって。深水が独り言のように続ける。空想にしては、やけに説得力があった。憶測でしかないが、おそらく過去に似たような経験をしたのだろう。…いろいろと苦労をしているんだろうな。上谷は勝手に慮る。
「…たしかに、実際見えてる深水の前でこんなこというのはちょっとアレだけど、俺はまだ幽霊とか、そういうのが現実的な存在だとは思ってないよ。はっきり言って信じてない。でも」
一度、言葉を切る。隣を見上げると、深水の目が少しだけ丸くなって、不思議そうに上谷を見下ろしていた。
「お前のことは信じたいと思ってるよ。これから先が、どんな結果になってもね」
「…俺を?」
「そう。まだ会ってから少ししか経ってないけど、深水の言葉ってなんか説得力あるし。第一、つまんない嘘とか吐かなそうじゃん? 今だって放課後にわざわざ時間作って、俺のこと助けようとしてくれてるんでしょ。そんな奴を疑えないよ」
「……」
深水の口が少しだけ開き、何かを言おうとして、結局閉じられる。一つ下の後輩に面と向かって信じるだの信じないだの、たいぶ恥ずかしいことを言っている自覚はあったので、早いところ冗談の一つでも言って気を紛らわせたかったが、いつもはスラスラと並べられる軽口が、こんな時に限っては一つも出てこない。話を変えたくて、ついでにこの妙な沈黙もなんとかしたくて、上谷は慌てて「それで」と口を開く。
「これから俺たち何すんの? まさか、本当に忘れ物を取りに来ただけってわけじゃないと思うんだけど」
「……取り憑かれるっていう現象は、本来滅多におこらないことなんです」
深水が普通に話し出してくれて、上谷は内心ほっとした。
「先輩は、死んだ後にも憎しみを持って付き纏われるくらい、他者を蔑ろにした経験はありますか?」
「え?」
「悪意を持っていじめたり、殴ったり、生命を奪うような行いを」
「な…ないよ! ないないそんなこと!」
「ですよね、俺もそうです。俺たちだけじゃなくて、この学校に通う大半の生徒がそうだと思います。だから…憶測ですが、いま先輩に取り憑いているモノは別に、先輩を恨んでいるわけじゃない。それでもわざわざ纏わりついているということは、何か先輩に関連した目的があるはずです。昼間は力が弱いから、靴紐を切るとか、その程度の存在証明しかできなかった。でも条件が揃えば、もっと直接的に干渉してくるはずです。だから、場所、時間、状況を、あちらの好みに合わせて、あいつらの方から俺たちのところへ来てもらう」
話がようやくつながってきた気がした。そう思っているだけで、本質は全く理解できていないかも知れないが。上谷はひとまず頷く。
「ちなみに、条件って?」
「色々と細かい指定はあるんですが、学生である俺たちが選べる場所は限られています。そんな中で」
言いながら、深水が足を止める。つられて上谷も足を止めると、話に夢中になっていたせいで気が付かなかったが、目の前にあったのは、ずいぶん見覚えるのある景色だった。
「夜の教室は、すべてにおいて都合が良いです」
上谷の教室だ。扉は開かれていて、誰もいない室内が廊下からでも見渡せる。オカルト研究部へ向かう前に見たときよりも清潔な印象を受けるのは、掃除当番がしっかりと仕事をしてくれたからだろう。夜間の校舎、という非日常に見知った光景があって、上谷の身体から少しだけ力が抜ける。そのとき。
「──、───」
廊下突き当たりから、何かが聞こえた。何かが擦れるような、あるいは踏まれるような音だった。…誰かの足音だろうか? いや。人の気配もなければ、当然姿も見えない。そもそも自分だけに聞こえた音だったらどうしよう。そう思って、恐る恐る深水を見上げる。真剣な横顔は、上谷と同じ方向へ視線を向けていた。
