夕方になると、この施設の廊下は静かだ。
職員たちは忙しく動いているし、テレビの音もどこかから聞こえてくる。けれど、それら全部が遠い。窓から差し込む西日だけが、時間の流れをゆっくりにしているみたいだった。老女は窓際の椅子に腰掛け、手のひらにのせた、小さな思い出を撫でる。赤い革製の、古びた首輪。金具は錆びかけているのに、そこについた鈴だけは、不思議と綺麗な音を鳴らす。
数日前、見知らぬ男子高校生が二人、自分を目当てにこの施設を訪ねてきた。ひとりは人懐こそうに笑う子で、もうひとりは無愛想な子だ。孫の知り合いだろうか。最初はそう思ったが、どうやらそういうわけでもない、ということに気がついたのは「お家の縁側で見つけました」という言葉と共に差し出された、この首輪があったからだ。「勝手に入ってごめんなさい」謝罪が、どこか遠くに聞こえる。
随分長い間、探していた。探して、探して、それでも見つからなかったものだ。
「……本当に、素直じゃないね」
つぶやいた言葉は、誰に向けたものでもない。この首輪の主は──あの子は、昔からそういう猫だった。撫でられるのはもちろん、抱っこだって嫌がるくせに、寒い日だけ布団へ入ってくる。名前を呼んでも知らん顔なのに、気分が落ち込んでいる日は、いつの間にか隣で丸くなっている。縁側で日向ぼっこをしながら、通りを走る子供達の笑い声を聞くのが、好きだった優しい子。窓の外で、風が木を揺らす。その時。
──チリン。
小さく、鈴の音がした。老女は手元を見るが、音の元はどうやら、そこではない。続いて、ぱたぱたと軽い足音がする。ずいぶん懐かしい──あの子と暮らしている時に、何度も聞いた音だった。老女は窓辺の、特に日が差し込んでいる場所を見つめる。そんなはずはないのに、なぜだか今にもそこへ、黒い塊が飛び乗ってくるような、そんな気がしたからだ。口元が、自然と緩む。
「……おかえり」
──チリン。返事の代わりにまた、鈴が鳴った。
