おばけなんてうそさ

 暖かくて細い指先に、頭を撫でられている。祖母の家の縁側で、丁寧に管理された庭の植物たちを見ながら、祖母の膝の上に頭を乗せて微睡むのが、幼い深水は何より好きだった。

「暁くん、またお友達と喧嘩しちゃったんだってね」
「だってあいつらが、僕のこと嘘つきって言うから」
「暁くんは、嘘なんかついてないもんね」
「そうだよ。本当に僕には見えるんだもん」
「そうしたら、伝え方が少し、トゲトゲしていたのかも」
「…おばあちゃんも、僕の方が悪いって言う?」
「まさか。おばあちゃんは、いつだって暁くんの味方だよ」

 なんて落ち着く声色だろう。深水は目を閉じる。畳の匂い。柔らかい日差し。先ほど食べたお菓子と、お茶の匂い。おばあちゃんの心音。ここにいれば、深水は何も怖くない気がした。たとえ今、庭の植物の隙間から、こちらを見つめる眼球が無数に生えていたとしても。

「怖いものが見えた時は、おばあちゃんがこうやって、ずっと頭を撫でていてあげるからね」

 ◆

 どうせ一度しか着ないのだからと、父が知人から借りてきたスーツは当時の深水には大きくて、袖が少しだけ余った。ズボンだってベルトで抑えておかなければならず、式の間中、深水はずっと居心地が悪かった。時間が経って、方々からやってきた見たことのない人たちが祖母の家で宴会を始めると、深水は一人になりたくて、祖母の部屋へ向かった。ここ数日で荷物はすっかり片付けられてしまって、今は最低限の家具しか残っていない。部屋の真ん中、ぽつりとおかれている座布団に腰を下ろし、そのまま体を横たえる。借り物なんだから、シワを作るな。ここにはいない父の声が、頭に響いた。
 目を開けると、カーテンの隙間。窓の向こうに立つ、綺麗な女の人と視線が交わる。一人なの? こっちへおいで。みんなのところへ行こう。そう話しかけてくる。深水は小さく息を吐いた。震える空気が白く色づいて、深水の頬を撫でる。祖母の部屋は二階だ。だから、あんなところに人がいるわけはない。目を瞑り、両手で耳を塞ぐ。恐ろしくて心細くて、涙が止まらなかった。そのまま体を小さく丸めてうずくまっても、いつものように頭を撫でてくれていた手は、もうどこにもない。
 ああ、どうして。
 今、自分に見えているこれらが全てが、本当に幽霊だと言うなら。
 どうしておばあちゃんは、僕に会いにきてくれないんだろう。

 ◆

「あいつ、幽霊が見えるとか言ってたらしいよ」
「マジ? 絶対嘘じゃん」
「かまってちゃんなんだろ。親が共働きで、いつも家に一人らしいし」
「なんていうの、厨二病? 俺も精霊が見えるとか言ってた時期あったわ」
「設定作るのは勝手だけどさ、こっちに迷惑はかけないでほしいよな」
「わかる。この間も理科の実験中に突然大声出してさ」

 ◆

「ごめんね、暁。今度の転校が最後だから。お父さんとお母さんの仕事もやっと落ち着くのよ。だから、新しい場所ではもう、変なことを言って、私たちを困らせないでね」
「お前ももう、中学生になるんだ。嘘を言って親の気を引く年齢は過ぎただろ。なあ、暁」

 ◆

 うまくやらないといけない。うまくやらないといけない。
 入学式はうまくやれた。見ないふりができた。そのはずだ。だから、大丈夫。このままなんでもないように過ごせば、普通でいれば。
 急に仕事で呼び出されちゃったの。入学式はお父さんが行くからね。
 仕事が入った。入学式は母さんが行く。
 ほとんど同時に届いた二通のメールを閉じて、深水は公園のベンチに座り込む。早く、家に帰ろう。自分の部屋なら、少しは気分がマシになるはずだ。

「お兄ちゃん、一人なの?」
「あそぼ? あそべる?」

 ──それには、こいつらが邪魔だ。このまま家に連れて帰るわけにはいかない。深水は項垂れた。視界には自分の真新しい靴と、裸足のつま先が三つ。無視をしていれば、いずれ飽きてどこかへ行く。だからこのまま、ここで一人、耐え続ければいい。近くを、母親に連れられた小さな子供が、はしゃぎながら通り過ぎた。おそらく、生きている人間だろう。昼下がりの公園には人がたくさんいるのに、深水の周りにだけ、不自然に空白ができているようだった。
 おかしいのは、自分一人。声を上げない。泣いたりしない。怖くない。自分に言い聞かせながら、白い息が震えているのを、精一杯見ないふりする。

「お前、体調悪いの?」

 そんな最中、突然声をかけられた。…また、幽霊だろうか。思ったが、どうやら違う。視界に追加された赤いスニーカーに反応して、深水は顔を上げる。

「大丈夫? 一人で歩ける? 家近いなら、親呼んできてやろうか」
「……大丈夫」
「その顔色で言われてもなあ」

 声をかけてきた人間──制服は着ていないけれど、おそらく、深水と同い年くらいだろう。けれど、深水より背が高く、色素の抜けた髪色、大きな目を持つ彼はそのまま、深水の隣へどかりと腰を下ろした。

「さっき自販で買ったばっかりの飲み物あるよ、飲む? …あ、でも、体調悪い人にメロンソーダって勧めて平気なのかな…」
「…本当に大丈夫。体調が悪いわけじゃないから」
「じゃあ、何が辛いの?」

 素朴な疑問だったのだろう。声色には、深水を慮る感情以外に、感じ取れるものがない。普段の深水ならきっと、さらに誤魔化す言葉を並べて、その場をやり過ごした。けれど、この時はなんだか、言ってしまってもいいような気がしていて。

「……おばけ」
「え?」
「俺の周りにいる、おばけが怖い」

 やっぱり見えてた! 深水を取り囲んでいた幽霊たちが、歓喜の声を上げた。それからは服の裾を引っ張ったり、髪の毛を触ったり、好き放題に干渉を始める。ああ、やっぱり言うんじゃなかった。隣の彼からは、沈黙しか返ってこない。きっと呆れられたか、馬鹿にしているのだろう。中学生にもなって、幽霊なんて。せっかく、見ず知らずの俺を心配して声をかけてくれるような、優しい人だったのに。自分のせいでいつも、コミュニケーションは破綻する。言うべき言葉を間違えて、本来なら優しい人が、優しいままでいられなくしてしまう。

「おばけ…」

 小さく呟く声が聞こえた。それから彼は立ち上がり、深水の前に立つ。そのまま去るか、怒りのままに声を荒げるかと思ったのに、彼は両手を広げると、深水の周囲に向かってぶんぶんと振り回し始めた。まるで、食べ物にたかる羽虫を追い払うような仕草だ。きゃー! とか、わー! とか、微かな悲鳴が聞こえて、気がつけば、深水を取り囲んでいた奴らはもう、どこにもいない。
 何が起こったのだろう。信じられない気持ちで、目の前に立つ彼を見つめる。

「お、顔色良くなった」
「いま、何を…?」
「ん? あっちいけー! って思いながら、両腕を振り回した。そんだけ」
「…見えるの…?」
「何が?」

 首を傾げる彼に、嘘をついている様子はない。冗談だろ。じゃあこの人は、あれが見えていないのに、ノリと勢いで追い払ったのか? 呆然としていると、彼は再び、深水の隣に腰を下ろす。

「知ってるか? 死んでる人間より、生きてる人間の方が抜群に強いんだぞ。デュエルナイトモンスターズでも、ゴースト属性よりヒューマン属性の方が強いし」
「そう、なんだ…」
「そう。だから、力の限りにぶつかれば、相性有利な俺たちが勝てないはずはない。それに、こんな歌もある」

 デュエルなんとかの話はわからなかったが、彼の言う言葉には、なぜだか妙な説得力があった。そのまま言葉を待っていると、彼がぴん、と指を空中に突き立てる。

「おばけなんてないさ、おばけなんてうそさ」
「……」
「知ってる? この曲。幼稚園とかで習ったろ」
「……一応……」
「だけどちょっとだけどちょっと…」

 そのまま歌い続けようとして、彼の口がぴたりと止まる。その後に続く歌詞が、あまり明るくないことに気がついたのだろう。少しだけ考えた後、くるりと深水の方へ顔を向ける。

「お前、名前は?」
「え?」
「名前」
「……あきら」
「よし」

 何が良いんだろう。思っていると、無理やりに明るい調子で、彼が歌の続きを口ずさむ。

「あきらくんは強いぞ!」
「……は?」
「両目からビーム、メガトンパンチ」
「び、ビームなんか、出せない」
「じゃあ、メガトンパンチはできるんだな」
「素手ではちょっと…せめて武器とか使わないと…」
「お前、おばけとか言うのに変なとこで常識あるな! まあ、なんでもいいや。適宜アレンジして、今度から、怖くなったらこの歌を思い出せよ。そしたらたぶん、幽霊の方もびっくりして逃げていくから」
「……そうかな」
「この人間、両目からビーム出るんだ! 怖いから離れよ! ってなるだろ。俺が幽霊だったらなるもん」
「…ふ、」

 想像して少しだけ笑ってしまう。深水の笑顔を見て、彼もまた、上機嫌そうだった。
 …そうか。うそだってことにしてもいいんだ。我慢しなくていいんだ。追い払っていいんだ。そうか。そうか。そうだったんだ。
 見えていることを、認めてもいいんだ。否定しなくていいんだ。これが俺の普通なんだって受け入れて、それから対策を講じればいいんだ。名前もしらない、この人が今、やって見せてくれたように。

「だいぶ元気になったな! よかった、よかった」
「…あの、ありがとう」
「どういたしまして!」
「おーい! お前そんなとこで何してんだよ!」

 深水が口を開きかけるのと、公園の入り口から大きな声が聞こえたのは、ほとんど同時だった。視線を向けると、派手な服装の数人が、彼に向けて手を振っている。

「やべっ…俺、もう行くわ。あいつら待たせてたの忘れてた」
「っ、あの!」

 急いで駆け出そうとする彼の裾を掴み、引き留める。振り返った大きな瞳が不思議そうに瞬いて、それがたまらなく、綺麗だと思った。

「な、名前」
「なまえ?」
「あなたの、名前は?」

 慌てて声が上ずってしまっても、彼は馬鹿にしない。それどころか聞き取りやすいように、ゆっくり、大きな声で。にこりと笑いながら、苗字と名前を教えてくれる。

「かみや、あさひ!」

 ◆

 目を開けると祖母の家の縁側で、自分は体を横たえていて、頭を撫でる手があって。だからこれはまだ、夢の中なのだと思った。

「目が覚めたんだね」

 声が聞こえる。けれど深水は、振り返らない。もし今、声の持ち主の顔を見てしまったら、そこでこの時間が終わってしまう気がしていた。だから視線をじっと庭先へ向けたまま、静かに頷く。

「…おばあちゃん」
「ごめんね、暁くん。おばあちゃん、約束を守れなかった。本当はこうしてずっと、いつまでだって、暁くんの頭を撫でていたかったのに」

 言おうと思っていたことが、たくさんあったはずだ。けれど、こんな時に限って、言葉が一つも浮かばない。細い指が、深水の髪を梳かす。

「…おばあちゃん、俺ね」

 吐いた息は震えていたが、それでも、白く濁ったりしなかった。柔らかな春の陽気が、誰にも邪魔をされることなく、庭を照らしている。

「おばあちゃんにずっと、会いたかった。幽霊がいるなら、どうしておばあちゃんはきてくれないんだろうって、不思議だった。でも……それと同時に少し、安心してた。だって、おばあちゃんがまだ俺たちと同じところにいるってことは、何かやり残したことや、未練があったってことだから。おばあちゃんが幸せにこの世から離れて、向こうでおじいちゃんや、おばあちゃんの兄弟、お母さん、お父さんと過ごしているなら、それが一番いいって、本当はわかってたんだ」

 言いながら、目を閉じる。聞こえるのは、自分の心音ばかりだった。

「……おばあちゃん。俺、友達と…それから、好きな人ができたよ。カラオケに行ったり、水族館とか、ゲームセンターとか、いろいろなところに行った。自分にはない明るさを持っているその人を見ていると、なんだか俺は、俺が今まで経験してきた嫌なことまで全部、救われるような気がするんだ。その人のおかげで、最近は学校も楽しい。目を閉じるたび、早く明日が来ればいいのにって思う」
「…よかったねえ、暁くん」
「うん、だから…俺、もう行かないと」

 撫でる手が、ぴたりと止まる。しばらくして、穏やかな声がぽつり、ぽつりと降り注いだ。

「暁くんは、あの頃よりもずっと強く、立派で…優しい子になったね。もうおばあちゃんが、撫でてあげなくても大丈夫。だって暁くんを助けてくれる人は…暁くんが好きな人を含めて、たくさんいるはずだもの」

 視界が、明るい光に包まれる。覚醒が近いのだろう、と思った。深水は静かに目を閉じて、その時を受け入れる。

「…ばいばい、おばあちゃん」
「ばいばい、暁くん」

 意識が途切れ、全てが思い出に帰っていく。深水はその波に逆らわず、全てをゆっくり、時間をかけて、自分のものにした。