肝試しの日には閉まっていたはずの鍵は、今日に限ってあいていた。おそらく、先に入った深水──ただしくは、その中身の力によって開けられたのだろう。全部が終わったらきちんと、怒られるべき人に怒られよう。思いながら、上谷は廃屋の中へ足を踏み入れる。
室内は、異様な静けさに包まれていた。玄関を開けてすぐ、二階へ続く階段があって、その横に廊下。突き当たりは台所になっているようで、開け放たれた扉から、調理場が少し見えた。外見に反し、内部はそこまで荒廃している、というわけではない。元々の住人であるおばあさんが施設へ移る際に、ある程度荷物は片付けたのだろう。大きな家具をいくつか残して、家電や小物類は全て片付けられている。
時刻は、夕方よりも夜に近い。加えて雨戸が閉められているから、電気のつかない室内は、どこもかしこも暗かった。携帯のライトで辺りを照らして、一歩ずつ、上谷は慎重に歩を進める。
……いる。
上谷には幽霊が見えない。けど、絶対いる。そう確信できるだけの気配があった。ふと、携帯のライトが明滅する。
ぺたり。
足音が聞こえた気がして、振り返る。今、通り過ぎたばかりの玄関に、小さなクマの人形が落ちていた。気にしないことにして、再び歩みを進める。ぺたり。また振り返ると、クマの人形が、今度は自分のすぐ後ろに落ちている。
──正直、泣いちゃいそうなくらい怖かった。おばけを信じない。見えない。そんな、真昼間に言えるような主張はさておいて、実際目の前で怪奇現象が起きていたら、誰だって同じ気持ちになると思う。
除霊を進めるにあたり、似たような現象はいくつか経験してきた。それでも自分を保っていられたのは、深水がいてくれたからだ。あいつがいてくれる、力を貸してくれる。そんな信頼があった。今はそれがない。外には日沼がいるが、今この瞬間、上谷は一人きりだった。息が震えて、当たり前のように白く色づく。
──だが、こんなところで立ち止まるわけにはいかない。脳裏に、いつか深水が言ってくれた言葉を思い浮かべる。”上谷先輩が想像するような除霊って、塩をまいたり、結界を張ったり、呪文を唱えたりするような形だと思うんですけど、実際はもっと単純で……わかりやすく言うと、ターン制コマンドバトルなんです”
「…負けねえぞオラァ!」
声を荒げたのは、自分を鼓舞する意味合いが強かった。こんな言葉遣いは初めてだ。ざわ、と何かの気配が少し、動きを見せる。
「見えねえからって舐めんなよ! こう見えて中学までは野球やってたし、バットの扱いはすげえ上手…まあ……監督からバットで人を殴るようなことは死んでもするなって言われて育ったけど…お、お前たちは人じゃないからノーカンだし! 躊躇わないぞ! 俺は!」
叫びながら、また、深水の言葉を思い出す。”憑かれやすい人、というのはいます。精神的に不安定だったり、生きる力が弱まっていたり…そういう状態の人が、あの廃屋のように人気がなく、程よく荒れ果てた、干渉されやすい場所へ行くと、今回のようなことが起こったりする”
「散々ビビらせやがって! ここで決着つけてやるからかかってこい! あと、スニーカーの紐弁償しろよ! 同じブランドの揃えようとすると地味に高いんだから!」
後半は少し私怨が混ざっている気がしたが、上谷は止まらなかった。幽霊を見ることができない。そんな圧倒的な不利を覆すために上谷が選んだのは、幽霊に負けないほど生命力をみなぎらせること──つまり、とにかく元気に振る舞うことだった。元気、というか怒り散らかしているように見えるが、上谷は、大きな声を出すことでしか元気を表現する方法を知らない。あまりにも単純で、幼稚に思える。しかし、そんな作戦でも、少しは効き目があったらしい。息を殺し、忍び寄り、どうやって危害を加えてやろうか。そんな気配たちが、少しだけ遠のいていくような気がした。声を荒げた勢いのまま、部屋を進む。突き当たりに辿り着くと、今度は左に曲がろうとした。きっとそこに、深水がいる。そんな予感があったからだ。
台所を通り過ぎる時。ふと視線を投げた調理場に、黒い靄がかかっていた。…見なきゃよかった。少しだけ臆した気持ちを、あいつらは見逃さない。靄が人の形を作り、上谷を目がけて歩み寄ってくる。うまく、当てられるだろうか。バットを握りしめて、その時に備える。
こぽり。水中で、気泡の弾けるような音がした。これは確か、以前にも聞いたことがある、ような。思うよりも先に、調理場の蛇口が勝手に開いて、水が噴き出る。反応した黒い靄が霧散して、方々に散った。それを水滴が追いかけて、ぶつかり合って消える。まるで──鯉がいる池に餌を投げ込んだ時のような光景だった。
「……お前、逞しくなったな」
そう呟いた直後だった。霧散した黒い靄のうち、水をうまく回避した塊が、上谷の方へ向かってくる。──まずい、この距離ではバットを振ることができない。咄嗟に後ろへ下がり、一度距離を取ろうとするが、背中に廊下の壁が当たる。間に合わない。
「…っ」
靄の奥で、何かが笑った気配がした。覚悟を決め、バットをより強く握り込む。当たらないかもしれない。意味なんてないかもしれない。それでも何もやらないよりはマシだ。そう思って、手のひらに力を込めた時。
どこからともなく、廊下を風が吹き抜けた。部屋中の窓が、ガタガタと音を立てる。そして、上谷に迫っていた靄が、それに巻き込まれるみたいに吹き飛ばされ、壁に激突して消滅した。あまりの強風に目を瞑ると、悲鳴とも呻き声とも判別できないような音がして、静寂が訪れる。数秒間。騒ぎが収まって、上谷が目を開けた時にはもう、何もなかった。靄はおろか、蛇口の水すら元通りだ。まるで最初から、何もなかったみたいに。
「……ありがとう! ちゃんとお礼するから、生まれ変わったら絶対、俺のとこ来いよ!」
もちろん返事はないし、伝わっているかも、そもそも今のが本当に、上谷が思い浮かべている幽霊の仕業なのかもわからない。それでもそう言い残して、上谷は次の部屋へと進む。
この家の、一番奥。一番大きな部屋は、襖で仕切られていた。おそらく、居間として使われていたのだろう。壁は掛け軸をかけられるような形になっていて、部屋の中央には大きな座椅子が一つ、放置されている。
おそらく深水は、襖の奥だ。近づいて、手を伸ばす。その腕を、誰かが横から掴んだ。
「──!」
声にならない悲鳴が出る。反射で後退すると、座椅子に足がもつれて、背中から盛大に床へ転がることになった。くすくす。誰かの笑い声がする。
「…なるほどね」
何かを納得したわけではなく、ただ、精一杯の強がりだった。この部屋には、何かがいる。確実に。でも、上谷には全然見えない。目を凝らしても、ただただ薄暗い室内が映るだけだ。おそらく幽霊の方も、不用意に姿を見せると不利になる、と学んでいるのだろう。戦いの中でしっかり成長すんなよ。
おばけなんか嘘、ですもんね。
ふと、そんな言葉を思い出す。これは一番最初の除霊の時、深水が言っていた言葉だ。けれどそれ以外にも、妙に聞き覚えがある。
「おばけなんか…」
つぶやいて、そうだ。そういえば、こんな歌があった。でもどうして今、突然思い出したんだろう。転んだ拍子に頭をぶつけたからだろうか。考える頭に、昔の記憶がぼんやりと浮かぶ。昼下がりの公園。ベンチに座り、項垂れる男の子。確か、あの子の名前は──。
「…あきらくん」
バットを支えに立ち上がる背中を、誰かに蹴られる。…前にも、こんなことがあった。これも野次馬というやつだろうか。思いながら、転んだ拍子に落としてしまった携帯を拾い上げる。いつの間にかライトが消えて、カメラモードがオンになっていた。
……これ。
そういえば、あるじゃないか。霊感なんてまるでない。そんな人間でも平等に、幽霊を視認できる媒体が。上谷は携帯のカメラを部屋中に向ける。画面越しに見る室内は、少し曇っているように見えた。座椅子。棚。壁の隙間。一通り確認して…なにも映らない。それなら、残っているのは。上谷は、カメラのモードを自撮りに切り替える。しばらく間をおいて、携帯の画面いっぱいに上谷の顔と──その後ろに、粒の不揃いな歯だけが見えた。おそらくは微笑んでいるのだろう。もう少しよく目を凝らせば顔全体が見えたのかもしれないが、上谷にはその余裕がない。
「…見つけた!」
叫ぶよりも先に、バットを背後目掛けて思い切り振る。確かな手応えのあと、熱した金属に水をかけたときのような音がしたかと思うと、部屋の空気が少しだけ軽くなった。…成功したのだろうか。額に浮かび上がる汗を拭い、バットを振る時にまた落としてしまった携帯を拾い上げる。画面はまだ自撮りモードになっていたが、上谷の背後には誰もいない。
その代わり、襖が勝手に開く。慌てて振り返って──飛び込んできた光景を見て、上谷は目を疑った。
この家へ入る時、空はもう、街灯が点き始めるほど暗かった。なのに今、目の前に広がる縁側には、昼下がりみたいな陽射しが降り注いでいる。開け放たれた窓から、柔らかな風が吹き込む。庭は丁寧に手入れされ、色とりどりの花が咲いていた。風に揺れる風鈴が、からり、と涼しげな音を立てる。まるで、この部屋だけ時間が巻き戻ったみたいだ。
…これも幽霊の仕業で、怪奇現象と呼ぶのだろうか。
「……」
上谷は静かに息を吐き、手の中のバットを見下ろした。先ほどまであれほど頼もしく思えていた相棒は、この空間ではやけに場違いに思える。…おそらく、もう出番はないだろう。思いながらそっと壁際へ立てかけると、上谷は畳の上をゆっくり進んだ。
机の上には、開封された菓子袋。湯呑み。座布団。ついさっきまで、誰かがそこに座っていたみたいな生活の跡。
そして、部屋の奥。縁側へ腰掛ける人影の後ろで、上谷は足を止めた。学校指定のベスト。光へ透かされる黒髪。
「……深水」
呼びかけても、返事はない。ただ、風鈴だけがまた、小さく鳴った。
「…岩見から聞いたよ。この家で確かに、ネットで噂になるような、凄惨な出来事は起きてない。…ただ」
目の前の人物は振り返らない。舞う埃が、日差しに照らされてきらきらと光る。
「数年前まで、この家には猫がいた。鈴のついた首輪をしている、黒くて小さな猫だった。その子はある日、住人のおばあさんが目を離した隙に敷地の外へ出てしまって…それからもう、帰ってこなかった」
上谷は、縁側の向こう側を見つめる。塀の向こうで、道路を走る子供達の笑い声がした。もちろん、現実のものではない。
「おばあさんは一人で貼り紙を作って探し続けたけど、結局、猫は見つからなかった。そのうちにおばあさんが体調を崩して施設へ行くことになって、この家には誰もいなくなった。……それからだ。この家の近くで、どこからか鈴の音が聞こえる、って噂が立つようになったのは」
一度、言葉を区切る。息を整えて、上谷は、深水の中にいる存在へ声をかけた。
「…なあおまえ、帰ってきたんだろ。時間はかかったけど、おばあさんへ会いに戻ってきた。そんな時に知らない奴が自分の家にいて、びっくりしたよな。…本当に、ごめん」
沈黙。けれど、深水の肩がぴくりと反応する。
「お前のこと、絶対におばあさんのところへ送り届けるよ。だからそいつ…深水のこと、返してくれないかな。……俺にとって、めちゃくちゃ大切な人なんだ」
声が震えるのは、恐怖ではなかった。喉が熱くて、視界がぼやける。後のことも考えずに、上谷は目元を力強く擦った。
「…頼むよ。俺はまだ、深水に何も返せてない。助けてもらってばかりで、告白の返事だってしてない。昔、会ってたこともようやく思い出せた。……深水のことが、好きなんだ。だからまだ、ずっと一緒にいたい。もっとたくさん喧嘩して、そのたび仲直りして、話をしたい」
不意に風が止み、風鈴が動きを止める。耳鳴りがするほどの、静寂。先ほどとは打って変わって、息を吸うのも躊躇われるほど重たい雰囲気の中、深水がゆっくりと振り返る。金色の瞳が、上谷を捉えた。かと思えばその姿を視界に入れ、静かに細められる。
形の良い唇が開き、言葉を紡ぐ。発された言葉は、深水の物とは思えないほど小さく、幼かった。
室内は、異様な静けさに包まれていた。玄関を開けてすぐ、二階へ続く階段があって、その横に廊下。突き当たりは台所になっているようで、開け放たれた扉から、調理場が少し見えた。外見に反し、内部はそこまで荒廃している、というわけではない。元々の住人であるおばあさんが施設へ移る際に、ある程度荷物は片付けたのだろう。大きな家具をいくつか残して、家電や小物類は全て片付けられている。
時刻は、夕方よりも夜に近い。加えて雨戸が閉められているから、電気のつかない室内は、どこもかしこも暗かった。携帯のライトで辺りを照らして、一歩ずつ、上谷は慎重に歩を進める。
……いる。
上谷には幽霊が見えない。けど、絶対いる。そう確信できるだけの気配があった。ふと、携帯のライトが明滅する。
ぺたり。
足音が聞こえた気がして、振り返る。今、通り過ぎたばかりの玄関に、小さなクマの人形が落ちていた。気にしないことにして、再び歩みを進める。ぺたり。また振り返ると、クマの人形が、今度は自分のすぐ後ろに落ちている。
──正直、泣いちゃいそうなくらい怖かった。おばけを信じない。見えない。そんな、真昼間に言えるような主張はさておいて、実際目の前で怪奇現象が起きていたら、誰だって同じ気持ちになると思う。
除霊を進めるにあたり、似たような現象はいくつか経験してきた。それでも自分を保っていられたのは、深水がいてくれたからだ。あいつがいてくれる、力を貸してくれる。そんな信頼があった。今はそれがない。外には日沼がいるが、今この瞬間、上谷は一人きりだった。息が震えて、当たり前のように白く色づく。
──だが、こんなところで立ち止まるわけにはいかない。脳裏に、いつか深水が言ってくれた言葉を思い浮かべる。”上谷先輩が想像するような除霊って、塩をまいたり、結界を張ったり、呪文を唱えたりするような形だと思うんですけど、実際はもっと単純で……わかりやすく言うと、ターン制コマンドバトルなんです”
「…負けねえぞオラァ!」
声を荒げたのは、自分を鼓舞する意味合いが強かった。こんな言葉遣いは初めてだ。ざわ、と何かの気配が少し、動きを見せる。
「見えねえからって舐めんなよ! こう見えて中学までは野球やってたし、バットの扱いはすげえ上手…まあ……監督からバットで人を殴るようなことは死んでもするなって言われて育ったけど…お、お前たちは人じゃないからノーカンだし! 躊躇わないぞ! 俺は!」
叫びながら、また、深水の言葉を思い出す。”憑かれやすい人、というのはいます。精神的に不安定だったり、生きる力が弱まっていたり…そういう状態の人が、あの廃屋のように人気がなく、程よく荒れ果てた、干渉されやすい場所へ行くと、今回のようなことが起こったりする”
「散々ビビらせやがって! ここで決着つけてやるからかかってこい! あと、スニーカーの紐弁償しろよ! 同じブランドの揃えようとすると地味に高いんだから!」
後半は少し私怨が混ざっている気がしたが、上谷は止まらなかった。幽霊を見ることができない。そんな圧倒的な不利を覆すために上谷が選んだのは、幽霊に負けないほど生命力をみなぎらせること──つまり、とにかく元気に振る舞うことだった。元気、というか怒り散らかしているように見えるが、上谷は、大きな声を出すことでしか元気を表現する方法を知らない。あまりにも単純で、幼稚に思える。しかし、そんな作戦でも、少しは効き目があったらしい。息を殺し、忍び寄り、どうやって危害を加えてやろうか。そんな気配たちが、少しだけ遠のいていくような気がした。声を荒げた勢いのまま、部屋を進む。突き当たりに辿り着くと、今度は左に曲がろうとした。きっとそこに、深水がいる。そんな予感があったからだ。
台所を通り過ぎる時。ふと視線を投げた調理場に、黒い靄がかかっていた。…見なきゃよかった。少しだけ臆した気持ちを、あいつらは見逃さない。靄が人の形を作り、上谷を目がけて歩み寄ってくる。うまく、当てられるだろうか。バットを握りしめて、その時に備える。
こぽり。水中で、気泡の弾けるような音がした。これは確か、以前にも聞いたことがある、ような。思うよりも先に、調理場の蛇口が勝手に開いて、水が噴き出る。反応した黒い靄が霧散して、方々に散った。それを水滴が追いかけて、ぶつかり合って消える。まるで──鯉がいる池に餌を投げ込んだ時のような光景だった。
「……お前、逞しくなったな」
そう呟いた直後だった。霧散した黒い靄のうち、水をうまく回避した塊が、上谷の方へ向かってくる。──まずい、この距離ではバットを振ることができない。咄嗟に後ろへ下がり、一度距離を取ろうとするが、背中に廊下の壁が当たる。間に合わない。
「…っ」
靄の奥で、何かが笑った気配がした。覚悟を決め、バットをより強く握り込む。当たらないかもしれない。意味なんてないかもしれない。それでも何もやらないよりはマシだ。そう思って、手のひらに力を込めた時。
どこからともなく、廊下を風が吹き抜けた。部屋中の窓が、ガタガタと音を立てる。そして、上谷に迫っていた靄が、それに巻き込まれるみたいに吹き飛ばされ、壁に激突して消滅した。あまりの強風に目を瞑ると、悲鳴とも呻き声とも判別できないような音がして、静寂が訪れる。数秒間。騒ぎが収まって、上谷が目を開けた時にはもう、何もなかった。靄はおろか、蛇口の水すら元通りだ。まるで最初から、何もなかったみたいに。
「……ありがとう! ちゃんとお礼するから、生まれ変わったら絶対、俺のとこ来いよ!」
もちろん返事はないし、伝わっているかも、そもそも今のが本当に、上谷が思い浮かべている幽霊の仕業なのかもわからない。それでもそう言い残して、上谷は次の部屋へと進む。
この家の、一番奥。一番大きな部屋は、襖で仕切られていた。おそらく、居間として使われていたのだろう。壁は掛け軸をかけられるような形になっていて、部屋の中央には大きな座椅子が一つ、放置されている。
おそらく深水は、襖の奥だ。近づいて、手を伸ばす。その腕を、誰かが横から掴んだ。
「──!」
声にならない悲鳴が出る。反射で後退すると、座椅子に足がもつれて、背中から盛大に床へ転がることになった。くすくす。誰かの笑い声がする。
「…なるほどね」
何かを納得したわけではなく、ただ、精一杯の強がりだった。この部屋には、何かがいる。確実に。でも、上谷には全然見えない。目を凝らしても、ただただ薄暗い室内が映るだけだ。おそらく幽霊の方も、不用意に姿を見せると不利になる、と学んでいるのだろう。戦いの中でしっかり成長すんなよ。
おばけなんか嘘、ですもんね。
ふと、そんな言葉を思い出す。これは一番最初の除霊の時、深水が言っていた言葉だ。けれどそれ以外にも、妙に聞き覚えがある。
「おばけなんか…」
つぶやいて、そうだ。そういえば、こんな歌があった。でもどうして今、突然思い出したんだろう。転んだ拍子に頭をぶつけたからだろうか。考える頭に、昔の記憶がぼんやりと浮かぶ。昼下がりの公園。ベンチに座り、項垂れる男の子。確か、あの子の名前は──。
「…あきらくん」
バットを支えに立ち上がる背中を、誰かに蹴られる。…前にも、こんなことがあった。これも野次馬というやつだろうか。思いながら、転んだ拍子に落としてしまった携帯を拾い上げる。いつの間にかライトが消えて、カメラモードがオンになっていた。
……これ。
そういえば、あるじゃないか。霊感なんてまるでない。そんな人間でも平等に、幽霊を視認できる媒体が。上谷は携帯のカメラを部屋中に向ける。画面越しに見る室内は、少し曇っているように見えた。座椅子。棚。壁の隙間。一通り確認して…なにも映らない。それなら、残っているのは。上谷は、カメラのモードを自撮りに切り替える。しばらく間をおいて、携帯の画面いっぱいに上谷の顔と──その後ろに、粒の不揃いな歯だけが見えた。おそらくは微笑んでいるのだろう。もう少しよく目を凝らせば顔全体が見えたのかもしれないが、上谷にはその余裕がない。
「…見つけた!」
叫ぶよりも先に、バットを背後目掛けて思い切り振る。確かな手応えのあと、熱した金属に水をかけたときのような音がしたかと思うと、部屋の空気が少しだけ軽くなった。…成功したのだろうか。額に浮かび上がる汗を拭い、バットを振る時にまた落としてしまった携帯を拾い上げる。画面はまだ自撮りモードになっていたが、上谷の背後には誰もいない。
その代わり、襖が勝手に開く。慌てて振り返って──飛び込んできた光景を見て、上谷は目を疑った。
この家へ入る時、空はもう、街灯が点き始めるほど暗かった。なのに今、目の前に広がる縁側には、昼下がりみたいな陽射しが降り注いでいる。開け放たれた窓から、柔らかな風が吹き込む。庭は丁寧に手入れされ、色とりどりの花が咲いていた。風に揺れる風鈴が、からり、と涼しげな音を立てる。まるで、この部屋だけ時間が巻き戻ったみたいだ。
…これも幽霊の仕業で、怪奇現象と呼ぶのだろうか。
「……」
上谷は静かに息を吐き、手の中のバットを見下ろした。先ほどまであれほど頼もしく思えていた相棒は、この空間ではやけに場違いに思える。…おそらく、もう出番はないだろう。思いながらそっと壁際へ立てかけると、上谷は畳の上をゆっくり進んだ。
机の上には、開封された菓子袋。湯呑み。座布団。ついさっきまで、誰かがそこに座っていたみたいな生活の跡。
そして、部屋の奥。縁側へ腰掛ける人影の後ろで、上谷は足を止めた。学校指定のベスト。光へ透かされる黒髪。
「……深水」
呼びかけても、返事はない。ただ、風鈴だけがまた、小さく鳴った。
「…岩見から聞いたよ。この家で確かに、ネットで噂になるような、凄惨な出来事は起きてない。…ただ」
目の前の人物は振り返らない。舞う埃が、日差しに照らされてきらきらと光る。
「数年前まで、この家には猫がいた。鈴のついた首輪をしている、黒くて小さな猫だった。その子はある日、住人のおばあさんが目を離した隙に敷地の外へ出てしまって…それからもう、帰ってこなかった」
上谷は、縁側の向こう側を見つめる。塀の向こうで、道路を走る子供達の笑い声がした。もちろん、現実のものではない。
「おばあさんは一人で貼り紙を作って探し続けたけど、結局、猫は見つからなかった。そのうちにおばあさんが体調を崩して施設へ行くことになって、この家には誰もいなくなった。……それからだ。この家の近くで、どこからか鈴の音が聞こえる、って噂が立つようになったのは」
一度、言葉を区切る。息を整えて、上谷は、深水の中にいる存在へ声をかけた。
「…なあおまえ、帰ってきたんだろ。時間はかかったけど、おばあさんへ会いに戻ってきた。そんな時に知らない奴が自分の家にいて、びっくりしたよな。…本当に、ごめん」
沈黙。けれど、深水の肩がぴくりと反応する。
「お前のこと、絶対におばあさんのところへ送り届けるよ。だからそいつ…深水のこと、返してくれないかな。……俺にとって、めちゃくちゃ大切な人なんだ」
声が震えるのは、恐怖ではなかった。喉が熱くて、視界がぼやける。後のことも考えずに、上谷は目元を力強く擦った。
「…頼むよ。俺はまだ、深水に何も返せてない。助けてもらってばかりで、告白の返事だってしてない。昔、会ってたこともようやく思い出せた。……深水のことが、好きなんだ。だからまだ、ずっと一緒にいたい。もっとたくさん喧嘩して、そのたび仲直りして、話をしたい」
不意に風が止み、風鈴が動きを止める。耳鳴りがするほどの、静寂。先ほどとは打って変わって、息を吸うのも躊躇われるほど重たい雰囲気の中、深水がゆっくりと振り返る。金色の瞳が、上谷を捉えた。かと思えばその姿を視界に入れ、静かに細められる。
形の良い唇が開き、言葉を紡ぐ。発された言葉は、深水の物とは思えないほど小さく、幼かった。
