おばけなんてうそさ

 学校から歩いて数十分。自転車ならもう少しだけ早く。閑散とした住宅街に、その家はある。敷地はコンクリートの塀で囲まれていて、元々は丁寧に管理されていたのであろう植木が、今では小さな庭を跡形もなく埋め尽くしている。事件の現場となったわけではない。それでも、その家が放つ雰囲気から、近所の学生たちに心霊スポットと呼ばれ、恐れられている場所。
 あの日、上谷が訪れた廃屋は、初めて来た時と同じような姿で、そこに鎮座していた。上谷は実際に、ここへ深水が入っていく様子を見たわけではない。けれど──絶対に、ここにいる。そんな確信がある。ごくりと息を呑み、敷地へ近づくと、遠巻きに廃屋をじっと見つめる先客の姿がある。下校途中だったのだろう。肩には鞄がかけられていた。

「お前、よくここがわかったな」
「……日沼」
「…なんだその自転車。巨大な銀色の蜂に乗ってきたのかと思ったわ」

 話を続けようとした日沼の目線が一瞬、上谷の乗っている自転車で止まる。上谷は無言で自転車から降りると、邪魔にならないよう傍へ停めて、前籠からバットを取り出した。

「これは借り物なので気にしないでほしい」
「変わった友達がいるんだな」
「ここにいるんだろ、深水」
「……見えなくても、感じることはできるよな。今この家に、すごいのがいるって」

 言いながら、二人で廃屋を見上げるように並ぶ。様相は、あの日と同じだ。けれど何か、雰囲気がおかしい。それは、何か、としか言えないほど、感覚的な変化だった。後になってこの時のことを誰かに説明しようと思っても、きっとふさわしい言葉がない。上谷は思わず息を呑む。

「…やっぱり、日沼も見える人なの?」
「なんだ。てっきりあの後輩くんに聞いてるんだと思ってた」
「深水に?」
「意外と口が硬いんだね。上谷にバレたと思って、勝手に気まずくなってた俺がバカみたい」

 日沼が自嘲気味に鼻を鳴らす。そんな姿は初めてだった。驚きつつも今、本題はここにない。上谷が一歩前に踏み出すと、日沼がその腕を掴む。

「どこいくつもり?」
「この家の中」
「見えないお前がノコノコ行って、何か状況が変わると思う?」

 日沼の顔はもう、笑っていない。真剣な眼差しが、上谷を射抜く。

「自分が幽霊に取り憑かれた理由、気がついてる? 空っぽな人間には、同じく空っぽな霊が寄ってくる。今、お前があの後輩くんを助けに中へ入ったとして、お前もまた別の霊に取り憑かれて終わりだよ」

 決して、意地悪で言っているのではない。日沼は友人として、上谷を心配してくれている。無謀なことはさせたくないし、危険な目に遭うのなら、事前に止めたい。だからあえて強い言葉を使って、上谷を思いとどまらせようとしている。それは、そんな思いは重重に承知で、それでも。

「…そんなことにはならない」

 上谷の方にも、譲れない事情がある。返す声には、強い気持ちが宿っていた。手をつかみ返すと、日沼が驚いたように目をひらく。

「深水、俺には自分を犠牲にするなってあんなに怒ったくせに、俺を庇って幽霊に乗っ取られたんだ。…そんなの、反則だろ。せっかく仲直りしたのに、話が違う。だから」

 一度、言葉を区切る。以前の自分ならきっと、こんな言葉は言わなかった。適当に誤魔化して、自分が一人犠牲になればいい、なんて本心は隠したまま、危険の中へ飛び込んでいただろう。あの日、クラスの女の子の罰ゲームを、代わりに引き受けたみたいに。でも、今は。上谷が再び、口をひらく。

「絶対あいつを取り戻して、二人でここへ戻って、また喧嘩する。俺なんかどうだっていいって気持ちで行くんじゃない。俺も…俺だって、深水を助けたいんだ」

 今まで深水が上谷に対して、そうしてくれていたように。バットを強く握り直す。体が震えるのは、恐怖からではない。日沼が、上谷の目をじっと見つめ返す。

「……どうしようかな」

 しばらく、沈黙。それから大きく息を吐いて、日沼は上谷の手を離した。

「助けてやってもいいけど…前に、黙って見てろって言われちゃったからな」
「…日沼?」
「だから、その言葉通りにするよ。上谷」

 そう言って、自分の荷物を足元へ放ると、腕まくりをする。

「お前があの家で用事を済ませている間、俺はここでこれ以上、この家に変なのが集まってこないように見張っといてやる。俺は後輩くんと違ってプロだから、信用していいよ」
「…プロなの?」
「黙ってたけど、そういう家系でさ。魔除け的なやつもできるけど…それがあるなら、いらないか」

 言いながら、日沼が上谷の胸にあるポケットを指さす。そこには、初めてあった日に深水にもらってから、ずっと持ち歩いていたお守りが入っていた。どうして、ここにあるってわかったんだろう。上谷が驚いていると、日沼が口角を上げる。

「上谷、お前変わったよ。それが、あの後輩くんのせい、っていうのがちょっと気に入らないけど…とにかく、前よりずっと良い。きちんと生きてるって感じ」
「…日沼、俺は」
「話はまた明日。…気をつけろよ。覚悟決めて意気込んだって、危険なことに変わりはないんだからさ」

 先ほどまでの雰囲気を残しつつ、日沼は、上谷がよく知る友人の顔をしていた。きっと、どちらも彼の素であることには変わりがないのだろう。上谷は力強く頷く。

「ありがとう、行ってくる!」

 そう言って、敷地内に足を踏み入れる。管理がされず、元気いっぱい思い思いに伸びた草が行く手を遮って、家に拒絶をされているみたいだった。がさがさと音を立てながら、遠ざかる背中を見送って、日沼がつぶやく。

「……あーあ。俺の方が、先だったのに」

 最初から俺も、言葉にしてぶつかっていたら、何か変わっていたのだろうか。なんて、存在しない未来の話は考えないことにして、日沼は自分の作業に集中する。今はただ、上谷がこれ以上危険な状態に陥らないように、手助けをすること。あの日できなかった…やらなかった行いに尽力することが、日沼の唯一だった。