おばけなんてうそさ

 どれくらい、気を失っていたのだろう。
 目を覚ますと、元々いた廊下に倒れていた。窓の外は暗いが、電気は問題なくついている。ポスターにももちろん、異常がない。周囲を見渡すと、壁に背中を預け、項垂れている後輩の姿があった。

「──深水!」

 名前を呼び、慌てて駆け寄る。

「深水、大丈夫か!?」
「…先輩こそ、無事で良かったです」

 意識ははっきりとあるようで、顔を上げて上谷の姿を見ると、安心したように息を吐いた。今この場で確認できる限りだが、目立った外傷もない。

「どうしてここに…?」
「クラスの人から、様子のおかしい先輩が、こっちへ走っていくのを見た、と聞いたので」

 言いながら、ゆっくりと立ち上がる。上谷を突き飛ばす時、衝撃で一緒に飛んでいってしまったのだろう。方方に散らばった自分の荷物を集め、鞄にしまう。上谷も慌ててそれを手伝った。

「図書室に行けなくてごめんなさい。ちょっとクラスの人に捕まっていて、なかなか振り切れなくて」
「…俺は別に、三人でもよかったよ」
「…見てたんですか?」

 上谷は、深水の顔を見ることができなかった。俯きながら参考書を拾い上げ、深水に渡す。

「見てた、っていうか、見ちゃった、っていうか…」
「…あのね、先輩。あの場ではもっと話が拗れそうで言えなかったけど、俺が嫌なんですよ。よく知らない人に、先輩と二人の時間を邪魔されるなんて、そんな黒いことは」

 胸の内に、ほの暗い感情が灯る。性質だけで言うなら喜びに近かったが、はっきりとそれを認めてしまうのは少し、怖かった。散らばった荷物の中に、深水がよく使用しているバットがある。…日頃から持ち歩いてるんだ、これ。
 ……あれ、そういえば。

「…なあ。さっきのって、俺についていたやつ?」
「なぜ、そう思うんですか? 熱中症だから?」
「いや……なんか、肝試しの時に廃屋で聞いたのと、同じ鈴の音が聞こえた気がして」
「そう思うなら、屋根裏の鼠なんでしょうね」

 ──違和感。上谷は、深水に手渡そうとしたバットを握ったまま、目の前の男を見る。

「深水?」
「何ですか? 早く帰らないと、縁側の下に戻れなくなりますよ。膝の上は暖かいですから、先輩だってそっちの方が良いはず」

 気のせいじゃない。上谷はゆっくり立ち上がると、バットを握る手に力を込める。

「深水」
「はい」
「…お前、深水だよな?」

 目の前にあるのは、深水の背中。…そのはずだ。それなのに、言葉にできないような、強烈な違和感がある。声をかけられた深水はぴたりと動きをとめ、ゆっくりとこちらを振り返る。いつも通り、横一文字に結ばれた唇。彫刻みたいに整った鼻筋。意志の強そうな眉毛。長いまつ毛に縁取られた黒い瞳が、一度、緩やかな動きで瞬く。 

 次に深水が目を開くと──その瞳孔が、猫みたいに細く引き絞られていた。

「…深水!」

 最後ににこりと微笑んで、深水は──深水の形をした何かが走り出す。何が起きているかわからない。わからないが、ここでこのまま、深水を行かせていいはずがない。思考よりも先に身体が動いて、上谷はその後を追った。だが、元々の体格が違う上に、おそらくは人ならざるものの力が加わっている深水には追いつけず、あっという間に距離が開く。そして校門を出た時、上谷は深水を完全に見失った。学校から別れる無限の道。そのどれを深水が選んだか、上谷にはわからない。焦燥だけが募って、視界がぐにゃりと歪む。

「…あいつ、俺には自分を犠牲にするなって言ったくせに…!」
「おお、上谷氏!」

 聞き覚えのある声がして、弾かれたように顔を上げる。駐輪場の方から、自転車を引いた岩見が歩いてきていた。

「随分とセンスの良いバットですな。キャッチボールの途中ですか?」
「岩見くん! 深水、見なかった!?」
「見ましたぞ。この間の一件、よほど怒っているのでしょうな…小気味良い挨拶をするわたしを完全に無視して、一直線にあちらへ」
「…っ、ありがとう!」
「あ、お待ちくだされ!」

 呼びかけられ、足を止める。岩見が、自身の自転車を上谷に差し出していた。

「深くは聞きませぬが、何か特別な事情がある様子。良かったらわたしのネオサイクロンハリケーン号を使用してくだされ。明日の放課後までに、学校の駐輪場に戻してくだされば結構ですので」
「ありが……なんか、すごい自転車だね…」

 ネオサイクロンハリケーンと称された自転車は、通常の車体に、ぐるぐると黒いテープが巻かれている。巨大な銀色の蜂みたいだ。見た目のインパクトだけで自転車の優劣を競う大会があれば、間違いなく上位に食い込むだろう。

「わたしの趣味というわけではなく、どんな対策を講じても何度も何度も盗まれるので、誰も手出しができないようなデザインにしたのです。誤解なきよう」
「…とにかく、ありがとう! 絶対返しにくる!」
「あ、それからもう一つ!」

 再び、足を止める。ネオサイクロンハリケーン号の籠に積み込んだバットが、からりと音を立てた。

「わたし、幽霊の話は地雷と言いましたよね」
「…ごめん岩見くん、俺今めちゃくちゃ急いでで」

 上谷が今すぐにでもその場を離れたいような雰囲気を出すと、岩見が片手でそれを制する。妙に落ち着いた声色だった。

「だから最初、お二人に部室で廃屋の話をした時には、話さなかったことがあるのです」
「…話さなかったこと?」
「はい。まず最初にお伝えしたとおり、あの家で凄惨な事件が起きたとか、人が死んでいるとか、そういう事実は全くありません。ないのですが、実は……」