おばけなんてうそさ

 廊下を夕陽が照らしている。深水のクラスへ行くのは、別に初めてじゃない。それなのになぜだか、身体は緊張に包まれていた。頭の中には、先ほどの女子生徒と、山中の言葉がぐるぐる渦巻いている。
 自分だけの存在じゃ、なくなるみたいで。
 …そんなのは、当たり前だ。深水は最初から、上谷だけのものじゃない。それに、何度も言うけれど、深水に友達が増えるのはとても良いことだ。クラスでも人気が出てきて、それだって喜ばしい。友人として、上谷は拍手で迎えるべき展開だ。それが、できない。したくない、と思うのは、俺が。

「ね、いいじゃん暁くん」

 廊下の角を曲がり、もうすぐで教室へ辿り着く、と言う時。開け放たれた扉から、そんな声が聞こえてきた。別に、やましいことがあるわけではないのだから、普通にそのまま教室へ入っていけばいいのに、上谷は咄嗟に姿勢を低くして、存在感を消しながら中の要素を伺う。

「私も混ぜてよ、その勉強会」
「だめ。上谷先輩と俺の約束だから」
「でもさあ、勉強会なら人数多い方がいいよね。私、深水くんと成績同じくらいだし? お兄ちゃんいるから、上の学年の勉強もちょっとわかるし」
「上谷先輩に勉強教えるのは俺だから」
「じゃあ私は、暁くんに勉強を教えてあげよっかな」
「……とにかく、今日はだめ。ごめん」
「暁くんってばあ」

 深水は疲弊している。きっと、もうずいぶんこのやりとりを繰り返しているのだろう。周りのクラスメイトから「いいかげんOKしてやれよ、深水」「倉田さん多分諦めないぞ」という声が投げかけられている。
 …来れなかった原因は、これか。
 納得すると同時に、胸にぶら下がる錘が、その質量を増した気がした。会話が親しげに聞こえるのは、深水のことを名前で呼んでいるからだろうか。それとも深水が敬語ではなく、砕けた口調だからだろうか。同学年だから当たり前だ。そこに変な意味を見出す方が変だ。そうだろ、しっかりしろ俺。上谷は頭を振る。
 助けてやろう。
 そんな言葉を思い浮かべて、教室へ入って行こうとした足が、ぴたりと止まった。…助けてやるって、誰が? 誰を? そもそもこの状況には、助けが必要なのか? 確かに深水は疲弊している様子だけど、別に、めちゃくちゃな要望を押し付けられている、と言うわけではない。じゃあこの場合におかしいのって誰だ? 俺が…俺が今、教室へ行って「別に三人でもいいよ! 勉強会楽しもうぜ!」と笑顔で言えばいいのか?

「ねえ、お願い。上谷先輩だったら多分、私がいても大丈夫って言うよ」
「…言うとは思うけど、上谷先輩じゃなくて俺の方が…」

 女子生徒が、深水の制服の袖を軽く引っ張った。
 ──これ以上、後輩が教室で過ごしている様子を盗み見するような、不審者でいるわけにはいかない。上谷は反射的に教室から目を逸らすと、黙ってその場から離れる。
 …さっきから何やってるんだ、俺は!
 全ての行動が今までの自分らしくなくて、妙な苛立ちが募る。背後から「……あれ?」と誰かの声が聞こえた気がしたけれど、振り返れなかった。そのまま足早に廊下を進んで、ある程度人の気配がなくなると、壁を背にしてその場に座り込む。

 この世にある悪い感情の全てが、今、胸の内に集まってきているようだ。心臓が、よくない脈の刻み方をしている。別に、深水が誰と話そうが自由だ。クラスメイトに好かれるのだって当然だし、友達が増えるのだって良いこと。親戚である山中だって喜んでいた。上谷自身も、そう思っていたはずなのに。
 なのに。

「……俺、感じ悪……」

 ぽつりと漏れた声は、情けないくらい弱かった。図書室へ戻る気にもなれず、脱力して顔を上げる。衛生週間。交通標語。テスト週間。文化祭準備期間。向かいの壁の掲示板にはられている様々なお知らせが、夜に呑まれ始めた弱い夕焼けに照らされている。オカルト研究部の部室にも、似たようなポスターがあったっけ。最初に見た時は少し不気味だったけれど、今ではもう、慣れて……。
 ……そもそも深水は、俺のどこが好きなんだろう。
 よく考えれば上谷は、ただ好きと言われただけで、深水がその気持ちに至るまでの経緯を知らない。口ぶり的に、上谷がオカルト研究部を尋ねる前にも一度、面識があるようだが、それは結局教えてもらっていない。深水の家で見つけた手紙の中身だって、聞いても答えてもらえなかった。
 …ちょっと待て。よく考えたら俺って、深水のこと何も知らないんじゃないか?
 日が沈み、つま先が闇に飲み込まれていく。そうだ。さっきから散々、優しいとかなんとか深水を評価していたけれど、よく考えたら、俺だってそんなに深水を理解しているわけではない。深水は、いいやつだ。クラスメイトから好かれるのも当然だ。じゃあ、俺は? 俺には何がある? 脳裏に、先ほど教室で見た光景が浮かぶ。自然だ。何が、かはわからないけれど、自分と深水が並ぶより、あちらの方が似合っている、と思ってしまう。それならどうして、深水は、俺なんかの、どこが。
 …あ、だめだ。また俺なんかって、こういうことを考えるから、だめなんだ。せっかく小野寺がアドバイスをしてくれて、深水とも仲直りできたのに、俺はまた。

 ──チリン。
 どこからか、鈴の音が聞こえた。顔を上げると、向かい側の壁に貼り付けられているポスターの全てと目が合う。

「……っ!」

 驚きながらも、背後の壁を支えに立ち上がる。改めてポスターを見ると、最初に見た時と同じ絵柄になっていた。荒くなる呼吸を落ち着かせるため、吐き出した息が白く濁る。ふと、上谷がいる廊下の先、突然電気が消えた。──チリン。また、鈴の音が聞こえる。どこか、聞き覚えのある音だった。廊下の蛍光灯が一つずつ消えて、暗闇が上谷まで迫ってくる。上谷の周りには誰もいない。しかし今、どこからか聞こえるざわざわと騒がしい話し声が、上谷の鼓膜を震わせている。
 今日、何食べる? 明日雨だって、最悪。お母さん見てあそこ。あ? なんだこれ。迷子かなあ。ついてねえな、ちょっとへこんじゃったよ。駅前まで迎えにきて。貼り紙見たよ。見つかるといいね。まあ、人間じゃなくてよかったわ。
 老若男女、様々な人間の話し声だ。上谷には、どの声も聞き覚えがない。思わず耳を塞ぐと、雑音がぴたりとやんだ。代わりに、視線の先。電気が消えた暗闇に、二本の足が浮かび上がっている。…正確には、足だけだ。脛から上は、何もない。それが、しばらくふらふらと彷徨うような動きを見せた後、上谷をめがけて走ってくる。
 ──あれに遭遇したらまずい。
 思うのに、体がうまく動かない。足音が大きくなって、地鳴りみたいな振動が伝わってくる。この感覚は、前にもどこかで味わったことがあった。確か…そうだ。まだ深水と出会う前、車に轢かれかけた時だ。──チリン。ああ、そうか。これは、この鈴はあの日、廃屋で聞いたのと同じ──。

「──上谷さん!」

 声が聞こえて、身体を突き飛ばされる。揺れる視界で最後に見えたのは、こちらへ手を伸ばす深水の、ひどく慌てた顔だった。