おばけなんてうそさ

「お、問題児」

 ある日の昼休み。廊下を歩いていると、声をかけられる。上谷のことをそうやって呼ぶのは、この学校に一人だけだ。振り返ると、案の定山中が立っている。

「こんにちは、山中先生」
「はい、こんにちは。また今日もオカ研くんの? そんな頻繁に通い詰めるならもう入部しちゃえよ」
「いいえ。今日は深水と図書室で大勉強会です」
「あき……深水と?」

 また、言いかけた。上谷はじっと山中を見る。

「前から思ってたんですけど、名前呼びするくらい仲良しなら、俺の前でも隠さずにそうしたらどうですか?」
「仲良し、っていうか…ちょっと、事情が」

 何度もあきら、と名前で呼びかけておいて、まさか、バレているとは思いませんでした、みたいな反応だ。上谷は少し、面白くない。山中がきょろきょろと周囲を気にしながら、声を顰める。

「あー…内緒な、これ。他の生徒には絶対内緒」
「はい」
「守れる?」
「はい」
「……甥っ子なんだよ、暁は」
「……甥っ子?」
「そう。先生のお姉さんの一人息子が、深水暁」

 思いがけない発言に、目が丸くなる。そういえば少し、目元が似ている…ような? 共通点を探して顔を見つめると、山中が慌てたように口を開く。

「もちろん、俺がここへ赴任してきたのは偶然だし、暁がここの生徒だったのも偶然だからな! 当然、贔屓もしてない! 大体、俺はあいつのクラスの授業なんか一つも受け持ってないから、贔屓のしようがないわけで…」
「疑ってないですよ。そんなことされなくても、深水は元から成績良いだろうし」
「…あいつのことずいぶん知ってるんだな…」
「もう長い付き合いなので」

 そう言って胸をはる。この間、土曜日授業の帰りに水族館へ行ったこともついでに話そうかと思ったが、入館して早々、魚ではなく水槽の分厚さを誉めていたあの横顔は、別に誰へも教えなくていいか、と思い直した。山中はしばらく感心したような表情をして、その後少し、真面目な声を出す。

「…姉さんも義兄さんも、結婚して家庭持ったのが不思議なくらい、仕事人間だからさ。全国各地を飛び回って、その度に転校して、あいつは昔から、一人でいることが多かった。特に、友達と仲良くはしゃいでる姿とか見たことなかったから、叔父さんとしてはもう、心配で心配で仕方がなかったんだけど…最近は楽しそうだ。きっと、上谷がいるからだろうな」
「…俺、何回かあいつのクラス遊びに行ったりしてますけど、あいつ、クラスメイトとも普通に喋ってましたよ」
「それは、上谷が話しかけるからだろ。暁の周りにあった人を寄せ付けない分厚い壁を、上谷が破壊したんだよ。無口で無表情で気難しそうな人間にいきなり話しかけるのは勇気がいるけど、そいつが上谷みたいに明るいやつと楽しそうに話してたら、自分も話しかけてみようかな、ってなるだろ」
「…ふーん」

 そういうもの、だろうか。上谷にはわからない。けれど。

「…別に俺がいなくても、深水はクラスに溶け込めたと思いますよ」
「そう?」
「はい。だってあいつ、いい奴だし、優しいし、気がきくし、それに…」

 言いながら、だんだんと胸が重くなっていく。深水のことを、褒める。それ自体は、めちゃくちゃに良いことであるはずだ。先輩後輩、それ以前に友人である深水の周りに人が集まるのは、同じ友人として嬉しい。昔から一人でいることが多かった、という話を聞いた後だから、なおさらだ。それなのに、どうしてこんな気持ちになるんだろう。考えていると、山中がぽん、と上谷の肩を叩く。

「…なんですか?」
「いやー…青春だな、と思って」
「は?」
「俺はもう、眩しくて仕方がないよ。そうだよな、今まで自分くらいしか仲良い奴いなかった子が、自分きっかけで交友関係が広がって、自分以外の友達が増えていくの。友達としては嬉しいけど、複雑だよな。なんだか、自分だけの存在じゃなくなるみたいで」
「な…そ、そんなこと、思ってないし!」
「はいはい」
「何ですかその、親戚の子供を見るような目は!」
「十分に子供だよ、お前たちなんて」

 思う存分に上谷を子供扱いした後、教師の顔に戻った山中は、深水によろしく、と言葉を残して去っていく。残された上谷は、その背中に何か言い返してやろうとして、結局、何も言葉が浮かばない。それよりも、山中に言われた言葉が、まったくの間違いではないような気がしていて、胸に引っかかっていた。

「…自分だけの存在じゃ、なくなる…」

 呟くと、それとほとんど同じタイミングで、昼休みの終わりを告げるチャイムが響く。次の授業は、上谷が最も苦手とする英語だ。ただでさえ成績が悪いのに、遅刻をして悪目立ちをするわけにはいかない。また、沈んでいきそうな思考を無理やりに中断して、上谷は慌てて自分の教室へと向かった。