おばけなんてうそさ

 日の傾いた空が、茜色に染め上げられている。住宅街だと言うのに、近辺は不気味なほど静まり返っていた。そこへ二人分の足音が反響して、ぴたりと止まる。
 深水の後を追い、たどり着いたのは小さな公園だった。遊具は砂場と、滑り台とジャングルジムが合体したようなものしかなく、敷地を囲うように背の高い木が植えられている。入口には掲示板があって、そこへ色々なポスターやチラシが重なるように貼られていた。不審者に注意。ポイ捨て禁止。猫を探しています。その中に、「いつも見ています、あなたのこと」という町内会の標語が混ざっていて、こういう状況だと少し不気味だった。
 ただの風なのか、もしくは別の理由なのか。がさがさと揺れる木々の合間を、深水がじっと見つめている。

「往生際の悪い…」
「な、なあ。今どういう状況?」
「何とかして、先輩の中に戻ろうとしています」
「……一応聞くけど、何が?」
「幽霊が」

 まあ…それ以外の単語が返ってくるはずもない。急に心細くなって、上谷は深水のそばへ歩み寄った。こういう、確実に幽霊がいる、という場所では、見えるより見えない方が怖いかもしれない。

「どうして、俺の中に?」
「突然祓われそうになって、混乱しているんでしょう。だから、今までいた居心地の良い場所に帰って、安心したい」

 帰りたいって、俺の身体は家じゃないんだぞ。なんていうことは、深水に言ったってどうしようもない。見えないなりに警戒して、何かあればすぐに対処できるように、上谷は辺りを見渡す。
 その時だった。

「…!」
「深水!」

 突然、砂場の砂利が舞い上がり、塊となって深水に降り注ぐ。子供がその小さな手に一生懸命握り込んだ小石を、いたずらに投げつけているみたいだった。

「本命以外にも、いくつか集まってきていますね」

 深水が鬱陶しそうに言う。相変わらず、上谷には何も見えない。見えないが、それでも、何か無数の気配に囲まれている、と言うことだけは感じることができた。こつん、と指で弾いたみたいな音を立てる鉄棒。滑り台を駆け上がる足音。ざわざわと無遠慮な話し声。

「ふ、ふか、み」
「…っ、数が、多い…」

 情けなく、恐怖で声が震えた。前方の深水は、見えない何かにちょっかいをかけられ続けている。跳ね上がった小石が、深水の左目を目がけて飛ぶ。それを庇って、はたき落とした深水の手の甲に、赤い線が走った。それでもなお、見えない攻撃は続いていく。

「深水!」
「大丈夫です。それより…さっきと同じ言葉になってしまいますが、危ないから下がっていて」

 こんなのは、絶対に不利だ。だってこっちは二人で、そのうち一人しか幽霊を見ることができなくて、というか、どうして深水しか攻撃されないんだ。俺を狙っているなら、俺だけに攻撃をすればいいのに。
 どうしよう、どうしよう。上谷の視界に、深水の手から垂れる赤色が見える。何か良い手段はないだろうか。深水への攻撃を中断させて、尚且つ、本命の幽霊だけを誘き出す方法は。

「…あ、そうだ」

 焦る脳みそが、一つの解決策を導き出す。それは、上谷にとって──あるいは、上谷にだけは、名案に思えた。

「俺が囮になれば手っ取り早いんじゃない?」
「…は?」
「本命の目的は俺なんだろ? だったら、そいつを誘き出せば」

 そうすれば、これ以上深水が余計なものに攻撃をされて、傷つくこともない。言うが早いか、上谷は一歩、深水より前に出る。途端に、教室でみんなの前に立った時のような緊張を感じた。滑り台の裏。砂場の中。無数の物陰から、視線がこちらを伺っている。
 ふと、前方。それまで消えていた街灯が、明滅を繰り返しながらも点灯する。灰色の景色が、一部だけ、くり抜かれたように色づいた。その中に、ぽつり、と足跡が浮かび上がる。人間の子供…いや。かぎ爪のような形の指が、前に三つ、後ろに二つ。恐竜のような形だ。足跡はゆっくりと上谷へ近づいてくる。距離が縮まるのに比例して、跡は徐々に小さくなり、やがては中型の鳥類のような大きさに収まった。

「…深水、これ…」
「………」

 深水は無表情だった。言葉を発さず、上谷を後ろから追い越すと、おそらくは足跡の主がいるところへ行き、拳を振り上げる。そして──それをそのまま下ろすことなく、途中で解いた。それから、小さな生き物を拾い上げるような、優しい仕草を見せる。教室で、鯉の幽霊を手のひらに乗せた時と、同じような動作だった。

「…鳥です」
「鳥?」
「水に落ちて溺れかけていたところを、先輩に助けてもらったことがある、と」
「…あー。あの時の、かっこいい鳥?」

 これは、上谷も覚えている。何年か前、用水路にタカのようなワシのような、それにしては小さく、雀を大きくしたような模様の鳥が、全てを諦めたように浮いていたので、木の棒を使って掬い上げた。…鯉とか、鳥とか。人ですら忘れてしまいそうな記憶を、よく覚えているものだ。上谷は感心する。深水の腕の中で、見えない何かがしゅん、と縮こまっている気配がした。

「…大暴れしたこと、反省しているみたいです」
「…特に、深水のおばあちゃんの声を使ったのは、やりすぎだからな。深水に謝って、反省しろよ」
「………無事に先輩と会えたので、もう行くみたい」

 そう言って、深水が両手を広げる。それと同時に一つ、柔らかな風が吹いた。心なしか、公園内の空気が軽くなる。上谷は大きく息を吐き出した。張り詰めていた緊張が、ようやく解かれたような気分だった。

「…今ので、二体目も除霊完了ってこと? いやあ、よかっ」
「よくないです」

 遮ったのは、あえてだろう。上谷の能天気を潰して、深水が一歩、距離を詰める。言葉を交わす前から、深水が怒っているのが、肌を刺すような空気でわかった。思わず後ずさると、深水がまた一歩近づく。上谷は、初対面の時を思い出した。追い詰められた背中が、遊具の壁に受け止められる。

「どうして、自分を囮にしたんですか」
「…え」
「今回は、本命の幽霊が途中で自分を取り戻し、自ら姿を見せたから、穏便に済みました。けど、そうじゃなければ、先輩の身が危なかった」
「で、でも、あの時はあれが一番、効率的だったし」
「効率?」
「そう。それに、深水が怪我するより、俺が怪我した方が」

 ──ガンッ!
 上谷の言葉を消すように、金属を思い切り打ちつけたような音がした。何が起きたのか分からなくて固まっていると、深水が上谷の頭上、振り上げた手を目の前に持ってきて、掴み取った”何か”を、ゆっくりと握りつぶす。

「俺、先輩のことは毛髪一本から爪先に至るまで全部好きですが、そういうところはあまり、好きじゃないです」

 長い指の隙間から黒いヘドロ状のものが垂れ落ちて、手の甲の赤と混ざり、地面へ落ちる。これも、教室で幽霊を殴った時に見えた煙と、同じ類のものだろうか。それよりも、鮮烈な感情を宿す深水の目に射抜かれて、上谷は一歩も動けない。

「この公園にいる幽霊は、あの鳥だけじゃない。いま俺が潰したものを含め、別のものまで先輩に引き寄せられて、挙句に取り憑かれでもしたら、もっと大変なことになっていました。…それこそ、俺みたいな素人ではもう、どうにもできないくらい」
「…じゃあ、どうすればよかった? お前が目の前で傷つけられてんのを、黙ってみていればよかったのか?」
「俺は言いました。危ないから下がっていてほしい、って。だから、先輩はただ俺を信じてくれればよかったんです」
「そんなの、」

 思わず、声が大きくなる。そういえば、こんなふうに声を荒げて、誰かと言い合いをしたのは初めてかもしれない。

「結局俺だけが、安全な場所で黙ってみてるのと同じじゃん」

 この後に及んで上谷は、深水が怒っている理由があまり、わかっていない。だって、じゃあ、どうすればよかったんだ。深水のことは信じている。けれど、それと怪我を負うところを静観しているのは、全く違う問題だ。ぐ、と眉を寄せる上谷を前に、深水が大きな息を吐く。

「先輩が犠牲になる可能性が生まれるくらいなら、そっちの方がずっといい」
「…どうしてそんなこと言えるんだよ」
「それはこっちのセリフです」

 感情が大きく乱れているのは、深水も同じだった。いつもより低い声が、上谷の動揺を誘う。

「どうしてそんなに容易く、“自分が犠牲になればいい”って発想になるんですか」
「だって、その方が簡単で」
「簡単ですよ、先輩にとっては」

 その言葉に、上谷は口を閉じる。そしてようやく、深水の怒りが、危険な行為をした上谷に対してだけではなく、上谷にそんな行動を選ばせてしまった自分自身にも向けられている、ということに気がついた。

「俺が除霊をお手伝いしているのは、先輩がこれ以上、傷つかないようにするためです。あなたのことが大切で、あなたを助けたいと思うから。それなのに、どうして先輩本人がそれを、無碍にするようなことを言うんですか」

 深水の顔が、泣きそうに歪んだ。けれどそれは一瞬で、自身の髪をくしゃりと乱したあと、上谷から離れる。

「…とりあえず、除霊は完了ですね。お疲れ様でした」

 声は淡々としていた。内に抱える感情はともかく、表面上はいつも通りに見える背中が、公園の出口へと向かう。

「……深水、俺は」
「いろいろなことがあって疲れているでしょうから、先輩も今日は帰った方がいいです」
「でも」
「大丈夫、送りますから」

 振り返らず、会話は続く。言葉はどれも上谷を慮るものばかりなのに、それら全てが、なぜだか深水からの拒絶のように感じた。