「──改めて、幽霊の話ですね」
変な日本語だなあ、と他人事のように思った。何せ今まで生きてきて、改めて幽霊の話、と言うものをした経験がない。数ヶ月前の上谷に言えば、もっと他人事みたいな反応をするだろう。目の前のテーブルには、深水が入れてくれたお茶が二つ。傍のホワイトボードには、幽霊が好む場所の条件と、今まで行った場所が書かれている。夜の学校。カラオケ。図書館。大型商業施設。水族館。公園。駅のホーム。エトセトラ。
「結構いろんなところ行ったけど、あんまり効果なかったね…」
「…そうですね」
深水は何かを考え込んでいる。心の中を読めるわけではないので、これは上谷の憶測になるが、おそらく抱えている気持ちは同じだ。
次の案が思いつかない。ここなら確実、絶対幽霊出るでしょ、という場所ならいくらか思いつくのだが、条件が良すぎるとだめ、というのはすでに学んでいる。加えて、学生である二人が何の心配もなくいける場所となると、さらに選択肢は絞られた。しばらく期間をあければまた、忘れ物作戦を使って学校へ忍び込めるかもと思っていたのだが、残念ながら、守衛は二人の顔を覚えてしまったようだ。
…どうしようかな。静寂に包まれる教室に、ひらめきが一つ、落ちる。
「……あ、そうだ」
声を上げると、それに反応した深水が顔を上げた。
「俺の家とかは?」
「……先輩の?」
「そう。妹達は習い事だし、親はそれの付き添いだし、夜遅くまで誰もいないんだよね。条件ぴったりじゃない?」
言いながら、ホワイトボードを指差す。我ながら名案と思ったのに、深水はすごく微妙そうな顔をしていた。綺麗な顔が、曇ったり唸ったり。…そこまで変なことを言ってしまっただろうか。上谷が不安になっていると、深水が、何か重大な決心をしたように、重々しく口をひらく。
「…除霊のために、一度部屋へ幽霊を招き入れる必要があります。その場で祓ってしまえば後には何も影響がないと思いますが、幽霊が出た部屋で生活を続けるのは気分が良くないでしょう」
「それは、まあ…仕方がないというか」
「だから」
そこで区切って、また、少し沈黙。その後に。
「先輩が嫌じゃなかったら、俺の家に来ますか」
と言った。
家…深水の……家…? 言葉を噛み砕いて、意味を少しずつ理解する。
「…まじ? いいの?」
「はい」
「でも…さっきの理屈で言うなら、お前だって嫌なんじゃない? その、幽霊が出た部屋で暮らしていくの」
「俺は別に、慣れていますから」
なんでもなさそうに言うが、きっと裏には、今まで積み重ねてきた、計り知れない苦労が隠されているのだろう。どうですか。深水がこちらを伺う。何か、他にも意図がありそうな目線だったが、上谷にはわからない。
「…それじゃあ、お邪魔しちゃおうかな」
だから、そんな返事をした。深水が頷いて、それじゃあ行きましょう、と荷物をまとめ始める。
──誓って言うが、この時の上谷は本当に、何も考えていなかった。ただ、条件ぴったりだし、ちょうどいいじゃん、と。本当にそれだけ。
電車やバスを使うのかなと思っていたが、深水の家は、学校から歩いていけるところにあった。上谷の家も学校からそれほど遠くないから、ご近所さんと言っても……いや。流石にそれは遠いな。公園を通り過ぎ、住宅街を抜け、景色が落ち着いてくると、大きな家の立ち並ぶ区画に入る。圧倒されながら歩いていくと、深水が足を止めた。ここです。一言告げて、敷地の中へ入っていく。
ドラマに出てきそう、というのが最初に抱いた感想だった。へえ、ここが深水の。なんだか感動しながら、見上げてぼんやり、しばらく考えて、…。
「…深水くん」
「はい」
「もしかして、俺ってさ。自分のこと好きって言ってる人間の家に、何も考えずノコノコついていってる人……になってる?」
「…やっぱり、気がついてなかったんですね」
振り返る深水の顔には呆れが滲んでいた。上谷は、自分の頬が発火しそうなほどに赤くなっていくのを感じる。
「いッ……いってよ! 俺、めちゃくちゃお気楽お天気無神経野郎じゃん!」
「提案された時は試されているのかなと思いましたが、先輩の様子を見ると本当に、マジで何も考えてないんだろうなーというのが伝わって来たので、まあいいかなって。俺の思いやりです」
「そういのは優しさって言わないの…!」
「大丈夫ですよ。要は、俺がどこまで我慢できるかっていう、精神力の問題なので。それより」
玄関の鍵を開けながら、深水が責めるような目で上谷を見る。
「…最初、自分の家に招こうとしていましたよね」
「…はい」
「俺を相手にとんでもない提案してたって、わかりましたか?」
「わかりました…」
提案した時、深水がめちゃくちゃ微妙な顔をしていたのは、これが理由だったのか…。今更理解して、上谷は落ち込む。その様子を見て、散々振り回された深水は、ある程度満足したようだ。
「…この話は終わり。さあ、どうぞ」
立ち尽くしているわけにもいかないので、申し訳ない気持ちを抱えながらも、おとなしく家の中へ入る。お邪魔します、と頭を下げるが、室内はしんとしていた。人はおろか、動物の気配もない。入ってすぐ、廊下の奥に、おそらくは二階へと続いているのであろう階段が見えた。深水が上谷の分のスリッパを並べながら言う。
「この階段を上がって、廊下の突き当たりが俺の部屋です。何か飲み物を持っていくので、先に行っていてください」
そういって、深水は別の部屋へと姿を消す。おそらく、リビングへ向かったのだろう。…勝手に歩いていいなんて、ずいぶん信頼されている。いや別に、何か悪さをするわけじゃないけど。思いながら、言われた通り階段を目指して廊下を進む途中、扉が少しだけ開いている部屋があった。無意識に部屋の中へ視線をやると、中は畳が敷かれていて、お婆さんがこちらに背を向け座っている。
…なんだ、家族いるじゃん。
上谷は少しだけ安心した。自分たち以外の人間がいても、部屋で二人っきりだったら問題ないのだろうか。後で深水に確認してみよう。
無言で通り過ぎるのは失礼かもしれないと思いつつ、わずかに開いた扉の隙間からいきなり声をかけるのもどうかと思い、部屋を通り過ぎた上谷は階段を上がる。挨拶は帰り際にしよう。思いながら、廊下の突き当たりへ辿り着くと、ドアノブを引いた。
殺風景な部屋だった。物があまりなく、机の上には分厚い小説と…たぶん、知恵の輪。棚には参考書と教科書、それから、上谷が知らないアーティストのCD。椅子の背にはジャケットがかけられていて、あいつ、私服でジャケットとか着るのかな…とぼんやり思う。そういえば、いままで除霊目的で色々な場所へ行ったけれど、全部学校帰りでお互い制服だったから、深水の私服は見たことがない。
…座って待っていていいのかな。落ち着かない気持ちで部屋の中ほどまで入ると、机の下に、何かが落ちているのを発見した。普段なら、人の部屋へ入って、そこに落ちているものを勝手に触ったりはしない。けれど、見間違いじゃなければ…。
上谷はしゃがみこみ、それを拾い上げる。長方形の、上等そうな封筒はしっかりと糊付けされていて、宛名には…やはり、上谷先輩へ、と書いてある。
見間違いじゃなかった。けれど、どうして深水の部屋に俺宛の手紙が? 連絡先を知っているのだから、メッセージでも電話でも、伝えられるのに。上谷が首を傾げていると、背後から勢いよく階段を駆け上ってくる音がした。思わず肩が跳ねたが、それでも手紙は落とさない。やがて、ばたん! と音を立てて扉が開かれると、いつになく慌てた様子の深水が立っていた。視線が部屋の中をしばらく彷徨った後、上谷の手元へ移る。
「…やっぱり! 家に呼ぶつもりじゃなかったから、昨日見返したまま閉まってなかった…!」
絶望。深水は、その二文字を正しく表現した顔をしていた。そして、顔を青くしながら上谷へ駆け寄ると、手紙を奪い取る。呆然としていた上谷はろくな抵抗ができず、あ、と声を漏らすのみだった。
「深水くん」
「……」
「ねえ、深水くんってば」
「……なんですか」
「その手紙って、俺あて?」
「そうだけど、そうじゃないです」
「何、どっち」
「どっちでもないです」
「ねえってば」
「まだこうして話すようになる前に会えたら渡そうと思っていたものなので、もうこの手紙に効力は無くなりました。本当に忘れてください」
「えー、どうしようかな?」
上谷が手紙へ手を伸ばすと、深水が慌てて背を向ける。取ろうとして守って、守ろうとするのを邪魔して。それを繰り返すうち、上谷がほんの少しでも身体を動かすと、深水が過剰に反応するようになった。なんだかすこし楽しくなってきた上谷はしばらく、手紙の所有権を争って深水と戯れる。やがて、追い詰められた深水が、必殺の無言黙り込みを繰り出そうとした時。
「おーい」
そんな声が聞こえた。突然、第三者の介入を受けて、二人が同時に黙り込む。どうやら、一階から聞こえてきているようだ。
「おーい、暁くーん」
老人…女性の声だ、と思った。おーい。おーい。呼びかけは続く。しかしいつまで経っても、名前を呼ばれている深水が返事をしないので、上谷は不思議に思う。
「…深水、返事しないの?」
「…どうして?」
「だって…この声って多分、深水のおばあちゃんだろ? さっき一階の部屋にいたし…」
「……先輩、こっちへ」
深水の顔つきが変わった。不思議に思いつつも、なにか嫌な予感がして、上谷は深水の背後へ隠れる。
深水は、扉をまっすぐに睨みつけていた。階下から、階段をゆっくり登ってくる足音が聞こえる。
「そのまま、俺から離れないで」
ぎしり。ぎしり。上谷が歩いた時、廊下はこれほど軋まなかった。まるで、わざと音を立てて歩いているみたいだ。足音が、扉の前まで迫る。
「上谷先輩」
「な、なに…?」
「…俺の祖母は、俺が小学生の時に亡くなりました。両親は仕事に行っているので、いま、この家には俺と上谷先輩以外、誰もいません」
肌がぶわりと粟立つのがわかった。だって、上谷は先ほど、はっきりと見た。そんなに凝視をしたわけではないけれど、あれは確かに人間の背中で、髪の毛で、それで。
「…じ、じゃあ、俺が見たあれは」
「…祖母は昔から、人ではないものが見え、怯える俺を慰めてくれました。両親が俺を疑っても、祖母だけはいつも俺の味方だった。だから、幽霊がこの家にいるとして……おばあちゃんが、俺を怖がらせることをするはずがない」
静かな声だったが、そこには確かな怒りが滲んでいた。祖母の声を使い、騙る何者かが許せないのだろう。
ふと、上谷の目線が深水の拳へ向かう。力強く握り込まれたそれは、微かに震えていた。上谷は思い至る。ここへくる前、深水は幽霊には慣れている、と言っていたけど、きっと、まったく怖くない、というわけではないのだろう。上谷だって、逆の立場だったら絶対に無理だ。人ではないものを見続けて、それに慣れて、何の感情も抱かないなんて。
深水は頼もしい。答えのわからない現象をわかりやすく説明してくれて、上谷を安心させてくれる。怪異にバットを持って、立ち向かってくれる。けれど…深水だって、自分と同じ。ちょっと変なものが見えるだけの、どこにでもいる高校生だ。上谷には、幽霊の類を見ることができない。それでも、深水をひとりきりで戦わせずに済む方法は、いくらかある。
「…深水」
「なん…」
言葉は続かなかった。両手を伸ばし、腰から腹にかけて、自分より大きな身体を抱きしめる。密着した深水が、びくりと大きく跳ねた。
「な、…えっ…せ、先輩、どうしたんですか」
「えーっと…生のパワー?」
「せい…」
「深水が前に食堂で言ってたやつ。流石に、その……セックスはできないけど、こうして深水を支えることならできるな、と思って……」
…無言。深水は沈黙している。それなりに勇気を出したのだから、上谷としては「いやいやこんなことされても意味ないです。性行為って言ったでしょう、おままごとじゃないんだから」みたいなのでもいいから、何かこの羞恥心を掻き消すほどの言葉が欲しいところだった。
「…深水くん」
「……」
「深水くん?」
「……」
「…もしかして、効き目ない?」
「いいえ、効果抜群です」
──チッ。
急に深水が返事をした、かと思えば、それと同時に耳元で舌打ちが聞こえる。もちろん、深水や上谷の行動ではない。視線の先、そんなところには誰もいないはずなのに、ドアノブがガチャガチャと回されている。深水が半身で振り返り、上谷の顔を見た。先ほどよりは、いくらか穏やかな表情だった。
「深水…」
「ありがとうございます、先輩。でも危ないので、下がっていて」
「でも、」
「俺はもう大丈夫。十分、勇気をもらえましたから」
そう言ってするりと腕を解くと、上谷から離れた深水が拳を構える。自分を落ち着かせるため、深く吐いた息が濁った。ぶわりとカーテンが舞い上がると、風もないのに窓が揺れて、棚から教科書がバラバラと落ちる。まるでこの部屋にだけ、突風が吹き荒れているみたいだ。
「大丈夫!? なんか、ポルターガイスト的なこと、起こってるけど!」
「大丈夫、塵にします」
疑問と返答が、微妙に噛み合ってない。深水は一歩前へ出ると、空中の一点を睨む。黒い目が何かを追うようにぐるぐると動いて、かと思えば次の瞬間、何かを殴りつけるように腕を振った。空振りに見えたその挙動の後、ぱん! と乾いた音が響く。風船を何か鋭いもので突いたときのような音だ。天井の隅、何もない空間で黒い靄みたいなものが散って、部屋の空気がさらに数度低くなる。
「…やっぱり、素手だと威力が弱いな」
深水の呟きが、無数の羽音によってかき消される。もちろん、部屋の中には上谷と深水の二人以外、生き物はいない。それなのに、ばさばさと大きな翼の羽ばたく音が、鮮明に聞こえる。
──ガンッ!
脳みそが状況に追いつかない。突如、窓が内側から叩かれたみたいに大きな音を立て、そのまま鍵が、勝手に外れた。
「え」
思わず声を漏らすと、窓が開く。外気が一気に吹き込んできて、上谷は目を細めた。
「……逃げた」
開け放たれた窓を睨みながら、深水が低く呟く。どういうことかを聞き返そうとすると、深水はもう、部屋を出て行こうとしていた。
「ど、どこいくの?」
「追います」
「追う?」
「あいつは、先輩が取り憑きやすい人間だと気づいてる。放っておいたら、俺が見ていない間に絶対、また先輩へ取り憑こうとします」
手早くそう説明して、深水が部屋を出ていく。残された上谷は、少しだけ困惑して、それから。
「…ああもう、不用心!」
明けっぱなしの窓をきちんと閉めてから、深水の後を追った。
変な日本語だなあ、と他人事のように思った。何せ今まで生きてきて、改めて幽霊の話、と言うものをした経験がない。数ヶ月前の上谷に言えば、もっと他人事みたいな反応をするだろう。目の前のテーブルには、深水が入れてくれたお茶が二つ。傍のホワイトボードには、幽霊が好む場所の条件と、今まで行った場所が書かれている。夜の学校。カラオケ。図書館。大型商業施設。水族館。公園。駅のホーム。エトセトラ。
「結構いろんなところ行ったけど、あんまり効果なかったね…」
「…そうですね」
深水は何かを考え込んでいる。心の中を読めるわけではないので、これは上谷の憶測になるが、おそらく抱えている気持ちは同じだ。
次の案が思いつかない。ここなら確実、絶対幽霊出るでしょ、という場所ならいくらか思いつくのだが、条件が良すぎるとだめ、というのはすでに学んでいる。加えて、学生である二人が何の心配もなくいける場所となると、さらに選択肢は絞られた。しばらく期間をあければまた、忘れ物作戦を使って学校へ忍び込めるかもと思っていたのだが、残念ながら、守衛は二人の顔を覚えてしまったようだ。
…どうしようかな。静寂に包まれる教室に、ひらめきが一つ、落ちる。
「……あ、そうだ」
声を上げると、それに反応した深水が顔を上げた。
「俺の家とかは?」
「……先輩の?」
「そう。妹達は習い事だし、親はそれの付き添いだし、夜遅くまで誰もいないんだよね。条件ぴったりじゃない?」
言いながら、ホワイトボードを指差す。我ながら名案と思ったのに、深水はすごく微妙そうな顔をしていた。綺麗な顔が、曇ったり唸ったり。…そこまで変なことを言ってしまっただろうか。上谷が不安になっていると、深水が、何か重大な決心をしたように、重々しく口をひらく。
「…除霊のために、一度部屋へ幽霊を招き入れる必要があります。その場で祓ってしまえば後には何も影響がないと思いますが、幽霊が出た部屋で生活を続けるのは気分が良くないでしょう」
「それは、まあ…仕方がないというか」
「だから」
そこで区切って、また、少し沈黙。その後に。
「先輩が嫌じゃなかったら、俺の家に来ますか」
と言った。
家…深水の……家…? 言葉を噛み砕いて、意味を少しずつ理解する。
「…まじ? いいの?」
「はい」
「でも…さっきの理屈で言うなら、お前だって嫌なんじゃない? その、幽霊が出た部屋で暮らしていくの」
「俺は別に、慣れていますから」
なんでもなさそうに言うが、きっと裏には、今まで積み重ねてきた、計り知れない苦労が隠されているのだろう。どうですか。深水がこちらを伺う。何か、他にも意図がありそうな目線だったが、上谷にはわからない。
「…それじゃあ、お邪魔しちゃおうかな」
だから、そんな返事をした。深水が頷いて、それじゃあ行きましょう、と荷物をまとめ始める。
──誓って言うが、この時の上谷は本当に、何も考えていなかった。ただ、条件ぴったりだし、ちょうどいいじゃん、と。本当にそれだけ。
電車やバスを使うのかなと思っていたが、深水の家は、学校から歩いていけるところにあった。上谷の家も学校からそれほど遠くないから、ご近所さんと言っても……いや。流石にそれは遠いな。公園を通り過ぎ、住宅街を抜け、景色が落ち着いてくると、大きな家の立ち並ぶ区画に入る。圧倒されながら歩いていくと、深水が足を止めた。ここです。一言告げて、敷地の中へ入っていく。
ドラマに出てきそう、というのが最初に抱いた感想だった。へえ、ここが深水の。なんだか感動しながら、見上げてぼんやり、しばらく考えて、…。
「…深水くん」
「はい」
「もしかして、俺ってさ。自分のこと好きって言ってる人間の家に、何も考えずノコノコついていってる人……になってる?」
「…やっぱり、気がついてなかったんですね」
振り返る深水の顔には呆れが滲んでいた。上谷は、自分の頬が発火しそうなほどに赤くなっていくのを感じる。
「いッ……いってよ! 俺、めちゃくちゃお気楽お天気無神経野郎じゃん!」
「提案された時は試されているのかなと思いましたが、先輩の様子を見ると本当に、マジで何も考えてないんだろうなーというのが伝わって来たので、まあいいかなって。俺の思いやりです」
「そういのは優しさって言わないの…!」
「大丈夫ですよ。要は、俺がどこまで我慢できるかっていう、精神力の問題なので。それより」
玄関の鍵を開けながら、深水が責めるような目で上谷を見る。
「…最初、自分の家に招こうとしていましたよね」
「…はい」
「俺を相手にとんでもない提案してたって、わかりましたか?」
「わかりました…」
提案した時、深水がめちゃくちゃ微妙な顔をしていたのは、これが理由だったのか…。今更理解して、上谷は落ち込む。その様子を見て、散々振り回された深水は、ある程度満足したようだ。
「…この話は終わり。さあ、どうぞ」
立ち尽くしているわけにもいかないので、申し訳ない気持ちを抱えながらも、おとなしく家の中へ入る。お邪魔します、と頭を下げるが、室内はしんとしていた。人はおろか、動物の気配もない。入ってすぐ、廊下の奥に、おそらくは二階へと続いているのであろう階段が見えた。深水が上谷の分のスリッパを並べながら言う。
「この階段を上がって、廊下の突き当たりが俺の部屋です。何か飲み物を持っていくので、先に行っていてください」
そういって、深水は別の部屋へと姿を消す。おそらく、リビングへ向かったのだろう。…勝手に歩いていいなんて、ずいぶん信頼されている。いや別に、何か悪さをするわけじゃないけど。思いながら、言われた通り階段を目指して廊下を進む途中、扉が少しだけ開いている部屋があった。無意識に部屋の中へ視線をやると、中は畳が敷かれていて、お婆さんがこちらに背を向け座っている。
…なんだ、家族いるじゃん。
上谷は少しだけ安心した。自分たち以外の人間がいても、部屋で二人っきりだったら問題ないのだろうか。後で深水に確認してみよう。
無言で通り過ぎるのは失礼かもしれないと思いつつ、わずかに開いた扉の隙間からいきなり声をかけるのもどうかと思い、部屋を通り過ぎた上谷は階段を上がる。挨拶は帰り際にしよう。思いながら、廊下の突き当たりへ辿り着くと、ドアノブを引いた。
殺風景な部屋だった。物があまりなく、机の上には分厚い小説と…たぶん、知恵の輪。棚には参考書と教科書、それから、上谷が知らないアーティストのCD。椅子の背にはジャケットがかけられていて、あいつ、私服でジャケットとか着るのかな…とぼんやり思う。そういえば、いままで除霊目的で色々な場所へ行ったけれど、全部学校帰りでお互い制服だったから、深水の私服は見たことがない。
…座って待っていていいのかな。落ち着かない気持ちで部屋の中ほどまで入ると、机の下に、何かが落ちているのを発見した。普段なら、人の部屋へ入って、そこに落ちているものを勝手に触ったりはしない。けれど、見間違いじゃなければ…。
上谷はしゃがみこみ、それを拾い上げる。長方形の、上等そうな封筒はしっかりと糊付けされていて、宛名には…やはり、上谷先輩へ、と書いてある。
見間違いじゃなかった。けれど、どうして深水の部屋に俺宛の手紙が? 連絡先を知っているのだから、メッセージでも電話でも、伝えられるのに。上谷が首を傾げていると、背後から勢いよく階段を駆け上ってくる音がした。思わず肩が跳ねたが、それでも手紙は落とさない。やがて、ばたん! と音を立てて扉が開かれると、いつになく慌てた様子の深水が立っていた。視線が部屋の中をしばらく彷徨った後、上谷の手元へ移る。
「…やっぱり! 家に呼ぶつもりじゃなかったから、昨日見返したまま閉まってなかった…!」
絶望。深水は、その二文字を正しく表現した顔をしていた。そして、顔を青くしながら上谷へ駆け寄ると、手紙を奪い取る。呆然としていた上谷はろくな抵抗ができず、あ、と声を漏らすのみだった。
「深水くん」
「……」
「ねえ、深水くんってば」
「……なんですか」
「その手紙って、俺あて?」
「そうだけど、そうじゃないです」
「何、どっち」
「どっちでもないです」
「ねえってば」
「まだこうして話すようになる前に会えたら渡そうと思っていたものなので、もうこの手紙に効力は無くなりました。本当に忘れてください」
「えー、どうしようかな?」
上谷が手紙へ手を伸ばすと、深水が慌てて背を向ける。取ろうとして守って、守ろうとするのを邪魔して。それを繰り返すうち、上谷がほんの少しでも身体を動かすと、深水が過剰に反応するようになった。なんだかすこし楽しくなってきた上谷はしばらく、手紙の所有権を争って深水と戯れる。やがて、追い詰められた深水が、必殺の無言黙り込みを繰り出そうとした時。
「おーい」
そんな声が聞こえた。突然、第三者の介入を受けて、二人が同時に黙り込む。どうやら、一階から聞こえてきているようだ。
「おーい、暁くーん」
老人…女性の声だ、と思った。おーい。おーい。呼びかけは続く。しかしいつまで経っても、名前を呼ばれている深水が返事をしないので、上谷は不思議に思う。
「…深水、返事しないの?」
「…どうして?」
「だって…この声って多分、深水のおばあちゃんだろ? さっき一階の部屋にいたし…」
「……先輩、こっちへ」
深水の顔つきが変わった。不思議に思いつつも、なにか嫌な予感がして、上谷は深水の背後へ隠れる。
深水は、扉をまっすぐに睨みつけていた。階下から、階段をゆっくり登ってくる足音が聞こえる。
「そのまま、俺から離れないで」
ぎしり。ぎしり。上谷が歩いた時、廊下はこれほど軋まなかった。まるで、わざと音を立てて歩いているみたいだ。足音が、扉の前まで迫る。
「上谷先輩」
「な、なに…?」
「…俺の祖母は、俺が小学生の時に亡くなりました。両親は仕事に行っているので、いま、この家には俺と上谷先輩以外、誰もいません」
肌がぶわりと粟立つのがわかった。だって、上谷は先ほど、はっきりと見た。そんなに凝視をしたわけではないけれど、あれは確かに人間の背中で、髪の毛で、それで。
「…じ、じゃあ、俺が見たあれは」
「…祖母は昔から、人ではないものが見え、怯える俺を慰めてくれました。両親が俺を疑っても、祖母だけはいつも俺の味方だった。だから、幽霊がこの家にいるとして……おばあちゃんが、俺を怖がらせることをするはずがない」
静かな声だったが、そこには確かな怒りが滲んでいた。祖母の声を使い、騙る何者かが許せないのだろう。
ふと、上谷の目線が深水の拳へ向かう。力強く握り込まれたそれは、微かに震えていた。上谷は思い至る。ここへくる前、深水は幽霊には慣れている、と言っていたけど、きっと、まったく怖くない、というわけではないのだろう。上谷だって、逆の立場だったら絶対に無理だ。人ではないものを見続けて、それに慣れて、何の感情も抱かないなんて。
深水は頼もしい。答えのわからない現象をわかりやすく説明してくれて、上谷を安心させてくれる。怪異にバットを持って、立ち向かってくれる。けれど…深水だって、自分と同じ。ちょっと変なものが見えるだけの、どこにでもいる高校生だ。上谷には、幽霊の類を見ることができない。それでも、深水をひとりきりで戦わせずに済む方法は、いくらかある。
「…深水」
「なん…」
言葉は続かなかった。両手を伸ばし、腰から腹にかけて、自分より大きな身体を抱きしめる。密着した深水が、びくりと大きく跳ねた。
「な、…えっ…せ、先輩、どうしたんですか」
「えーっと…生のパワー?」
「せい…」
「深水が前に食堂で言ってたやつ。流石に、その……セックスはできないけど、こうして深水を支えることならできるな、と思って……」
…無言。深水は沈黙している。それなりに勇気を出したのだから、上谷としては「いやいやこんなことされても意味ないです。性行為って言ったでしょう、おままごとじゃないんだから」みたいなのでもいいから、何かこの羞恥心を掻き消すほどの言葉が欲しいところだった。
「…深水くん」
「……」
「深水くん?」
「……」
「…もしかして、効き目ない?」
「いいえ、効果抜群です」
──チッ。
急に深水が返事をした、かと思えば、それと同時に耳元で舌打ちが聞こえる。もちろん、深水や上谷の行動ではない。視線の先、そんなところには誰もいないはずなのに、ドアノブがガチャガチャと回されている。深水が半身で振り返り、上谷の顔を見た。先ほどよりは、いくらか穏やかな表情だった。
「深水…」
「ありがとうございます、先輩。でも危ないので、下がっていて」
「でも、」
「俺はもう大丈夫。十分、勇気をもらえましたから」
そう言ってするりと腕を解くと、上谷から離れた深水が拳を構える。自分を落ち着かせるため、深く吐いた息が濁った。ぶわりとカーテンが舞い上がると、風もないのに窓が揺れて、棚から教科書がバラバラと落ちる。まるでこの部屋にだけ、突風が吹き荒れているみたいだ。
「大丈夫!? なんか、ポルターガイスト的なこと、起こってるけど!」
「大丈夫、塵にします」
疑問と返答が、微妙に噛み合ってない。深水は一歩前へ出ると、空中の一点を睨む。黒い目が何かを追うようにぐるぐると動いて、かと思えば次の瞬間、何かを殴りつけるように腕を振った。空振りに見えたその挙動の後、ぱん! と乾いた音が響く。風船を何か鋭いもので突いたときのような音だ。天井の隅、何もない空間で黒い靄みたいなものが散って、部屋の空気がさらに数度低くなる。
「…やっぱり、素手だと威力が弱いな」
深水の呟きが、無数の羽音によってかき消される。もちろん、部屋の中には上谷と深水の二人以外、生き物はいない。それなのに、ばさばさと大きな翼の羽ばたく音が、鮮明に聞こえる。
──ガンッ!
脳みそが状況に追いつかない。突如、窓が内側から叩かれたみたいに大きな音を立て、そのまま鍵が、勝手に外れた。
「え」
思わず声を漏らすと、窓が開く。外気が一気に吹き込んできて、上谷は目を細めた。
「……逃げた」
開け放たれた窓を睨みながら、深水が低く呟く。どういうことかを聞き返そうとすると、深水はもう、部屋を出て行こうとしていた。
「ど、どこいくの?」
「追います」
「追う?」
「あいつは、先輩が取り憑きやすい人間だと気づいてる。放っておいたら、俺が見ていない間に絶対、また先輩へ取り憑こうとします」
手早くそう説明して、深水が部屋を出ていく。残された上谷は、少しだけ困惑して、それから。
「…ああもう、不用心!」
明けっぱなしの窓をきちんと閉めてから、深水の後を追った。
