──静かだ。
理科の実験や調理実習など、移動が必要な科目に使用される教室が立ち並ぶこの棟は、放課後になると途端に人の気配が消える。深水は夕陽が差し込む窓の外を見た。視線の先、上谷がクラスメイトたちと下校している様子が見える。何を話しているのだろう。聞こえるはずもないが、大きな身振り手振りで、友人たちに何かを一生懸命説明している様子に、少しだけ口角が上がる。
「二人きりでお話しするほど仲良かったっけ、俺たち」
ふと、渡り廊下の向こう側。夕陽の差し込まない暗がりから、目的の人物が姿を現した。深水は壁に半身を預ける姿勢から立ち直り、きちんと背筋を伸ばす。
「…突然お呼び出ししてすみません。来ていただきありがとうございます、日沼先輩」
「はいはい、どうも。君の大好きな上谷先輩の大親友、日沼だよ」
日沼はヘラヘラとしている。その態度に違わず、声色も軽い調子だったが、目の奥にはわずかな警戒と敵意があった。
「…気の利いた世間話とか苦手なんだよね、俺。だから、手短に話してくれる?」
「日沼先輩は、見える人ですよね」
要望通り、深水は単刀直入に切り出した。日沼には、特に驚いた様子がない。まるで、最初からそう聞かれるとわかっていたみたいに、あっさりと頷く。
「そうだよ。代々、そういう家系でね。…深水くんもそうなんだ?」
深水は無言だったが、日沼にとっては、それが十分すぎる肯定になったようだった。嘲るように鼻を鳴らすと、一瞬、視線を逸らす。短い沈黙。
「あなたには、最初から全部見えていた。肝試しの時、上谷先輩に霊が取り憑いたその瞬間も、その後もずっと」
深水の声が、静かに響く。日沼は肯定も否定もしなかったが、緩やかに持ち上がる口角が、全てを事実だと語っていた。
「…なぜ、何もしなかったんですか。上谷先輩は、あなたの友達でしょう」
「えー? だって、俺には関係ないから」
日沼は、相変わらず笑顔だった。
「誤解しないでね。俺だって別に、上谷のことは嫌いじゃないよ。むしろ、大切な友達だと思ってる。だから、助けて欲しそうなら助けた。でも」
そこで一度、視線を外へ逃す。窓からは、下校途中の生徒たちが見下ろせた。
「あいつはそうじゃない。俺とは違うくせに、何も見えないくせに、普通でいられるくせに、空っぽって感じで生きてる。こっちがどれだけ手を差し伸べても、俺なんかって言って終わらせる。……上谷が君のところへ行ったのだって、自発的じゃない。同じクラスの小野寺に言われたから。わざわざ助言をくれた小野寺の善意を、無碍にしないためだ。…気がついてる? あいつは誰に対しても優しいけど、それは全部、自己犠牲を下敷きに成り立ってる。自分のことがどうでもいいから、相手のことだけを優先して、助けに行ける。その行動自体に傷つく奴がいるとは思いもしない。例えば、ピンチに陥ってる人間を助けに行って、その結果自分が大怪我を負うことになったとして、上谷は”何が悪いんだ? 俺はともかく、あの人は助かっただろ?”って平気で言うよ。……そんなやつ、どうとでもなればいい」
日沼はどこか、諦観しているようだった。深水はぐっと眉を寄せ、口を開く。
「それでも今回は、手を差し伸べるべきだった」
「どうして?」
「あれは、俺たちにしか見えない。俺たちにしか解決できないことです」
「…だから、何?」
日沼の語調が少しだけ、荒くなる。
「俺たちは、見えない側に寄り添ってやれるよ。異常を隠さずにいるより、普通を装う方が簡単だからね。でも、それをしたところで、あいつらは俺たちに寄り添ってくれる? 変なのが見えるってだけで迫害されたこと、一度だってないの?」
「……」
嫌な思い出が、足音も立てずに忍び寄る。だめだ、今は。そんなのに呑まれている暇はない。深水は力強く拳を握った。
「上谷だってそうだ。今はきっと深水くんのそばにいてくれるよ。深水くんの力が必要だからね。でも、全部が終わったら?」
「……」
「ねえ、深水くん。上谷は、俺たちとは違うよ。分かりあうことはもちろん、受け入れ合うことなんて、一生できない。そもそもが、違う設計書で作られた人間なんだから」
校庭の笑い声が遠ざかる。夕日を雲が覆い隠して、廊下は一瞬、暗闇に包まれた。物陰から、何かがこちらを見ている気がする。背後を通り過ぎる気配があって、何もないのに風が吹く。
深水は、大きく息を吐いた。白く色のついたそれが、すこしだけその場にとどまって、やがて霧散する。
「……あまりにも考えが違いすぎて、話し合おうと言う気持ちにもなりません」
「あら、残念。せっかく同類同士、お友達になれるかと思ったのに」
「勝手に相手を決めつけて、対話もせずに分かり合えないって臍を曲げて、挙句に関係ないって切り捨てる。霊が見えるとか見えないとか、関係ない。そういう人間から人が離れていくのは、当然です」
日沼の顔から、初めて笑みが消えた。面白くなさそうに深水を見つめる視線は冷え切っている。
「…どうかな。お前も上谷の中身を知ったら、俺と同じ考えになるよ」
「そうですか。どちらにせよ助ける気がないなら、これ以上事態が悪化するようなことだけはせず、そこで黙って見ていてください」
「生意気言うじゃん。仮に、俺が悪意を持って上谷の事態を悪化させようと動いたとして、幽霊とか、そういうものの取り扱いや知識に関しては、俺の方が何倍も上だよ。最初にも言ったけど、そういう家系だからね。所詮は素人の深水くんが、勝てると思ってるの?」
「仮に、そうだとして」
廊下に再び、夕陽が差し込んだ。容赦のない光は、深水の髪を照らし、その表情に影を作る。
底の見えない漆黒。まるで、深い井戸を覗き込むようだ。日沼は思わず息を呑んだ。こちらを見つめる目には、尋常ではない執着が宿っている。
「先輩に関わることで俺が、他人に一歩でも遅れをとるはずがない」
周囲に集っていた得体の知れない気配たちが、たちまち方々へ逃げ出すのが、日沼にだけはわかった。深水は一度、大きな瞬きをすると、視線を正す。いつも通り、物分かりの良さそうな後輩の顔だった。
「…お話は以上です。それでは、さようなら」
そして、日沼に背を向けると、反対方向へ歩いていく。誰もいなくなった廊下で、日沼がぽつりと呟いた。
「…はは。あいつ、幽霊なんかよりよっぽど厄介なのに好かれてんじゃん」
理科の実験や調理実習など、移動が必要な科目に使用される教室が立ち並ぶこの棟は、放課後になると途端に人の気配が消える。深水は夕陽が差し込む窓の外を見た。視線の先、上谷がクラスメイトたちと下校している様子が見える。何を話しているのだろう。聞こえるはずもないが、大きな身振り手振りで、友人たちに何かを一生懸命説明している様子に、少しだけ口角が上がる。
「二人きりでお話しするほど仲良かったっけ、俺たち」
ふと、渡り廊下の向こう側。夕陽の差し込まない暗がりから、目的の人物が姿を現した。深水は壁に半身を預ける姿勢から立ち直り、きちんと背筋を伸ばす。
「…突然お呼び出ししてすみません。来ていただきありがとうございます、日沼先輩」
「はいはい、どうも。君の大好きな上谷先輩の大親友、日沼だよ」
日沼はヘラヘラとしている。その態度に違わず、声色も軽い調子だったが、目の奥にはわずかな警戒と敵意があった。
「…気の利いた世間話とか苦手なんだよね、俺。だから、手短に話してくれる?」
「日沼先輩は、見える人ですよね」
要望通り、深水は単刀直入に切り出した。日沼には、特に驚いた様子がない。まるで、最初からそう聞かれるとわかっていたみたいに、あっさりと頷く。
「そうだよ。代々、そういう家系でね。…深水くんもそうなんだ?」
深水は無言だったが、日沼にとっては、それが十分すぎる肯定になったようだった。嘲るように鼻を鳴らすと、一瞬、視線を逸らす。短い沈黙。
「あなたには、最初から全部見えていた。肝試しの時、上谷先輩に霊が取り憑いたその瞬間も、その後もずっと」
深水の声が、静かに響く。日沼は肯定も否定もしなかったが、緩やかに持ち上がる口角が、全てを事実だと語っていた。
「…なぜ、何もしなかったんですか。上谷先輩は、あなたの友達でしょう」
「えー? だって、俺には関係ないから」
日沼は、相変わらず笑顔だった。
「誤解しないでね。俺だって別に、上谷のことは嫌いじゃないよ。むしろ、大切な友達だと思ってる。だから、助けて欲しそうなら助けた。でも」
そこで一度、視線を外へ逃す。窓からは、下校途中の生徒たちが見下ろせた。
「あいつはそうじゃない。俺とは違うくせに、何も見えないくせに、普通でいられるくせに、空っぽって感じで生きてる。こっちがどれだけ手を差し伸べても、俺なんかって言って終わらせる。……上谷が君のところへ行ったのだって、自発的じゃない。同じクラスの小野寺に言われたから。わざわざ助言をくれた小野寺の善意を、無碍にしないためだ。…気がついてる? あいつは誰に対しても優しいけど、それは全部、自己犠牲を下敷きに成り立ってる。自分のことがどうでもいいから、相手のことだけを優先して、助けに行ける。その行動自体に傷つく奴がいるとは思いもしない。例えば、ピンチに陥ってる人間を助けに行って、その結果自分が大怪我を負うことになったとして、上谷は”何が悪いんだ? 俺はともかく、あの人は助かっただろ?”って平気で言うよ。……そんなやつ、どうとでもなればいい」
日沼はどこか、諦観しているようだった。深水はぐっと眉を寄せ、口を開く。
「それでも今回は、手を差し伸べるべきだった」
「どうして?」
「あれは、俺たちにしか見えない。俺たちにしか解決できないことです」
「…だから、何?」
日沼の語調が少しだけ、荒くなる。
「俺たちは、見えない側に寄り添ってやれるよ。異常を隠さずにいるより、普通を装う方が簡単だからね。でも、それをしたところで、あいつらは俺たちに寄り添ってくれる? 変なのが見えるってだけで迫害されたこと、一度だってないの?」
「……」
嫌な思い出が、足音も立てずに忍び寄る。だめだ、今は。そんなのに呑まれている暇はない。深水は力強く拳を握った。
「上谷だってそうだ。今はきっと深水くんのそばにいてくれるよ。深水くんの力が必要だからね。でも、全部が終わったら?」
「……」
「ねえ、深水くん。上谷は、俺たちとは違うよ。分かりあうことはもちろん、受け入れ合うことなんて、一生できない。そもそもが、違う設計書で作られた人間なんだから」
校庭の笑い声が遠ざかる。夕日を雲が覆い隠して、廊下は一瞬、暗闇に包まれた。物陰から、何かがこちらを見ている気がする。背後を通り過ぎる気配があって、何もないのに風が吹く。
深水は、大きく息を吐いた。白く色のついたそれが、すこしだけその場にとどまって、やがて霧散する。
「……あまりにも考えが違いすぎて、話し合おうと言う気持ちにもなりません」
「あら、残念。せっかく同類同士、お友達になれるかと思ったのに」
「勝手に相手を決めつけて、対話もせずに分かり合えないって臍を曲げて、挙句に関係ないって切り捨てる。霊が見えるとか見えないとか、関係ない。そういう人間から人が離れていくのは、当然です」
日沼の顔から、初めて笑みが消えた。面白くなさそうに深水を見つめる視線は冷え切っている。
「…どうかな。お前も上谷の中身を知ったら、俺と同じ考えになるよ」
「そうですか。どちらにせよ助ける気がないなら、これ以上事態が悪化するようなことだけはせず、そこで黙って見ていてください」
「生意気言うじゃん。仮に、俺が悪意を持って上谷の事態を悪化させようと動いたとして、幽霊とか、そういうものの取り扱いや知識に関しては、俺の方が何倍も上だよ。最初にも言ったけど、そういう家系だからね。所詮は素人の深水くんが、勝てると思ってるの?」
「仮に、そうだとして」
廊下に再び、夕陽が差し込んだ。容赦のない光は、深水の髪を照らし、その表情に影を作る。
底の見えない漆黒。まるで、深い井戸を覗き込むようだ。日沼は思わず息を呑んだ。こちらを見つめる目には、尋常ではない執着が宿っている。
「先輩に関わることで俺が、他人に一歩でも遅れをとるはずがない」
周囲に集っていた得体の知れない気配たちが、たちまち方々へ逃げ出すのが、日沼にだけはわかった。深水は一度、大きな瞬きをすると、視線を正す。いつも通り、物分かりの良さそうな後輩の顔だった。
「…お話は以上です。それでは、さようなら」
そして、日沼に背を向けると、反対方向へ歩いていく。誰もいなくなった廊下で、日沼がぽつりと呟いた。
「…はは。あいつ、幽霊なんかよりよっぽど厄介なのに好かれてんじゃん」
