おばけなんてうそさ

「上谷、おつかれー」
「きゃーッ!」

 悲鳴は反射だった。散々、幽霊が来ますと脅されていたところだ。無遠慮に開け放たれた扉の向こうにいるのが、インコでもワンコでもよく知るクラスメイトでも、同じような反応をする自信がある。実際、聞き覚えのある声だったにも関わらず、上谷は勢いよく深水へしがみついた。がた、と壁に固定されていないソファが揺れる。

「……先輩、落ち着いてください」
「だ、だって今のタイミングで急に声したらさあ!」

 言いながら、恐る恐る振り返る。そこに立っていたのは、幽霊でも怪異でも宇宙人でもなく、ただのクラスメイト──日沼だった。

「…………」
「…………」

 沈黙。上谷は深水へ抱きついた姿勢のまま。深水は深水で、そのまま二人で後ろへ倒れ込まないよう、上谷の体を支える形になっている。しかも室内は、先ほど少しだけ整えたとはいえ、霊の影響でまだ荒れていた。音量がゼロにされたカラオケ。そしてそこへ、永遠に送信され続ける演歌。ぐるりと室内を見渡し、日沼はにこりと微笑むと、そのまま静かに扉を閉めようとする。

「ごめん。お邪魔しました」
「うわーっ待って待って待って!」

 何をどう解釈されたのかはわからないが、上谷や深水にとって都合が悪いことが起ころうとしている、ということだけは確かだ。上谷は慌てて深水から離れ、扉へ飛びつくと日沼の離脱を阻止する。

「大丈夫、いまって令和じゃん。俺も含めそういうの偏見ない人の方が多いって、ね」
「違うから! 今のは事故!」
「何の?」
「それは……お前がいきなり来たからびっくりしちゃったっていうか、なんていうか…?」
「上谷ってそんな繊細だったっけ?」
「ていうかお前! ノックくらいしろよ! 他のお客さんだったら大変なことになってたぞ!」
「えー。その時はその時で謝れば良くない?」
「良くない!」
「はいはい、次からそうします」

 伝わったのかそうでないのか、よくわからない態度だ。上谷の言葉を適当にいなして、日沼の視線は深水へ向かう。

「で、その子だれ? 見たことないから、同学年じゃないよね」
「…一個下の深水暁くん。俺の友達」
「……はじめまして」
「はじめまして、上谷くんと同クラの大親友、日沼類です。……なるほどねえ。上谷は恋愛フラグ立ちまくりの女の子より、後輩との友情を優先にしたわけか。立派だねえ友達想いでねえ本当に…そうやって隙あらば好感度上げようとすんなよ! もう十分だろ!」
「そ、そんな怒られても…そもそも、日沼は何でこの部屋来たの?」
「クラスのやつらが、上谷が彼女連れでカラオケ来てるって騒いでたから慌てて見に来た。まあ、実際はかわいい後輩くんだったわけで、俺はとんだ無駄足でしたが…」

 日沼がわざとらしく泣き真似をする。何だか疲れた気持ちでそれを見ていると、秒速で立ち直った日沼が「それで」と話を続けた。

「君たちはもう帰んの?」
「い、一応…」
「はやくね? よほど盛り上がんなかったんだね」
「…ある意味盛り上がってたけど、隣の部屋がな…」
「隣の部屋?」

 言った後で、失言だったと思った。岩見の時と同じだ。この話題を出したら、幽霊についての説明をしなくてはならなくなる。露骨にしまった、という顔をする上谷のことはあまり意に介さない様子で、日沼は首を傾げた後、

「隣の部屋がうるせえの? 俺、注意してやるよ」

 そう言って廊下へ出て、スタスタ歩いて行ってしまった。
 ………いや、まずい!
 焦燥が遅れてやって来た。あまりに自然と、なんでもないことのように言われたので見送ってしまったが、今あそこには、深水に幽霊と呼ばれるものがいる。そんなところへ日沼が行って、取り憑かれるとはいかないまでも、何かしら影響があったら大変だ。

「日沼!」

 上谷が声を上げるより、深水が日沼を追う方が早かった。上谷も慌ててそれに続き、廊下に出る。
 日沼は、隣の部屋をじっと見つめていた。笑みの消えた横顔。上谷は、日沼のこんな表情を初めて見た。何の感情も宿さない目が二、三度瞬く。それからしばらくして、自身を追って来た二人に気がつくと、くるりと身体を反転させ──。

「…なんだ。誰もいないじゃん」

 平然と、そう言ってみせた。

「本当にこの部屋? 上谷の気のせいじゃない?」
「え、いや、でも……」

 ついさっきまで、確かに。恐る恐る部屋へ近づき、室内をのぞいてみる。自分たちが使用していた部屋と変わらない間取りで、たしかに、室内には何も異常がなかった。テーブルひとつ。ソファふたつ。モニターひとつ。上谷が混乱していると、日沼は気楽そうに手を振った。

「まあ何でもいいけどね。じゃ、俺クラスの奴らのとこ戻るわ。今度誘われたら普通に来いよな、上谷」
「……う、うん」

 日沼はそのまま去っていく。姿が見えなくなってから、上谷はようやく息を吐いた。

「……日沼の明るさにびっくりして、一時的に姿を消したとか……?」
「…………」
「深水?」

 そういえば、先ほどから静かだ。上谷は、隣に立っている男を見る。深水は隣室をじっと見つめ、難しそうな顔をしていた。

「…どうした?」
「……いません」
「え?」
「幽霊です。さっきまで確かに、ここにいたのに」

 深水の目が、遠ざかる日沼を追う。

「あの人…日沼先輩がこの部屋に来てから、気配が消えました」
「……」
「まるで」

 深水が小さな声でいう。その音は、廊下に流れる、今流行りの曲。部屋から漏れ出る歌声。全ての雑音を差し置いて、上谷の耳へ届いた。

「あの人が、祓ったみたいだ」