おばけなんてうそさ



 意識が遠のくほど深呼吸をしてもいつもの調子を取り戻せないので、いっそトイレの洗面所で顔でも洗わせていただこうかと思った次第だった。流石にそんなことはしない上谷は、心はともかく表面は平静を装い、ドリンクバーへと向かっている。店内の至る所に設置されている案内図に従って歩いていくと、前方に見知った後ろ姿があった。なんだ、同じ店だったんだ。

「あ、岩見く──」

 声をかけようとして、途中でやめる。岩見は曲がり角に身を隠し、ドリンクバー付近の様子を伺っているようだった。…何か、怖いものでもあるのかな。そう思って、岩見の背後から覗き込む。放課後、オカルト研究部へ向かう前に声をかけてきたクラスメイトたちの一部が、ドリンクバーを占領するように雑談をしていた。片手にはそれぞれ飲み物があるから、要件はもう済んでいるのだろう。

「……えっ、上谷じゃん!」
「うわマジだ、何してんの?」

 岩見には声をかけずに通り過ぎ、上谷はドリンクバーへ近づく。クラスメイトたちはもちろん上谷の存在に気がついて、思い思いに声をかけてきた。

「おつかれー。みんなもこの店だったんだ」
「上谷、今日来られないんじゃなかったの?」
「そうだよ、別の人と用事あって」
「用事ってカラオケかよ。こっち合流したら? そっちの連れも一緒でいいし」
「いや、今日はいいかな。ごめんね」
「…待って、もしかして彼女?」
「彼女と来てんの?」
「マジ? 上谷彼女いるの? 誰? 何組?」
「違うって、でもとにかく今日はダメなの。ほら、用事が終わった子はお部屋へ帰ってください。俺がドリンク取れないので」
「絶対彼女じゃん!」
「明日教室で話してもらうからな!」

 軽口を繰り返すうち、少しはいつもの調子が戻ってきた気がした。バタバタと慌ただしく立ち去るクラスメイトたちに手を振って、胸に手を当てる。心臓はもう、どきどきしていない。

「…岩見くんもこの店だったんだね」
「……上谷氏こそ、何用で?」
「用って、俺もカラオケしにきたんだよ。深水と」
「深水氏と………」

 話しかけると、岩見が曲がり角からおずおずと出てきた。警戒心をあらわに両手で空のコップを握り、落ち着かない様子で視線を彷徨わせている。なんだか、人に懐かない小動物を相手にしているような気分だった。

「……上谷氏」
「何?」
「…………その、一応お礼を。わたしが陽キャ集団に怯え散らかし、ドリンクバーへ行けないのを見かねて凸してくれたのでしょう」
「とつ…? いや別に、そんなんじゃないよ。ただ、あのままだと他のお客さんにも迷惑だろうなって」
「……上谷氏は、気になったりしないのですか?」
「…何を?」
「クラスメイトたちが楽しく盛り上がっているところへ自分がやっていって、その時放った一言が冷水みたいにみんなの頭へ浴びせられて、最悪最低な空気になったらどうしよう、とか」
「うーんと…?」
「…要するに、不用意な発言をして、自分のクラス内での立場が危うくならないか心配じゃないのか、という話です」

 首を傾げていると、岩見が要約をしてくれる。上谷は、いつものように軽口を言おうとした。適当にふざけて、そうしたら岩見も同じように返して、それで終わり。けれど。

「…なんかそこまで、自分のことに興味持てないんだよね」
「…興味、ですか」
「うん。なんていうか…この世には、俺よりに優先されるべき人間が、たくさんいるじゃん」

 口から出たのは、そんな言葉だった。言ってしまった後ではっとして、慌てて取り繕う。

「なんちゃって! そんなに難しいこと考えてないよ、俺」
「……失礼ながらわたし、上谷氏のこと、お気楽お天気お祭り野郎だと思っておりましたが」
「やっぱり思ってたんだ…?」
「意外と魔王英雄列伝に登場するシェルティ・V・バーナードのように、陽キャコーティングの根深い曇らせ病みキャラなのかもしれませんな」
「……ごめん、一個も意味がわかんない…」
「上谷氏に対する偏見を訂正し、お詫びします。ごめんなさい。魔王英雄列伝は大変面白い作品なので機会があれば見てくだされ。それでは」

 そこまで言葉を並べると、岩見はぺこりと頭を下げて、その場を離れる。残された上谷しばらく、自分の発言を後悔して、それから部屋を出る前。深水の飲み物も空になっていたことを思い出し、棚から二人分のコップを取り出した。